表現よみの提唱(3)            03・03・21記



     
第三節   聞き手ゼロとは



      
(1)「聞き手ゼロ」の誤解を解く


  わたしは「表現よみ」の一つの特徴として「表現よみは聞き手ゼロで
す」ということを、これまで何度か著書や論文で書いてきました。ところ
が、「聞き手ゼロ」について誤った理解が巷間にあることを知りました。
誤った理解をしている人々は、これまで「朗読」の語を長年、使用し、「朗
読」でメシを食ってきた朗読専門家の一部の方々、また、長年、「朗読」の
語を使用して教室実践を積み重ねてきた年輩教師たちの一部に多くいること
を知りました。

  誤解している人々の意見はこうです。「聞き手ナシの音声表現なんてあ
りゃしない。音声表現は必ず聞き手がいて、読み手が渡し、聞き手が受け取
る伝達行為である。音声表現は、聞き手がいて、読み手は聞き手の反応を感
じ取って、読み手と聞き手との呼吸(共感)が一致し、共同して作品世界を
作り上げる創作行為だ。」というご意見です。
  本稿では、こうした誤った聞き手ゼロの批判ついて、わたしの見解を述
べたいと思います。「聞き手ゼロ」を正しくご理解いただきたく思います。

 表現よみは、聞き手が常時、意識にのぼって、その聞き手をめがけて音声
表現するしかたではありません。通常は、聞き手は背後に退いており、意識
にのぼっているのは作品内部に完結している世界をどうストレートに音声で
表現する(立ち上げる)か、です。そこにのみ集中して(最大限の努力をし
て)いる自己意識です。聞き手は直接には意識にのぼらず、読み手は作品世
界の状況や登場人物たちの行動(心理感情)をありありと音声で現前化する
作業に全力で集中している、そうした意識だけがのぼっている音読です。

 舞台俳優は観客(カメラ)が話し相手ではなく、舞台空間という閉じた戯
曲世界内の出来事を登場人物の一人となって行動し,話し相手は舞台上の人
物同士だけです。舞台内で完結している世界です。それを舞台外で観客はた
だ見ているだけです。

 表現よみも、演じ手(読み手)と観客(聞き手)との関係は同じだといえ
ましょう。観客やカメラを意識して、よく見られたいとか、ウケたいとか、
自己誇示をしたいとか、こうした態度を少しでも意識すれば、それは舞台外
を意識することであり、その音声表現は嘘っぱちになり、作品世界が求める
音声表現を歪めてしまうことは、言をまたないでしょう。

 聞き手ゼロとは、二項対立やデジタル通信の「0」か「1」で作業する情
報処理システムではありません。表現よみには、聞き手意識は微小な存在で
はあるが厳然としてあります。しかし、それは背後に退いていて、前面には
作品世界の解釈と音声表現の相互作用、たえざる覚醒と生起と迷いと決断で
音声実現している運動があるのみです。作品世界の音声投企意識と聞き手(
聴衆、観客)への意識とのあわいきわどさの支え合い・はじきあい・せめぎ
合い・あらがい合いの中で音声表現しているとも言うことができます。しか
し、そこで主調となるのは作品世界の音声投企であることは言うまでもあり
ません。

 読み手の意識の前面にはそうした諸力(運動エネルギー)が互いにぶつ
かったり反発したりしている意識があるだけです。諸力(運動エネルギー)
が均衡状態になって静止していることはありません。もし静止してしまった
ら、音声表現の実現は終止してしまいます。表現よみは総じてこうした暗黙
の、または明示的なルール関係のアミの目にある読み方(音声表現)だと言
えます。

 テレビのワイドショウで、大きな事件がない場合には、取り上げるにたら
ぬ小事件を大きく取り上げて話題つくりをすることになります。例えばタレ
ントの日常生活の小さなトピックスを、さも大事件のように取り上げること
になります。それを伝えるレポーター、映像画面を解説するナレーターの語
り口調は、刺激的なコトバ口調で、大げさに仕立て上げ、声に力を入れ、
しゃべり口調に力点を豊富に入れ,がなり立て、たたみかけて語ることにな
ります。こうした聞き手を意識して過剰に反応した感化的な語り口調は、表
現よみがもっとも嫌うところです。

 表現よみは作品世界の素朴かつ直截な音声表現をひたむきに追求する音声
表現です。表現よみは作品世界の表現価のみを表出する、裸体的な音声表現
です。表現よみは、シンプルをベストとする読み方です。
 シンプルとは、平板(単調)な読み方ということではありません。シンプ
ルとは、粒立てるところはしっかりと粒立てて、そのめりはりが文体(意味
内容)にピタリとはまって浮き上がっている、そうした音声表現のことです。

 表現よみの読み方は、やがて芸術読みとか話芸とか絶品とか、高度に美的
な音声表現へと変容(発展)していくベースになる読み方です。表現読みは、
高度に美的な音声表現へ発展していく基礎基本であり、そこへ到達するのに
必ず経過すべき基礎としての音声表現のしかたのことです。



       
(2)表現よみは聞き手を意識する


  表現よみは聞き手ナシではありません。表現よみは聞き手を意識して、
聞き手に向けてする音声表現です。表現よみは作品世界が聞き手によく伝わ
るにはどう音声表現すればよいか、その音声技術を種々に工夫して音声表現
するしかたです。表現よみは、聞き手が作品世界の出来事にどっぷりとひた
り、作品世界に感動するためにどう音声表現すればよいかに気をつかう読み
方です。また、その作品の文学的表現、つまりコトバ表現の美的な組み合わ
せのすばらしさに感動し、それを味わってもらうために種々の工夫をして音
声表現するしかたです。

  しかし、聞き手を意識するからといって、聞き手に媚びた音声表現はし
ません。表現よみは、聞き手を喜ばせたり悲しませたりしようとして故意に
オーバーな表情のつけすぎをすることを嫌います。表現よみは、聞き手を意
識して、誇張した、過剰な音声表現を嫌います。聞き手に分かりやすく理解
(受け取り)させようとして、わざとらしい無理な表情のつけすぎを嫌いま
す。表現よみは、聞き手の「受け」をねらった、ここでこう盛り上げて笑い
をさそおう、涙をさそおう、という挑発的で派手に聞き手にけしかける音声
表現を嫌います。聞き手をまきこみ、エキサイトさせるため、読み手の見て
くれの個人的なパフォーマンス(語り、振り、動作)を嫌います。

  これらは聞き手を意識しすぎた音声表現です。聞き手を意識しすぎる
と、どうしても過剰な音声表現になりがちです。聞き手に媚びた、聞き手の
「受け」をねらった、空芝居じみた、嫌味な音声表現になりがちです。聞き
手意識過剰な音声表現は、作品世界がもつ真実感(リアリティー)からかけ
離れ、空疎に聞こえ、鼻について聞くに耐えない嫌味な音声表現になりま
す。耳の肥えた聞き手たちからは軽蔑され、途中で放り投げられてしまうで
しょう。表現よみは、こうした聞き手を意識しすぎた音声表現のしかたを警
戒し、用心します。



(3)表現よみはエンターテインメント(娯楽)かつアート(芸術)


   
の基礎だ


  表現よみは読み手の個人芸を全面に押し出すパフォーマンスではありま
せん。表現よみは、見世物(聞かせ物)として聞き手(観客)に突きつけ、
大げさで派手な語り方で聞き手(観客)を呼び込み、呼び込んだ聞き手(観
客)を作品世界に引きずり込もうとしてさらに媚びた音声表現をする、これ
とは全くの反対物です。

  表現よみは、テレビのワイドショーで語られる三面記事の大げさなナ
レーションの語り方ではありません。ワイドショーでは、小さな出来事(社
会ニュース、芸能ニュース)を、針小棒大にあおって大げさに語り立てる説
明をします。さも地球が明日にでもひっくり返りそうなド派手でオーバーな
ナレーションの語り口です。視聴率拡大のせいでしょう。
 表現よみは、こうした聞き手を楽しませようとして興味本位に語りかける
音声表現とは無縁です。表現よみは、挑発的かつスキャンダラスに語る音声
表現とは全くの反対物です。

  「読み聞かせ」とか「語り」とかいわれる朗読の一種の語り方がありま
す。これらは聞き手(観客)を意識し、聞き手(観客)に媚び、聞き手(観
客)の反応に応答しつつ語り方を臨機に変えていきます。「読み聞かせ」や
「語り」の語り口は、聞き手(観客)を作品世界にいかに引き込むか、いか
に楽しませるかに神経を集中して音声表現します。ときには聞き手(観客)
の出方しだい、興味ののり方しだいで、作品内容(文章)も変えたりします。

  聞き手を意識し、聞き手へのサービスが過剰になると、どうしても音声
表現のしかたは派手になり、芝居たっぷりとなり、高じて嘘っぱちになり、
露悪的かつ色彩豊かな厚化粧、猥雑かつ俗悪な音声表現になってしまいま
す。厚化粧も度が過ぎるとグロテスクになりますし、テレビの視聴率を気に
して視聴者(聞き手、観客)に媚びると、ワイドショーのようなド派手な
嘘っぱちなナレーションになってしまいます。このような過剰な聞き手意識
には、十分に警戒し、気をつかう必要があります。

  表現よみは、あえてテレビ番組の音声表現でいえば、ニュースの時間の
ニュースの読み方、これに当たります。「シンプル イズ ベスト」を至上
とする読み方です。表現よみは、だれにも分かりやすく伝わる読み方、淡々
と端正かつ折り目正しい読み方、そしてちょっぴり薄化粧(厚化粧ではあり
ません)で色づけして読む音声表現のしかたです。

  現今、テレビやラジオから聞こえてくるニュースの読みは殆んどがシン
プルを至上とした語り口です。たまにですが聞き手意識がややアリの読み方
もみられることがあります。三宅民夫(NHK)アナウンサーのニュースの
読みは、聞き手への配慮がていねい過ぎ、分からせようとする念押しのよう
な力みのアクセントの語り口が少しばかりみられます。膳場貴子(NHK)ア
ナウンサーのニュースの語りは、とてもシンプルでいいんですが、ときたま
やや発音不明瞭、やや歯切れのわるい発音がみられることがあります。
   シンプルを至上としたニュース読みの代表は、井田由美(日本テレ
ビ)アナウンサーでしょう。抑制をきかせて、力まず、気張らず、淡々と事
実を伝えるだけの語り口、そこには冷たさの中に気品と色気と雅趣と風格が
感じられ、「ぼくは好き」です。

  「ゴール、ゴール、ゴール!」。二十八回のゴール連呼が物議をかもし
たのは2000年のシドニー・オリンピックのサッカー予選のときのアナウ
ンスです。日本テレビの男性アナの絶叫には、同局だけでなく、BSで同じ
映像を放送していたNHKにも苦情が殺到したそうです。「興奮の押し売り
だ」「冷静に状況を伝えるのがアナの役目だ」など、こうした絶叫節のアナ
ウンスに視聴者の批判が殺到したとのことです。
  朗読とは「劇読」(ドラマテック・リーデング)だ、という意見があり
ます。もし「劇読」の意味が「ゴール、ゴール」の連呼のような音声表現だ
とすると、この意見に賛成はできません。

  表現よみは、こうした「ゴール」を連呼する聞き手を意識し、聞き手に
これでもかと媚びて挑発するような音声表現を最も嫌います。井田由美アナ
のように淡々と気張らずに読んで、腹の底までにしっとりと届く、かつ気品
と色気と風格を備えた音声表現を、表現よみは目標とします。
  小中学校の国語の授業で教師が指導すべき標準的な、スタンダードな文
章の読み声の音調は、「ゴールを連呼するオーバーで挑発する読み方でな
く、文章内容の音価を表現的に音声表現する、そこにこだわった「表現よ
み」の読み方だと言えましょう。

  この「表現よみ」が職業話し家たちの芸術的(アート)な読み方・語り
方へと、そして娯楽的(エンターテインメント)な読み方・語り方へと、
双方向に発展していくことになります。「表現よみ」は、これらへ導くベー
シックな読み方です。小中学校で指導する音声表現のありりかたは、こうし
た双方向に発展していくベーシックな表現よみの音声表現の仕方であるべき
でしょう。


     
(4)聞き手意識の「ゼロ」と「ナシ」とは違う


  「聞き手意識ゼロ」とは、「聞き手意識ナシ」ではありません。表現
よみは、「聞き手意識ゼロ」であって、「聞き手意識ナシ」ではないのです。
「聞き手意識ゼロ」の「ゼロ」とは、存在の「アル、ナシ」ではなく、「運
動のゼロ地点」という意味なのです。

  表現よみは、聞き手意識アリです。しかし、これまで書いたように聞き
手を意識すると、どうしても聞き手意識過剰なサービス、聞き手に媚びた音
声表現になりがちです。だから、表現よみでは、音声表現している途上では
聞き手を意識から消して(次のような言い方もできよう。聞き手を意識から
ぐっと後退させて。聞き手を意識の下方に落として、しかも、音声表現の基
本骨格を支える潜在物としての聞き手は存在している)いるような音声表現
です。

 音声表現している意識の前面には作品世界をどう解釈し、作品の意味内容
をどんな音声化技術で表現していくか、それのみに全神経を集中します。読
み手はまず作品世界の劇空間の中に身を置き、没入して行動し、聞き手(観
客)のことは置いといて、作品世界の出来事のみに音声表現を集中していき
ます。聞き手にどう受け入れられるかでなく、作品世界の時空間(出来事)
そのものについての音声による創造にのみに意識を集中していきます。スタ
ニスラフスキーはこれを「公開の孤独」と呼んでいます。

  つまり、表現よみでは聞き手を意識した、聞き手への音声による「伝達
性」よりは、作品世界そのものの「表現性(創造性)」を重視した音声表現
を優先します。重要なことは、読み手は作品世界を聞き手(観客)を意識して
「聞かせる」のでなく、また「見せる」のでもなく、作品世界の劇的な時空
の中にわが身を落とし、根づかせ、没入して、その劇空間を「生きる」「生
活する」「実存する」ことで音声表現することです。作品世界の中にどっぷ
りとわが身を置き、切実な内面的かつ心理的・感情的かつ力動的な実存生活
をしていく中で音声表現していくことです。
  それ故、学校教育における音読指導ではこれらに重点をおき、これらを
目標にした授業をしていくことになります。

  このように実際に表現よみしている(声を出して読んでいる)途上で
は、前面に作品世界の声による表現(創造)に全神経を集中します。このと
き、聞き手(観客)は完全に忘れ去られているわけではありません。音声表
現している途上では、潜在している聞き手(観客)が時々頭をもたげて顔を
出し、「オレのことを考えろ。そんな読み方ではだめだ。分かりにくい。も
っとよい音声表現のしかたを工夫せよ」と現れ出てきます。これは「読んで
いる自分」と「聞いている自分」とに分ければ「聞いている自分・聞き手と
しての自分」の自己意識でもあります。それで読み手「読んでいる自分」は
これら聞き手(観客)にも気を使い、これらに統制されて声に出して読んで
いくことになります。
  実際の音声表現では、これら両者(どっぷりと作品世界に没入した音声
創造と、聞き手への配慮)に引きずられコントロールされ、両者を調整しな
がら、声に出して読んでいくことになります。これが表現よみの「運動のゼ
ロ地点」の場所ということになります。



         
(5)運動のゼロ地点だ


  表現よみの「運動のゼロ地点」の「運動」とは、読み進めている途上
の、これら両者を行き来している意識の運動状態のことをさします。振り子
の振れで比喩的にいえば、振れが聞き手意識の方向に大きく振れすぎると、
それは聞き手意識のサービス過剰なオーバーな音声表現になります。演じす
ぎ、作りすぎ、空芝居がかった嘘っぱちの音声表現になります。

  振れが作品世界に没入した音声創造の方向に大きく振れていれば、完成
した音声表現になるかというと、どっこいそうはなりません。上達段階とい
うものがあります。振れが作品世界の創造にどっぷりとはまって読んでいて
も、初心者はうまく作品世界の創造に音声がうまくのっかてくれません。自
己陶酔した、自分だけがいい気分になった客観性のない読み方になりがちで
す。読んでいる本人は上手に読んでいるつもりでも、テープ録音したものを
聞き直したり、また他者(聞き手、聴衆)の耳にはどうしよもなく下手な読
み方に聞こえたりもします。読み手の意図するように音声がうまくのっかる
には、他者(聞き手、聴衆)の意見を取り入れ、厳しい共同助言をたくさん
受けながら、繰り返して練習していく、こうした絶えざる練習の成果によっ
て、その音声表現は上手な読み方、客観性のあるものになっていくのです。



    
(6)「聞き手アリ、そしてナシ」の運動地点だ


  表現よみしている(声に出して読んでいる)途上の読み手の意識は、第
一義的には作品世界にどっぷりとはまり、作品世界の音声創造にのみ集中
し、少しでも下手さを克服しよう、上手に読もう、と努力している意識で
す。他方には、聞き手(観客)を意識し、聞き手(観客)に分かりやすく伝
えよう、かつ深い感銘を与えようとサービスを加味する意識もあります。
  この両者の中間位置にあって、両方向の左右に振れ(進み)つつ、同時
に両者の中間の位置(運動のゼロ地点)に常時留まろうとしている意識が働
いています。大げさ、むり、むだを省いて、自然に、素直に、ありありと、
生き生きと、情感性をそえて作品世界を素直に音声表現しようと努力してい
る意識があります。

 聞き手へのサービス過剰をセーブし、これまでの音声表現よりは特段に上
手な音声表現をしようと努力している意識があります。大げさ、やり過ぎ、
口先の技巧、独りよがり、節つけなどの夾雑物、むり、不純物を取り払っ
て、澄んだ声で、淡々と、さらりと、気張らず、嫌味なく、メリハリのある
情感性に富む、意味世界だけが立体的に、前面にポンと出る読み方にしよう
と努力している意識があります。

  聞き手ゼロとは、「聞き手アリ、そしてナシ」の弁証法的な運動状態に
あるということです。「アリ」と「ナシ」とがきわどく重なり、微妙に隣接
し、不連続の連続という矛盾的統一の運動地点にあるということです。聞き
手(観衆)に「不即不離」(つかずはなれず)、「合不合」(あうあわず)
の境地で音声表現するということです。
  読み手の音声表現は、このゼロ地点を基点として開示される可塑的な想
像世界の触発による覚醒と生成、その胎生から絶えず自立的かつ志向的に作
動する運動地点にある伸長と延長と抑制の想像身体の境地における音声表現
であるとも言えます。

  聞き手ゼロとは、静止点のことではありません。中間の位置で静止して
いるように見えることもありますが、それは両者の力のバランスが拮抗して
いるためにあたかも静止しているように見えるに過ぎないのです。実際は運
動しているのです。両者の力の拮抗関係の中で意識がどちらの方向に、どれ
ぐらい振れているか、中間位置で留まっているようにみえるか、振れが大き
いかによって、その音声表現はさまざまな時空世界を作って微妙な現れ方を
することになります。

  聞き手ゼロにおけるアリとナシの両者のゆれで、聞き手アリの方向にゆ
れが進むと、「語り」の読み方に少しずつ接近していきます。「語り」の
読み方にほんのちょっぴり接近した音声表現にラジオやテレビのニュース
放送の語り方(読み方)があります。ニュース放送が少しずつ聞き手(聴衆)
を意識した「語り」の音声表現、つまり聞き手へのサービスが少しずつふく
らんだ「語り方」になっていくと、「ナレーション」「読み聞かせ」「ブッ
クトーク」「紙芝居」「紙人形シアター」などの語り方になっていきます。
これら聞き手を前面にたてた「語り方」は、表現よみの聞き手ゼロの音声表
現からは少しずつ乖離していきます。
  聞き手を明確に大きく意識した「語り」の音声表現には、「落語」や
「講談」や「漫談」や「漫才」や「大道芸」の語り方があります。これらは、
「語り芸」と言われ、聞き手(聴衆)を喜ばせ、聞き手(聴衆)楽しませる
独特な洗練された語り方のスタイルを持っています。



       
(7)聞き手のある文体、ない文体


  これまでは、声に出して読んでいる途上の、または下読みしている途上
の読み手の心理に現れる二者の力動関係について書いてきました。次に、聞
き手意識と文体のもつ語り口との関係について書きます。

  聞き手意識は、文体のもつ語り口によって変化してきます。基本的に
は、音声表現における聞き手への配慮は文体のもつ語り口によって決定され
ます。つまり、語り手の位置(視点)によって変化します。語り手がどこに
目を置き、どこから見て、どんな気持ちで、どう語っているかによって、
種々なパースペクティヴな見え方(語り方)を形成し、聞き手意識の軽重が
出てきて、いろいろと音声表現のしかたが変化してきます。
  本ホームページの「上手な地の文の読み方」の章に書いてあったことを
思い出してください。そこでは、語り手の位置(視点)と地の文の音声表現
の仕方の関係について詳述してあります。

  語り手が一人称人物の場合、この作品では、語り手が聞き手に向って直
接に語り聞かせている語り文体になっています。読み手は、一人称人物の目
や気持ちに入りこんで、作中人物の聞き手に向って直接に語り聞かせている
音声表現になります。そこで文例としてあげた、森はな作『じろはったん』
でいえば、読み手は、一人称で登場する人物「わし(おばあさん)」の目や
気持ちに入りこんで、作中の聞き手人物として登場している孫の「広樹」に
直接に語っているように音声表現しなければなりません。

  この語り全体を聞いている実在している「聞き手、聴衆、観客」は、
「わし」と「広樹」とで構成している時空世界の場面(シチュエーション)
全体を対象化して鑑賞していくことになります。時には作中人物に同化して
作品世界に我を忘れて引き入れられ、時に対象化して感想批評を持ちながら
聞き、逆に読み手はこれら聞き手の反応(息づかい)を感じとりながら読み
進めていくことになります。

  三人称人物だけが登場する作品の中には、語り手や登場人物の目や気持
ちがひっこんだ地の文の作品があります。この作品では、語り手は、作品
世界の背後に退き、作品世界の中に登場してきません。語り手の話を聞く直
接の聞き手も登場してきません。つまり、作中人物の聞き手はいません。聞
き手には無頓着で読み進めていくことになります。語り手は作品世界の中に
身をおかず、外にいて、外から作品世界を淡々と紹介するだけ、説明するだ
けの読み方になります。作品場面をポンと前へ声で置くだけの音声表現にな
ります。

  今西祐行作『一つの花』でさらに述べてみましょう。この作品は聞き手
を意識した語り文体にはなっていません。ですから、これに気をつかって
読む必要はありません。三人称客観の文体ですから、ゆみ子たち一家にお
こった出来事(事実)を、読み手は外から、淡々と説明し紹介するだけの音
声表現になるます。作品世界でくりひろげられているゆみ子一家の戦争中
の出来事の流れを、そっくりそのまま、ポンと前へ差し出すつもりの音声表
現にすることになります。

  この語り全体を聞いている実在する「聞き手、聴衆、観客」は、客観的
に差し出されたゆみ子一家の出来事、その時空世界全体の場面を、切実な事
実として対象化して鑑賞していくことになります。同化するよりは異化して
聞いていくことが多い文体です。読み手はこれら聞き手の反応(息づかい)
を感じとりながら読み進めていくことになります。



         
(8)その他、つけたし


  なお、聞き手意識といった場合、音声表現している場がどんなかによっ
ても大きく変化します。その場に聴衆がいるか、いないか。聴衆がいる場合、
聴衆が、一人か、二人か、小人数か、大人数か。独話の会話文でも話し相
手がいることを想定してしゃべっているか、話し相手なしの全くの独り言か
、によっても音声表現の仕方は大きく変化します。
  聞き手(聴衆)が一人であっても、相手が、赤ちゃんか、幼児か、小学
生か、青年か、大人か、男か女か、社会的関係はどうか、愛情関係はどうか、
などによっても音声表現の仕方は大きく変化します。フォーマルな場所か、
親密かつくだけた関係の場所か、場所の広さはどうか、対話者同士の距離は
どうか、などによっても音声表現のありかたは変化してきます。



           
(9)参考資料


  安房直子(児童文学作家)さんの文章を読んでいたら、安房さんが物語
を執筆しているプロセスで、読者を意識して書いているか、読者を意識して
いないか、について書いている文章がありました。一部引用します。

ーーーーー引用開始ーーーーーーーー
  
 「どうして童話を書くのですか。誰のために、童話を書くのですか」とい
う質問を受けた時、以前は、困ったものでした。(略)
  そのうちに、この事を、ひとりでゆっくり考える機会があって、その結
果、「私は、童話が大好きだから、誰のためでもなく、自分のために書いて
いるのです」と、答えるようになりました。すると、そのあとは、とてもい
い気持ちで、背筋をしゃんと伸ばして、原稿が書けるようになりました。自
分は、終生、この姿勢で、童話を書いて行こうと、滑稽なほど気負って、幼
年童話でも、「大人のメルヘン」でも、同じ様に書き続けてきました。読者
の目は、全く意識せず、自分の書きたいように書いてみて、その結果、共感
してくれる人がいたら、それでいいのだと思ってみました。
  ところが、この信念に、このごろふと、疑いをもつようになったのです。
  読者を全く意識せずに書いてきたつもりが、しらずしらず、「読み手の
目」を、ちゃんと考えていた自分に気づいたからです。
  たとえば、奇想天外な、どんでんがえしを思いついた時。読者が、はっ
と息をのむその一瞬を、私は、はっきり計算していましたし、幼年向けの、
ユーモラスな物語を書いている時は、笑いころげる子供の顔を、思い浮かべ
なかったと言ったら、嘘になります。魔法の話を書いた時は、その手法が、
客観的にみて、効果があったろうかと、ひそかに気になりました。
  安房直子「誰のために」(『木の花』創刊号。80年3月)より引用。

ーーーーー引用終了ーーーーーーーー

  上記の安房直子さんの文章を読んで、わたしは次のように感じました。
  作家が物語を創作している道中の読者意識は、表現よみで音声表現して
いる道中の聞き手意識ゼロと同じだなあと感じました。読者意識アリ・ナシ
へのきわどい揺れ、ちょっと、たまに、どちらかに大きく傾く寸時はあって
も、通常は読者意識ゼロのぼんやりした、希薄な意識、あわいゆらぎの中で
執筆しているのだなあ、執筆中は作品世界のテーマの追求と形象の創造のみ
に意識を集中して執筆しているのだなあ、通常は読者を意識していないのだ
なあ、これは表現よみをしている道中の聞き手意識ゼロと同じだなあ、表現
よみの聞き手意識・物語執筆時の読者意識は、共にほのかに淡く希薄な対立
と拮抗の、運動のゼロ地点にあるのだな、そのようにわたしは理解しました。


           
 次へつづく