表現よみの提唱(2)             03・03・21記



   
第二節  表現よみは音声解釈を支柱に指導する



  表現よみは、音声解釈を支柱にします。音声解釈とは、「解釈深めと音
声表現」との弁証法的過程の読解指導をすることです。
  表現よみ指導は、単に文字を音声にする指導、また、うまく読む技術を
身につけさせる指導ではなく、文章内容を読み深め、読み深めた内容を音声
にうまくのせる指導であり、音声を手がかりに、さらに読み深めの話し合い
をして、更により上手な音声表現を求め、音声を手がかりにさらに深い解釈
を探り、これらを繰り返していく弁証法的な進展による読み深めの指導過程
をとります。こうして声を体に感じ、体に響かせながら文章表現を楽しむ、
文章内容を享受する、こうした読解指導を求めるのです。

 「解釈深めと音声表現」この二つが相互にからみあう指導がなく、単にお
題目で、読め、読め、と要求するだけでは、生まれつき音読が上手な子、
1、2名の活躍があっても、学級全員の音声表現能力と解釈深め能力を伸ばす
ことはできないでしょう。音声にすることで、身体まるごと身体に響かせ、
身体の奥底からのリズムの饗応で作品世界を声に響かせて楽しむ言語能力を
高めることはできないでしょう。



         
(1)音声解釈の二つの指導方法


  ○「解釈深めの話し合いから音声表現へ」と
  ○「音声表現から解釈深めの話し合いへ」との二つが、
    音声解釈の指導方法としてあります。



   
(2)「解釈深めの話し合いから音声表現へ」の授業例


 物語文での話し合いでは、事件の流れ、因果関係、人物どおしの関係人物
の気持ちの変化、場面の様子や人物の気持ち、主題などを話し合い、理解を
深めます。そして、場面のイメージや人物の心理感情をありありと浮かべま
す。こうした解釈深めの話し合い学習をした後で、読み深めた内容をどのよ
うに音声表現していくべきか、どの文章部分はどう音声表現していくとよい
か、そのポイントを考えさせ、音読の記号をつけさせたり、音読カードを利
用したりしつつ、実際に音声表現させていきます。
 
これの学習指導案記述の一般的な目標文型は次のようになります。

  ‥‥‥場面の(様子を、気持ちを)・話し合わせて(読み取らせて、想
像させて)・‥‥の雰囲気が声に出る(の様子が声に出る、の気持ちをこめ
て)ように・音読させる(表現よみさせる、音声表現させる)

会話文での目標記述の具体例
○じいさまの気持ちを話し合い、がっかりした気持ちの口調を工夫して音声
表現させる。
○母ぎつねの気持ちを想像させ、それが音声に表れるように音声表現させ
る。

地の文での目標記述の具体例
○遊びの様子を話し合い、楽しい場面が声にあらわれるように工夫させて音
読させる。
○王さまのあわてふためいている様子を叙述に即して読み深め、王さまのと
りみだした行動が表れるように声の緩急・大小の変化に重点をおいて表現よ
みさせる。


     
(3)「音声表現から解釈深めへ」の授業例


 上とは逆で、まず、いきなり文章を音声表現させます。その読み声を材料
に、その読み声を取り上げ、読み声をきっかけにして、解釈深めの話し合い
をしていきます。そして、さらなる上手な読み声を実際に探っていきま
す。--
 ここはこんな場面だから、こんな感じで声に出して読んだほうがよい、こ
こはこんな場面の雰囲気がよく出ていた、この会話文は人物のこんな気持ち
が欠けていた、というように実際の読み声を手がかりに(素材に)して解釈
深めの話し合いをしながら、さらに上手な音声表現を試み、チャレンジして
いきます。この方法は、会話文とか、解釈深めがあまり必要でなく、読めば
すぐ理解できる地の文の文章部分に有効性があり、わたしはそうした利用を
しています。

これの学習指導案記述の一般的な目標文型は次のようになります。

音読を手がかりに(音声表現をさせて、表現よみを通して)・‥‥の場面を
(の様子を、の気持ちを)・話し合う(想像させる、読み取らせる、考えさ
せる)

会話文での目標記述の具体例
○会話文の文末の音声表現を工夫させ、それを手がかりにじいさんの気持ち
を読み深める。
○二人の会話文を役割音読させ、二人の人柄(立場)の違いをはっきりとつ
かませる。

地の文での目標記述の具体例
○「兵十だな」を音読させ、ひとり言であることに気づかせる。「兵十だ
な」に続く地の文の流れは、ごんのひとり言(視点)みたいに、ごんの気持
ちになって音読していくとよいことに気づかせる。
○「くじらぐも」で、「そのときです。いきなり風がーー」の文章部分は速
く、たたみかけて読み、次の「さあ、およぐぞーー空はどこまでもつづきま
す」の文章部分は、ゆっくりのんびり、ゆったりと音声化するとよいことに
気づく。二つの場面の移り変わりを対比的に理解させる。



           
2013・12・30 以下新稿付加


       
(4)表現よみの音声表現のスタイル


 拙著のカセットブック『音読指導の方法と技術』(一光社、1989)に付属
しているカセットテープに、六本の録音テープがついております。その中の
第6巻に表現よみの読み声録音が収録されています。
 第6巻B面に、押しつけよみ、へんな読み癖例、発音の悪い読み声例など、
種々の読み声例の録音が(1)から(8)まで収録されています。児童の読
み声に多くみられるこのような悪しき読み声はぜひ修正指導しておく必要が
あります。読み声例(4)と(5)は、下手というより、むしろ上手な読み
声ですが、思い入れがこもりすぎて、強すぎて、へんな節つけ読みになって
しまっている読み声例です。このようなへんな節つけ読み声も修正すべき指
導の対象になります。折り目正しく、素直な、シンプルな、読み声に修正指
導すべきでしょう。あっさりと読んでいる中にしっかりとしたメリハリのあ
る音声表現に修正指導すべきでしょう。
 つづく読み声例(9)には、児童の表現よみの読み声が収録されています。
へんな読み癖や、節がついてない、つまり朗読音調でない、聞き手意識ゼロ
の表現よみの読み声例が収録されています。2名の児童の「スーホの白い
馬」の表現よみの読み声です。このような読み方が表現よみのすべてだとい
うことではありません。表現よみの読み声にもいろいろな読み声・読み方・
スタイルがあります。ここに収録されている児童2名の読み声はひとつの表
現よみ例でしかありません。これらの読み声は、少しばかり思い入れが強す
ぎてるかなと思われる読み声ですが、まあ、ひとつの表現よみの読み声だと
いってよいでしょう。ここでは、それを耳にすることができます。
 つづく読み声例(10)には、4名の児童の読み声が収録されています。山
中恒「このつぎなあに」を読んでいる読み声です。文章の意味内容の思い入
れのカタマリ(表象と感情のカタマリ)を、アタマの中にいっぱいにして、
それを声にのせよう、押しだそうと努力している、そんな練習期間(レベル
段階)にある読み声例です。4名の児童の読み声には、誰かに聞かせようと
いう意識はありません。意味内容を押し出そうと一生懸命に努力している、
それにのみ集中して音声表現している、それだけが感じとれる読み声です。
上手とは言えません。押し出し意識が強すぎて、起伏がありすぎです。これ
が淡々とした読みの中に出来事がそっと納まっている読み方になると「表現
よみ」のスタイルになります。それに接近していっている一過程の段階とい
えます。練習過程の一段階には、こうした読み声もあるという読み声例です。
 4名の児童の読み声のすぐあとに、一般成人が同一文章箇所「このつぎな
あに」を音声表現している表現よみの読み声が収録されています。読み手は、
下山田允子(日本コトバの会)さんです。聞き手意識ゼロの表現よみの読み
声例です。誰かに聞かせようという意識を前面に出していません。つまり聞
き手意識ゼロの、大人の表現よみの読み声例です。ここで、一般成人の表現
よみの読み声を耳にすることができます。
 わたしは本章全体で、表現よみの特質についていろいろと書いています。
第6、7章では、表現よみと朗読との違いについて詳述しています。読者の
みなさんは、巷間いわれている朗読の読み声と、わたしが主張している表現
よみの読み声とが、どこがどう違うかを、表現よみの実際の読み声で聞き分
けることができるでしょう。2名の児童の「スーホの白い馬」の読み声、下
山田さんの「このつぎなあに」の読み声、二つの読み声で、わたしが本章で
主張している表現よみの読み声の特質について、実際の耳で確かめ、理解す
ることができるでしょう。巷間、「朗読音調」とか「朗読調」といわれてい
る音声表現のしかた、ある種の読み節がついている読み音調、表現よみはそ
れとは違うこと、なるほど違ってるなあ、と感じ取っていただけたらうれし
いです。
  また、第4巻には、児童たち読み声「たぬきの糸車」について日本コト
バの会講師(斎藤郁子、大越ハツエ、荒木茂)の指導助言のことばと、三名
による模範表現よみが録音されています。同じく第5巻には児童たち読み声
「どうぶつの赤ちゃん」について三名による指導助言のことばと、模範表現
よみが収録されてあります。第4巻・第5巻・第6巻には滝田裕介(俳優座
俳優)さんによる児童読み声「大造じいさんとガン」「スーホーの白い馬」
などへの指導助言のことばと、滝田さんによる模範表現よみが収録されてい
ます。


     
 (5)朗読プロの種々の音声表現のスタイル


 多様な読み方、多様な音声表現の型、多様なスタイルがあることはすばら
しいことです。喜ばしいことです。わたしは、シンプルな、素直な、癖のな
い読み方、折り目正しい読みのスタイルを「表現よみ」と呼んでいますが、
そうでない読み方・多様な読みのスタイルは当然にあってしかるべきです。
ラジオやテレビからの朗読の放送、公共建物の舞台で開催されてる朗読公演
会などでは多様な音声表現のスタイルで読まれています。すばらしい音声表
現が発表されています。
 次のような音声表現のスタイルもその例でしょう。

 ・アニメテレビから流れてくる、アニメ読み・劇画調よみがあります。ど
  こか舌ったらずな大げさな語りや読みのスタイルです。
 ・聞き手にわざとおもしろおかしく語って聞かせ、喜んでもらおうとする、
  わざと作った作為的な音声表現のスタイルもあります。
 ・テレビで子ども向け語り聞かせ・読み聞かせ番組では、子どもの興味を
  ひくため、読み手それぞれに独自に工夫したメリハリづけやユニークな
  語り方で上手に語り聞かせる読みスタイルもあります。なかにはへんな
  読み節や、読み音調のついた音声表現のスタイルもあります。
 ・歌舞伎役者や能役者の音声表現では、声をはりあげて朗々とうなるよう
  な謡うようなデクラメーション・スタイルの音声表現もあります。
 ・テレビ映像で、自然の風景を静かに描写し、解説を加えるだけのナレー
  ション調の読み声スタイルもあります。
 ・テレビの報道番組のナレーションで、大事件でもないのに、さも重大事
  件であるかのようにガンガンと声をはりあげ、大げさにメリハリをつけ
  て、あおりたてて語るスタイルの音声表現もあります。
 ・逆に静かに淡々と語っていて聞き手の心にじーんとしみいるように入り
  込んでくる音声表現のスタイルもあります。
 ・特定の読み手(朗読家)には、独特の読み節があって、すべての作品内
  容をその読み節の中にはめこんで音声表現するスタイルもあります。
 ・音訳のボランテアで朗読奉仕している人々の音声表現は、読み手の感情
  を入れることを極力抑える音声表現が求められており、書かれている文
  字(事柄)を淡々と声にのせるだけの読み方がよいとされていている音
  声表現のスタイルもあります。
 ・特定の読み手(朗読家)には、自分独自の読みのスタイルを長い修練の
  結果から創り上げ、完成させた朗読家のユニークなハイレベルな音声表
  現のスタイルもあります。独自の形式美と様式美を完成させた名人読み
  スタイルの音声表現もあります。
 ・一昔前の新劇俳優たちに多くみられるへんな読み節・読み音調を引きず
  っている音声表現のスタイルもあります。
 ・文体と音声表現のスタイルとが既定音調として決定してものもあります。
 「白浪五人男」や「三人吉三」などは歌舞伎の語りスタイルで読まなけれ
  ばなりません。「がまの油売り」は、大道芸の語りスタイルで読まなけ
  ればなりません。
 ・伝統芸能といわれる歌舞伎、小唄、義太夫、落語、講談、詩吟などには、
  それら独自の語り、謡いの既定音調のスタイルをもっています。
 ・人生いろいろ、男もいろいろ、女もいろいろ、音声表現のスタイルもい
  ろいろ、咲き乱れています。すばらしいですね。


 以上、他にもありますが、いろいろな音声表現の型・スタイルがあります。
これら多様な読み声の型・スタイルは歓迎すべきことです。日本語の音声表現
の豊かさは誇るべきことです。
 わたしが本章で主張しているのは、学校教育で児童生徒が手本とすべき読
み声や音声表現のスタイルは、どんな読み声の型・スタイルが望ましいか、
ということです。多様な読み方でよい、とは言えないでしょう。どんな音声
表現の型・スタイルでもよい、多様な読み方を、児童生徒がそれぞれに好き
勝手にどれでもを手本にして、それをモデルにして読んでよい、とはならな
いでしょう。アナーキーであってよい、無軌道かつ無節操な読みの型・スタ
イルであってかまわない、ということにはならないでしょう。学校教育で児
童生徒が文章を読む望ましい標準的な読み声の型・スタイルがあってしかる
べきでしょう。
 わたしは、本章や、その他の章で、表現よみの音声表現の型・スタイル、
また、その指導方法についていろいろと書いています。わたしは、表現よみ
の音声表現のスタイルが、学校教育で指導すべき標準的な、スタンダードな、
手本にすべき読み声だと主張しているのです。



    
(6)音声表現は表現よみでなければならないのか


 音声表現は表現よみでなければならないのか、という疑問を抱かれる方が
おられるのではないでしょうか。いえいえ、そんなことはありません。多様
な読みのスタイルがあってしかるべきです。わたしは、多様な音声表現のし
かた・読み方を否定していません。これは、喜ぶべき、当然のことです。
 ただ、わたしは、学校教育では、児童生徒に指導するときは、表現よみの
音声表現のスタイルを標準的な、スタンダードな読み声として指導すべきだ
と主張しているのです。手本にして指導すべき音声表現のスタイルは、「朗
読音調」とか「朗読調」とか「読み節音調」とか「アニメ音調」とか「デク
ラメーション音調」とかのスタイルではなく、表現よみの音調スタイルであ
るべきだと主張しているのです。もちろん、音声表現のスタイルは文体(文
章内容、書かれ方)によって決定してくる側面が大きいのですが、これにつ
いて書き出すと横道に過大にそれるので、ここでは割愛します。
 学校教育で指導すべき音声表現のスタイルを、基礎基本と応用とに分けれ
ば、表現よみは基礎基本に当たる音声表現のスタイルだということです。
ベーシックとバリエーションとに分ければ、表現よみはベーシックに当たる
音声表現のスタイルだということです。もちろんバリエーションに移行した
ハイレベルの表現よみの音声表現のスタイルも当然にありましょう。
 表現よみは基礎基本の読みのスタイル、ベーシックの読みのスタイルです。
表現よみのスタイルでしっかりと基礎基本をかためたあとで、多様な読み
声・多様な読み方のスタイルへ、多様な音声表現のバリエーションへと発展
させていくようにしていけばよいのです。表現よみの基礎基本から、少なく
とも、義務教育段階の小中学校では、ベーシックな表現よみの読みのスタイ
ルで音声表現の基礎基本を身につけさせておくことが重要です。



     
(7)児童生徒の種々の音声表現のスタイル


 児童生徒の初期の読み声のスタイルには多様な個性的な読み声がある、子
ども一人一人に性格が違うように読み声にも個性がある、だから、その個性
的な多様な読み声のスタイルを伸ばす指導をすべきだ、と主張する意見者が
いるかもしれません。
 これには反対します。それは、個性でも多様でも何でもなくて、ただ下手
なだけです。下手な低い段階の読み声を個性的だ、ユニークだ、多様を尊重
して指導すべきだ、といってはいけません。下手なだけの多様な読み声であ
り、下手なだけの未熟な読み声であり、下手なバラバラさがあるだけで、個
性的と言えるものではありません。指導が始まったばかり、未熟な読み声を、
つまり下手な読み声を、個性とか多様とかユニークとかいうのは、めちゃく
ちゃなご意見です。

 前述(4)で、拙著のカセットブック『音読指導の方法と技術』(一光社、
1989)に付属している第6巻B面に、押しつけよみ、へんな読み癖例、発音
発声の悪い読み声例など、指導を要する種々の読み声例の録音が(1)から
(8)まで収録されています。児童の読み声に多くみられるこのような悪し
き読み声例はベーシック段階できちんと修正指導しておく必要があります。
 音読指導がされてない学級児童たちの実態とその初期指導でおこなわれる
指導内容の主なものは、次のようなものがあります。下記のような未指導の
実態からスタートします。

・とばし読みをする。
・くりかえし読みをする。
・ひろい読みをする。
・読みまちがえをする。
・句読点を無視して読む。間をとることを考えてない。音声表現は間が勝負
 なのです。
・ただ文字ずらをずらずらと声にしているだけである。
・語尾が消えるくせがある。逆に語尾をしゃくりあげる癖がある。
・はじめ読み間違え、つぎに正しく読み出す。
・声が小さく、低く、内にこもった発声で読む。声をのみ込まないで、前へ
 出せ。
・歯切れがわるい発音で読む。一つひとつの発音が不明瞭である。
・二重母音の発音が悪い。鼻濁音が出ない。母音の無声化が出ない。
・苦しい息継ぎ、むりな声の出し方で読んでいる。
・呼吸のしかたがせかせかしている。
・子どもらしい、溌剌とした、元気のいい、天使のような声で読んでほしい。
・間をとらないで、平板な一本調子で、ずらずらと読みすすむだけである。
・文節末や句末や文末で、はねあげ読みをする、伸ばし読みをする。しゃく
 りあげて伸ばす読み方をする。文頭力み、助詞力み、文末力みがある。
・へんな読み癖、読み調子がある。独特の節回し、リズムが出ている。いわ
 ゆる学校読み音調で読んでいる。
・脱字読み、増語読み、置き換え読みをする。
・文字ずらをただずらずらと声にしているだけの読み方である。
・つっかえないで、すらすらと、早口で読むのが上手、と考えている子がいる。
・読み癖だけが前面に出て、意味内容が引込んだ読み方になっている。
・文字を読むことで精一杯で、イメージや感情が浮かんでいない読み方であ
 る。
・思いがたりない。気持ちの高まりが足りない。全くない。
・何を表現したいのか、どう声のメリハリとしてをつけたらよいか、こうし
 た意識が足りない読み方である。作品世界のもつ情趣・情調を、強調すべ
 きものをドーンと大きく前へ出すことだ。


 このような実態は、音読初期指導ではどこの学校の児童生徒にもみられる
読み声でしょう。これを、個性とか多様とかユニークとかいうのは、とんで
もないご意見です。このような初期指導での実態ですから、初期指導から前
記した「朗読プロの種々の音声表現のスタイル」などは出現するはずがあり
ません。プロの読み声の多様性とか個性とかユニークな音声表現とかのスタ
イルは修練の結果から生まれたものですから。初期指導から出現するはずが
ありません。
 学校教育での実態はこうですから、学校での音声表現指導の開始はこうし
た実態から始まります。プロの読み声の多様性とか個性とかユニークな音声
表現のスタイルとかは、はるか遠い存在なのです。
 ですから、わたしが先に紹介したカセット第6巻B面にある、押しつけ読
み、へんな読み声、読み調子をなくす指導から先ずは開始しようと提案です。
こうした音読実態から修正指導を開始していこうということです。
 第6巻B面テープにある、押しつけ読み、へんな読み声、読み調子の実態
は、横浜地域の子どもの録音テープです。このような押しつけ読み、へんな
読み声、読み調子は、ある地域、ない地域とがあります。日本各地域によっ
て、かなり違っています。読み癖の強い地域、殆ど読み癖がない地域があり
ます。
 わたしは、北は青森県から、南は鹿児島県まで、学校校内国語研究会や市
町村小中学校国語研究会の要請を受けて、講師として出張して勉強させてい
ただいていますが、ある県では、ガンガンと高い声を一本調子に張り上げて
読みすすむだけ、昭和初期から敗戦時までよくみられた張り上げのずらずら
一本調子読みで音声表現している小学校がありました。これは埼玉県の小学
校ですが、まったくへんな読み調子がみられない音声表現の小学校もありま
した。そこの校長先生は「荒木先生のおっしゃったような、へんな読み調子
や読み癖は、うちの学校児童にはありませんね。」とおっしゃったのが印象
に残っています。
 発音発声においても、日本は広いですから、鼻濁音がきれいに出る地域、
出ない地域、二重母音がきれいに出る地域、でない地域、母音の無声化がき
きれいに出る地域、出ない地域などもいろいろあります。(これらについて
は、NHK編『日本語発音アクセント辞典』に日本地図による発音分布図が
付いていて詳しい。)
 朗読家には、各人が創り上げた完成されたユニークな独特なハイレベルの
音声表現のスタイルをもっています。このような個性的なユニークな音声表
現のスタイルに到達するには、初期の下積み練習における表現よみの繰り返
し、基礎基本の練習の積み重ねがあったればこそです。ハイレベルに到達す
るには、幾段階かの読みのスタイルの変遷を重ねてそうなったのでしょう。
 こうして個性的でユニークな独自な音声表現のスタイルを完成させたので
児童生徒も、表現よみを積み重ねていくことで、しだいにバリエーションと
して発展させ、自分なりの独自な個性的なユニークな音声表現のスタイルを
創り上げていくようにすればよいのです。学校で初期指導から独自な個性的
なユニークな音声表現のスタイルを指導目標にすることは、むちゃというも
のでしょう。初期実態から段階をおって、手順をふんで、一歩一歩と高めて
いくことが重要です。
 表現よみの音声表現は、児童生徒が初期に手本とすべき基礎基本の音声表
現のスタイルです。表現よみの音声表現は、義務教育段階の小中学校で指導
すべき標準的な、スタンダードな読み声、音声表現のスタイル、手本にすべ
き読み方です。多様な読み声とか個性的な読み声のスタイルとかは、ベーシ
ックを身につけた上で、ここからバリエーションとして開花していくべきも
のでしょう。



  
(8)あいまいな「音読・朗読・表現よみ・語り」の境界領域


 音読、朗読、表現よみ、語りの相互の区別はあいまいです。この四者を区
別しようとしたら、その境界領域にはかなりのあいまい性があります。かり
に10名の読み手が同じ作品を読んだとしたら、その読み声は「音読か、朗
読か、表現よみか、語りか」を判定せよ、と言われたら、10名の判定者が
いたとしたら、かなり違った判定となることでしょう。A判定者は、読み手
Aの読み声を「音読」と判定し、B判定者は、読み手Aの読み声を「朗読」
と判定し、C判定者は、読み手Aの読み声を「表現よみ」と判定し、D判定
者は、読み手Aの読み声を「語り」と判定するということだってあります。
また、E判定者は、読み手Aの読み声を「音読っぽい朗読」と判定し、F判
定者は、読み手Aの読み声を「朗読っぽい語り」と判定し、G判定者は、読
み手Aの読み声を「朗読っぽい表現よみ」と判定することだってあります。
単純に分かりやすく説明するために図式的な言い方をしていますが。もちろ
ん、これははっきりとした音読だ、朗読だ、表現よみだ、語りだ、と判定で
きる読み声もたくさんあります。あいまいな境界領域の音声表現もたくさん
あるということです。
 それは区別の観点があいまいだからというかもしれません。四者「音読、
朗読、表現よみ、語り」の概念規定を定義することはできます。これまで識
者がいろいろと概念規定をしてきました。こうした言葉による概念規定はで
きますが、どんなに観点(区別)を厳密に規定しても、実際の読み声を判定
するとなったら、現実には判定者によってかなり違ってくるはずです。現実
の音声表現はそれだけ豊かであり、融通性やあいまい性をもっているからで
す。四者に「ナレーション」を加えて五者にすれば、その区別のあいまい性
は更に増幅し、いっそう複雑になります。ナレーションは、バリエーション
というよりも、バラエティーに富むといった方がよいかも。それぐらい多様
性に富む音声表現のスタイルがあります
 わたしは、本章で、本HPで、表現よみと朗読との違いをいろいろと書い
ていますが、表現よみと朗読の区別のあいまいな境界領域をもつ音声表現も
たくさんあります。例えば、読み手Bの読み声を、ある判定者は「うーんと
表現よみにちかい朗読」だと判定したリ、ある判定者は「朗読というよりは
表現よみっぽい朗読」と判定したリ、ある判定者は「朗読というよりは表現
よみに重点が移っている表現よみ」と判定したリ、「語りっぽい表現よみ」
と判定したリすることだってあります。ことばの表現の違いでかなりデリ
ケートな判定の違いが表現されることになります。どちらか一方と断定でき
ないデリケートな境界領域の読み声もたくさん出てくるでしょう。音声表現
には、かくも過剰で希薄なあいまい領域があるのです。もちろん、どちらか
一方に、これは朗読だ、表現よみだと、言い切ることのできる音声表現もた
くさんあります。



    
(9)国語教育の「音読、朗読・表現よみ」指導


 国語教育では、これまで音読指導とか朗読指導とかが言われてきました。
国語教育で言われてきた「音読」と「朗読」とは、どう違うのでしょうか。
国語教育辞典とか教育雑誌の音読朗読特集号とかをみれば、いろいろと書か
れています。それをここに引用すればいいのですが、引用する気になりませ
ん。不毛です、時間の無駄だからです。
 一つだけ書けば、「音読は理解行為であり、朗読は表現行為である、」
「音読は自分に向けた理解のためのものであり、朗読は他人に向けた表現の
ためのものである」という意見があります。旧学習指導要領ではこれと同じ
考え方でありました。1年から4年までは音読の理解指導、5・6年生では
朗読の表現指導という領域わけた位置づけになっていました。これについて、
わたしは今から26年前に次のように書いたことがあります。

 現実には、実際の読み声を聞いて、これは理解の段階の音読だ、これは表
現の段階の朗読だ、などと区別がつけられるはずがありません。音声表現は、
すべて「表現」です。理解しつつある過程や、理解した結果を、すべて「表
現」しているのです。理解と表現とは一体化したもので、音声表現はすべて
根底に理解が存在しており、理解したことを音声にのせて表現しているので
す。区別できるという人がいるならば、二者の区別のついた実際の読み声を
聞かせてほしいものです。音声表現においては、理解と表現とが二重性の統
一(弁証法的な相互浸透関係)として存在しているのです。
 最近、学習指導要領の「理解のための音読」「表現のための朗読」にのっ
かって、前者を「理解よみ」、後者を「表現よみ」と呼ぶ人がいます。この
ような区分けによる「表現よみ」と、本書で述べている「表現よみ」とは、
全く異なるので注意しましょう。

      
拙著『音読指導の方法と技術』(1989、一光社)より引用
 
 後者の「表現のための朗読」を「表現よみ」と名付ける、とは、とんでも
ない「表現よみ」の誤解です。「表現よみ」には理解が欠けているかのよう
な認識です。理解なくして表現ができっこありません。表現の根底には理解
があるのです。理解の話し合いを基盤にして表現よみ指導の話し合いや読み
声発表の学習活動が行われてくるのです。理解と表現とは一体になっており、
具体的指導では両者を明白に区別できないし、実際の読み声でも明白に区別
できないし、そんなことにこだわっていては指導がちっともすすみません、
音声表現の学習活動が不能になります。具体的授業では、二つを重ね、積極
的に関連させて、そんなことにはこだわらずに、無頓着に指導することが重
要です。こんな議論をすることは時間の無駄であり、むきになって議論して
も徒労に終わり、生産的ではありません。
 「音読」と「朗読」と「表現よみ」と「語り」の区別についても同じです。
ああだ、こうだと、むきになって議論することは、時間の無駄であり、徒労
に終わり、生産的でありません。どこからどこまでが「音読」か、どこから
が「朗読」か、どこからが「表現よみ」か、どこからが「語り」か、その区
別を具体的な読み声の音声を厳密に区別することは困難です。前述したよう
に「どちらかというと…に重点がある…の読み声だ」とか「…ぽい…だ」と
か「…に近い…だ」とかということば表現はできますが、これも評価者の個
人差による感じでしかありません。
 こうした区別を気にすることなく、まずは「表現よみ」がめざしている音
声表現のスタイルを、理念的なスタイルを目標に授業していけばよいと思い
ます。表現よみのめざすスタイルについては、わたしは本HPや拙著で詳述
しています。

 わたしは、次のようの大きな枠組みを作っておくぐらいの認識でいいと思
っています。学校教育における「黙読」と「音読」と「表現よみ」との区別
の図式的理解についてです。

 黙読(黙って読む)に対する音読(声に出して読む)の二つがある。この
場合の音読は広義の音読である。
 広義の音読には、下位区分として朗読と音読とがある。ここでの朗読と音
読の区分けは、朗読(上手)と音読(下手)という区別である。この場合の
音読(下手)は狭義の音読ということになる。ここの場合の朗読は広義の朗
読である。広義の朗読の中には、下位区分として「表現よみ」音調と、「朗
読」音調と、「語り」音調と、「名人読み」音調の四つがある。「名人読み」
音調とは「名人芸読み音調、芸術読み音調」のことである。

 大きくこれぐらいの枠組みでおさえておき、これら四つの区別とか、境界
領域とかの詮索をすることは時間の無駄です、生産的ではありません。わた
しは、かつて、これについていろいろと詮索したことがありました。徒労に
終わりました。種々に重なっており、将来も重なりのある新しい音声表現の
スタイルが出現することでしょう。
 学校教師としては、表現よみ音声表現のスタイルをめざし、そこで要求さ
れる表現よみの指導方法で指導していくようにすればよいと考えています。
実際の指導では、四つの区別の詮索は指導上の問題としてあがってきません。
表現よみの音声表現のスタイルをめざして指導していけば何ら問題は出てき
ません。

 最後に、今は亡き国語教育学者、朗読指導の論文も多くある二人の学者の
著書に書いてあったことを紹介します。

上甲幹一『朗読とアナウンス』(社会思想社、昭38)には、斎藤美
津子氏の言説に賛同しつつ、朗読を、「学校朗読」と「芸能朗読」の二つに
区分けしています。173p

滑川道夫『読解読書指導論』(東京堂出版、昭45 )には、朗読を、
「教育としての朗読」と「芸術的表現としての朗読」の二つに区分けしてい
ます。81p

  二人の学者に共通してることは、朗読を、一般社会で言われている、いわ
ゆる朗読と、学校教育としての朗読とを違うものとして独立させ、取り立てて
位置づけていることです。時代は下り、わたしは学校教育のそれを「表現よ
み」の音声表現として位置づけて、その特質や、種々の指導方法を提案して
いるわけです。


 なお、「朗読」というコトバは、多様な意味内容に使用されています。そ
のことを、わたしは本HPの第7章「表現よみ教育の歴史・第二部」に下記
のように書いています。上述してきたこと重なってくどくなりますが引用し
ます。

 朗読とは種々雑多な読み音調、すべてを含んで使われております。わたし
たちが主張する「意味内容の表現価だけを音声表現するしかた」の「表現よ
み」も含むが、その他、朗読は、節つけ読み、オーバーな押しつけ読み、口
先の技巧読み、平板な一本調子読み、早口読み、小声読み、メロディアス読
み、陥没読み、へんな読み癖など、音声表現のいらぬ夾雑物、むり、むだ、
不純物などを全て含む音調で使われています。

 巷間では、朗読はこんな使われ方もしています。裁判官が判決文を朗読す
る、検事の調書朗読、衆議院議長の解散詔書の朗読、提案者が議案書を朗読
する、組合で大会宣言を朗読する、結婚式で誓いの言葉を朗読する、聖書の
朗読、詩人が自作詩を朗読、祝辞や弔辞の朗読、などの使い方もあります。
これらの読み音調は文章をたんに音声に変えているだけ、文字をずらずらと
読み上げるだけの音調にしかすぎません。

 現今、これら種々雑多な「朗読」の概念が、学校教育における理想の読み
音調、標準的な読み音調が定まらない原因の一つとなっており、これが音読
指導の停滞を招いている原因ともなっています。上述した種々雑多な「朗
読」の音声表現の仕方が学校における児童の読み声としてどれでもよいとい
うことにはなりません。教室での音読の読み声のありかたが種種雑多であっ
てよい、アナ−キーであってよい、ということにはなりません。
 現在、朗読の概念の内包には、あれもこれもごった混ぜの、多様な、混濁
した意味内容が含まれています。このままでよいということにはなりません。
 学校で児童生徒が身につける(教師が指導する)べき標準的な音声表現の
仕方(音調)があるべきでしょう。学校教育における標準的な(スタンダー
ドな、ノーマルな、基本的な、理想の)音読の読み声(音調)があるはずで
す。これが「表現よみ」なのです。文章の表現価のみに焦点づけて音声表現
の指導をしていこう、そこに焦点をすえ、同時に読解能力も高まる音読指導
(音声解釈、oral interpretation)を指導していこう、こうした理由から
「表現よみ」が主張されています。


             
次へつづく