2010.12.6記



       読書から落穂ひろい



  わたしが本を読んでいる中で出会った、「これはおもしろい」、「へえ
そうなの」、「なるほどね」「考えさせられる事柄だ」「教えられる事柄
だ」などと思った、やや週刊誌的興味のエピソードを下記に幾つか拾い上げ
て引用しています。わたしのコメントも添えています。わたしの自分勝手な
選択による週刊誌的興味による引用文とコメントです。

     目次  子どもにうける笑話
         「オバアサン」が赤ちゃんを産む?
         裸形の哲学者・中井正一
         教師のほめ言葉で作家になるきっかけ




        
子どもにうける笑話



  下記の三つの笑話を、あなたの学級児童に話して聞かせてみよう。きっ
と、げらげらと大声をだして笑い合い、学級がもりあがることでしょう。
  下記の笑話を紹介している執筆者は、桑原武夫(京都大教授、文化勲章
受章)さんです。『土井光知著作集』(岩波書店、1977)月報4に桑原さん
が書いている文章の一部分です。若かりし桑原さんが、同僚先輩教授であっ
土井光知(英文学者、東北大教授)さんの思い出を紹介している文章から
の引用です。

ーーーーー引用開始ーーーーー
  戦中戦後の五年間を仙台で過ごすことができたのは、私にとって本当に
仕合せだったが、幸運にも恐らく最大のものは、土井光知先生にめぐり会え
たことであった。東北大学法文学部で、空襲で焼けるまで研究室がお隣りだ
ったほかに、アメリカ占領軍に立派なお宅が接収されてお困りだった先生ご
夫妻を、近くで少し広かった拙宅にお迎えして、八か月ばかり同居生活をし
たことがあって、いっそう親しくしていただいたのであった。
  いつかナンセンス・ポエムのことを話題にされた時、先生は同じパター
ンの繰り返しは快感を与えるものであり、幼児は特に喜ぶといって、私の記
憶は不正確だが、「カエルが石の上から水の中へ飛び込んだ、ジャブン。次
のカエルが石の上から水の中へ飛び込んだ、ジャブン………」
  これを五、六回も繰り返すと、子どもはきっと笑いますよ、と言って、
そばにいた私の子どもに試みられたが、成功だった。それではというので、
次の実験が始まった。
「 イヌのワン吉が、ワンワンのワンコロリンのワンワンワンと鳴いた。
  ねこのニャン吉が、ニャンニャンのニャンコロリンのニャンコロリンニ
  ャンニャンニャンと鳴いた。」
 以下、ネズミのチュウ吉、ブタのブウ吉、ウシのモウ吉、等等とつづくの
だが、幼児はキャッキャと笑うのだった。先生はいつも実験精神が旺盛だっ
た。
      『土井光知著作集』(岩波書店、1977)月報4より引用。
ーーーーー引用終了ーーーーー

【荒木のコメント】
  この話は、わたしの学級児童たちも、たいへんに盛り上がり、喜びまし
た。もし、子どもたちが仏頂面していたら、それはあなたの語り方・音声表
現の仕方がまずいからです。テクニックの一つは、動物の鳴き声をおもしろ
おかしく、大げさに表現してみましょう。また、間をあけて語りましょう。
少し長めの間をあけると、そこで子ども達は目をさらにして教師を見つめ、
次に何を語るか、集中して聞くようになるでしょう。
 わたしが現場教師だったとき、学級児童に話し、たいへんに子どもたちに
うけた小話があります。それを二つ紹介します。出典は、テレビかラジオで
お笑いタレントが語っていた笑話です。いいかげんに子供向けに荒木が作り
変えています。
【その1】
 
「バスの中にお客が8人乗っていました。バスがバス停にきて、1人おり
て、3人のりました。次のバス停で3人おりて、2人のりました。次のバス
停で1人おりて、2人のりました。次のバス停で5人おりて、4人のりまし
た。次のバス停で、1人おりて、2人のりました。次のバス停で、4人おり
て、のる人はいませんでした。ハイ、問題です。バス停は、幾つ通ってきま
したか。みんなでいくつ言いましたか。」
 (注記)教師が話している途中で児童がバス車内の人数を数え出したらし
めたものです。ゆっくりと、計算ができるぐらいの速さで語って聞かせまし
ょう。この笑話は、バス停の数を数えなければいけなかったところにどんで
ん返しのおもしろさがあります。

【その2】
 先生は君達が何を考えているかピタリと当てるゲームをします。
 先生は君達が思った数字を聞かないで当てちゃうということをやります。
 はい、ミュージック、スタート。踊りたくなってきましたね。
 誰にも言わないで、自分で心で好きな数字を思いこんでください。この数
字は、誰にも言っちゃだめだよ。あんまり難しい数字を思うと、自分で分か
んなくなっちゃうから、8とか6とか4とか、簡単な数字にしましょう。 
 じゃ、好きな数字、思い浮かべましたか。
 そしたら、その思った数字に5をたしてください。5をたしましたか。
 そしたら、合計(答え)がでますね。その答えの数字に3をたしてくださ
い。たしましたか。いいですね。
 そしたら、その数字に2をたしてください。
 そしたら、最初に心の中に思った数字を、その中から引いてください。誰
にも言っちゃだめだよ。引きましたね。
 そしたら、その数字の中から、また、3を引いてください。
 簡単な足し算だから、1年生も2年生もできるね。引きましたね。
 はい、ミュージック、ストップです。
 君達が思っている数字を、先生がピタリと当てますよ。今日は、不思議な
ことに全員が同じ数字を心の中に思っているんですよね。いきますよ。
 いいですか。7ですね。はい、当たりましたね。拍手してください。割れ
るような拍手をしてください。7で間違いなかったですね。あまり深く考え
ないほうがいいですよ。隣の人と話さないでくださいね。


【教師によるもうひと押しの語り】
教師「いまの話、おもしろかったですか」
児A「とってもおもしろかったです」
児B「とってもおもしろかったです。だけど、先生は、わざとぼくたちをだ
   ましていて、ずるい」
児C「ちっともおもしろくなかったです。」
教師「なぜ?」
児C「ぼくたちをわなにかけている話だからです」
教師「先生は、みなさんをだましてなんか、いません。絶対にわなになんか
   かけていませんよ」
(教師は児童にこう話して、けしかける。児童をカッカッさせる)
教師
「どこが、みなさんを、わなにかけている話なんですか。じゃあ、問題
   を出します。
   今の先生の話で、みなさんをわなにかけているところがあるとすれば
   どんなところですか。
   今の話の、どこが、みなさんをだましているところですか。
   さあ、手を挙げて、どしどし発表しましょう」
(これは、児童生徒の論理的思考を鍛えるのによい教材です。筋道をつけ
て論理的に説明させます。高学年や中学生には「だましの仕掛けはどこにあ
 るか」を説明する簡単な文章を書かせるのもよいでしょう)


「論理語い」の指導
(教師が次を板書して一斉音読させるだけでもよい。学年の発達段階に応じ
 て指導方法を変える)

(だましの)「仕掛け」「わな」「装置」「からくり」はどこにありますか。
(相手をおとしいれる)「計略」「策略」「しくみ」はどこにありますか。
(だましの)「テクニックのうまさ」は、どこにありますか。
 さあ、だましの「トリックを見破る」発表をしていきましょう。

「だます」の類義語(類語とも言う)
 まるめこむ。引っかける。たぶらかす。陥れる。ごまかす。だまくらかす。
 わなにかける。いつわる。化かす。まやかす。あざむく。ペテンにかける。
 かつぐ。はかる。はめる。はめこむ。




 
「オバアサン」が赤ちゃんを産む?



  昔話というものは、だいたいが「むかし、むかし、おじいさんとあばあ
さんがありました。」で始まるのが多いです。「ももたろう」「したきりす
ずめ」「ちからたろう」などがそうです。「いっすんぼうし」の昔話もそう
です。「いっすんぼうし」の昔話について、向田邦子(作家)さんが、ちょ
っとした疑義を呈している文章がありました。
  下記は、彼女の名著『父の詫び状』(文芸春秋社、1978)からの引
用です。

ーーーーー引用開始ーーーーー
 お伽噺というのは、大人になってから読むほうが面白い。
手許に、古本屋で見つけた昭和十年の尋常科用小学国語読本巻三があるので、
開いてみる。

     一寸ボフシ
 オヂイサン ト オバアサン ガ アリマシタ。
 子ドモ ガ ナイ ノデ
 「ドウゾ 子ドモ ヲ 一人 オサヅケクダサイ」。
 ト、神サマ ニ オネガヒ シマシタ。 男ノ子 ガ 生レマシタ。 小
指 グライ ノ 大キサ デシタ。 アンマリ 小サイ ノデ、 一寸ボフ
シ  トイフ名 ヲ   ツケマシタ。

  ここまで読んで、子どもの頃には気づかなかったことに気づいてドキッ
とする。一寸法師の母親は、おばあさんだった。おばあさんというのは、絶
対に子どもを生まないものだと思っていたが、例外もあるらしい。
  小指ぐらいの大きさなら、未熟児だったのか。この時、おばあさんは幾
つだったのだろう。恥かきっ子といわれ、きまりの悪い思いをしたのではな
いか。それにしても、この国語読本を書いた作者はなかなかの文章家である。
  オバアサン ハ 男ノ子 ヲ 生ミマシタ。
 という直接的な表現をせず、
 神サマ ニ オネガヒ シマシタ。 男ノ子 ガ 生マレマシタ。
 まるで、神様が生んだように品よくぼかしている。昔の子どもはおくてだ
ったせいか、何も不思議に思わず、大きな声で朗読していた。今から考え
れば、子どもを生める年なら、
 オジサン ト オバサン ガ アリマシタ。
 というほうが正しいように思うが、お伽噺にはオジサンとオバサンよりも
オジイサンとオバアサンのほうが似合うのであろう。
 そういえば、日本のお伽噺の主人公は殆どが老人である。「一寸法師」
「桃太郎」「浦島太郎」「かぐや姫」「こぶ取り」「「かちかち山」「花さ
かじいさん」。
 いずれも、おじいさんとおばあさんと赤んぼうであり、老人たちと身近な
動物達のメルヘンである。血気盛んな壮年男女は殆ど姿を見せていない。
  したがって外国のお伽噺のように、美しい姫様と凛々しい騎士のロマン
スは、かぐや姫にほんの少し匂うぐらいで、あとは色模様は抜きである。そ
のせいだろうか、異形の者が登場し、SFや超能力、裏切りから人殺しまで
行われても、さほど陰惨な感じがしない。よく考えてみると、実に恐ろしい
話が多いのだが。
 「昔々あるところにおじいさんとおばあさんがありました。」というお決
まりの語り口の中で、生臭い血にの匂いは消えてしまうのであろう。
     向田邦子 『父の詫び状』(文芸春秋社、1978)より引用
ーーーーー引用終了ーーーーー

【荒木のコメント】
  昔は、平均寿命が40歳代、50歳代ということもあったようです。厚
生省「簡易生命表」の資料によれば、平均寿命が明治22年は男42,8才、
女44,3才となっています。昭和10年は男46,9才、女49,6才と
なっています。昭和22年は男50,0才、女53,9才となっています。
平成20年は男79,2才、女86,0才となっています。年代が経るごと
にだんだん長くなってきています。明治以前の武士・公家社会では、平均寿
命がもっと短かったとは容易に想像できます。翁(おきな)とか嫗・媼(お
うな)とかと呼ばれていた昔話の時代の、年齢は何歳ぐらいからそう呼ばれ
ていたのでしょうか。わたしは「おばあちゃん」でも、赤ちゃんが産める年
代があったのではと考えましたが、真実はどうなんでしょうねえ。
  因みに、現在の話ですが、一般的に女性は45歳ぐらいになると妊娠確
率が限りなくゼロに近くなるそうです。40歳前後で確率は30%ほどだそ
うです。個人差があり50歳で妊娠出産した例もあり、元女子プロレスラー
のジャガー横田さんは45歳で自然妊娠して初産したそうです。これは男性
の話ですが、歌舞伎俳優で人間国宝の五代目・中村富十郎さんは、66歳の時
に33歳年下の元女優と結婚し、富十郎さんが74歳のときに長女が生まれて話
題になったことがありました。物知りでおしゃべりな瀬戸内寂聴さんの本(
『老いを照らす』朝日新書)によれば、男性は何歳までにそういうことが可
能か、不能になるか、瀬戸内さんは祇園の女将に訊ねたり、数人の医師に訊
ねたり、そこから六十八歳と平均値をはじき出した、と書いてありました。
わたしが耳にしたところでも、68歳前後になるとこうした兆候が出現するみ
たいで、個人差はかなりあるみたいですが、68歳という年齢は当たらずと雖
も遠からずと言えるみたいです。
  これはテレビで中年のご婦人が三人でたわいなく、おもしろおかしく,
あっけらかんと語り合っていたのをたまたま耳にしたのですが、女性は20
代で子宮が100Wの電球のよう膨れていて、60代になるとウインナー・ソー
セージのように細くなる、と笑いながら語り合っていました。ほんとかな。

現在(H25)の妊娠事情
 東京新聞の社説(2013/8/26)に不妊治療の公的補助について書いてあっ
た。
ーーーーー引用開始ーーーー
 採集した卵子と夫の精子を体外で受精させて受精卵を子宮に戻す体外受精
は、不妊治療として広く行われている。
 治療費は一回当たり約三十万円かかる。医療保険は適用されない。200
4年度から治療を受ける夫婦に費用を助成する制度が始まった。所得制限は
あるが助成は一回十五万円。通算五年、計十回が上限だが、年齢制限はない。
 助成の利用者は年々増え続け、昨年度は約十三万五千件になる。その三割
が四十歳以上だった。
 検討会は七月、対象女性の年齢を四十二歳までとし、回数を六回に減らす
見解をまとめた。厚労省は新制度を十六年度から始める。
 理由は高齢になるにつれ妊娠・出産が難しくなるからだ。検討会に報告さ
れたデータでは一回の治療で出産する確率は三十九歳だと十回に一回だが、
四十三歳で五十回に一回、四十五歳以上では百回に一回にも満たない。
 流産する確率は三十代だと1〜2割程度だが、四十三歳以上は五割を超え
る。心配なのは、妊婦が病気で死亡する率が四十二歳を超えると四十歳前後
の2〜5倍近くに急増することだ。妊娠は母体に大きな負担をかける。医学
的根拠を考えれば制限もやむをえまい。
ーーーー引用終了ーーーーー


【参考文献】
  以下はNHK放送文化研究所のHP「ことばQ&A」よりの引用です。
「初老」ということばは、奈良時代から終戦ごろまでは、40歳ぐらいの人
のことを指していたと書いてありました。
  ならば、「オバアサン」は、40歳ごろから始まることになります。

ーーーーーー引用開始ーーーーー
【問い】「初老」ということばは、何歳ぐらいの人のことを指すのでしょう
     か。

【答え】 かつては、40歳ぐらいの人のことを指していました。ただし寿命
    が長くなった現代では、「初老」が当てはまるのは60歳ぐらいか 
    らと考える人が多くなっています。

【解説】
 日本には、「還暦」「古希」など、一定の年齢に達した人の長寿を祝うな
らわしが昔からあります。奈良時代には10年ごとに祝っていたのですが、そ
の最初のお祝いが40歳で、これを「初老」と呼んでいました(『日本風俗史
事典』(弘文堂)の「年賀」「賀の祝い」の項)。
 終戦ごろまでは、次のような文章に見られるように、「初老」が40歳のこ
とを指すという意識はある程度一般的であったようです。
   「私は先日の手紙に於いて、自分の事を四十ちかい、四十ちかいと何
    度も言つて、もはや初老のやや落ち附いた生活人のやうに形容して
    ゐた筈でありましたが、はつきり申し上げると三十八歳、けれども
    私は初老どころか、昨今やつと文学のにほひを嗅ぎはじめた少年に
    過ぎなかつたのだといふ事を、いやになるほど、はつきり知らされ
    ました。」(太宰治(1942年)「風の便り」)
 その後、日本人の平均寿命が長くなるのと連動して、「初老」に対する意
識も大きく変わりました。
(以下、省略)
ーーーーーー引用終了ーーーーー


  以下は、山川菊栄『武家の女性』(岩波文庫、1983)からの引用です。
  山川菊栄さんは、著書『武家の女性』の中で、江戸時代の幕末期の水戸
藩の下級武士の家庭と女性の日常生活の様子を記述しています。文章内容は
「幕末期・水戸藩の下級武士の家庭と女性の日常生活の様子」ですが、当時
の水戸藩だけでない、幕末期の一般的な日本の社会的な慣習、風習がそうだ
ったと考えてもそう大きな間違いではないと思います。地域差はあるでしょ
うが、そんなに大きく変わってはいないと思いますが、どうでしょう。
  山川さんは、当時は封建時代のこととて、一家の大黒柱となる長男は結
婚が早く、二十歳前後には結婚するのが普通だったと書いています。そして、
女性の結婚について、次のように書いています。
ーーーー引用開始ーーーー
  男は十五歳から兵隊として戦時には実戦に出ることですし(維新の時に
は十五歳から実戦に出陣しました)。長男なら二十歳前後に嫁を迎え、間も
なく隠居した父親に代わって当主となるのですから、それだけの用意がなけ
ればなりません。
(中略)
  十四、五から十六、七で結婚する娘を、一人前の主婦に仕込むのは、姑
の腕で、成功した場合は実の娘よりもシックリといきます。娘の方はその年
頃で手放して他家の人とし、他家の流儀で仕上げられるのですが、嫁の方は、
ほんの子供にすぎない時代から手許において、何十年も一所にいるのですか
ら、すっかり自分の型をうつし、自分の影法師同様、同じ呼吸で生活するこ
とができるようになるわけで、どちらからいっても、特に気の合った実の親
子同様になれましょう。しかしいつもそうとは限らなかったことはいうまで
もありません。
(中略) 
  なにぶんにも早婚時代のことで、まだ赤いサンゴの玉を根がけ(荒木後
注)にしている三十代のお姑さんも珍しいことでなく、さらに一代前の、五
十代の姑があるという、二人姑の家もよくあることでしたし、その上、長生
きの年寄りでもいれば姑が三人いることにもなりました。町家と違って姑と
か、年寄りとかいっても、気散じ(荒木後注)に物見遊山や、寺詣りに度々
外出することもなく、趣味も娯楽もなしで、ただ働く一方で育てられてきた
人たちが多く、一家にそういう姑が二、三人もいて、夫の弟妹や、妾や妾腹
の子供まで集まっているところでは、若い嫁さんはなかなか骨が折れるので、
何を言われてもハイハイといっている一方の、無抵抗主義にしつけておかれ
るのが一番でした。
(中略)
  結婚後、二、三年たっても子供のできない場合は、実家の方から「お返
し下さってもさしつかえない」と申し出ることになっていました。(中略)
姑が嫁をとりかえた例も千世の近親に二つまでありました。(中略)もっと
ひどいのになると八度まで嫁をとりかえた例があります。
        山川菊栄『武家の女性』(岩波文庫、1983)より引用
ーーーー引用終了ーーーー

荒木注 
「根がけ」女性が日本髪のまげに結ぶ飾り。
「気散じ」気晴らし。気楽に。憂さを晴らすこと。

 上記の文章を読むと、女性は早婚だったことが分かります。一家の中に嫁
さんの他に、姑さんが三人いることもあった、それに妾腹の子もいた家庭が
あった、ということには驚かされます。
  女性の婚期が十四、五歳からと早婚だったため、体が未熟な状態だった
ため難産、流産、死産、母子ともに死亡することもあったということです。
明治十六年の戸籍法、明治三十二年の民法の制定によって、しだいに極端な
早婚はなくなり、過度の早婚による難産や流産や早産などはしだいに減って
いったということです。
 いずれにせよ、長男が二十歳前後で結婚し、女性は十四、五から十六、七
で結婚するなら、三十代の姑さんがいることは容易に想像できます。嫁さん
と三十代の姑さんとは、二人ともお若いですから、妊娠力旺盛ですから、二
人で競争のように赤ちゃんを産んだ家庭も当然にあったと想像できますが、
どうでしょう。「嫁さんには負けていられないわよ」と。三十代の姑さんは、
「オバアチャン」と呼ばれたのでしょうかね。
  山川均(在野の経済学者、社会運動家。上述の山川菊栄さんのご主人)
さんの『山川均自伝』(岩波書店、昭36)には「
明治二十一年の三月、上
のほうの姉は、十六歳で、私の家と真向かいの林家に嫁入りした。
」と書い
てあります。明治21年、弟・均さんが9歳のときに、姉が16歳で結婚し
た、です。早いですね。これが普通だったみたいですね。

 明治39年に発行された石川啄木「雲は天才である」という小説がある。
母校渋民尋常小学校の代用教員をしていた時のことが書いてあり、教員数は
校長を含め男性3、女性1の四人、二人の男性教師をコテンパにけなし、女
性教師を次のように書いている。「
若し此小天地の中に自分の話相手になる
人を求むれば、それは実に女教師一人のみだ。芳紀やや過ぎて今年正に二十
四歳、自分には三歳の姉である。それでも未だ独身で、熱心なクリスチャン
で、讃美歌が上手で、新教育を享けて居て、思想が先ず健全で、顔は? 顔
は毎日見て居るから別段目にも立たないが、頬は桃色で、髪は赤い、目は年
に似合わず若々しいが、時々判断力が閃く、尋常科一年の受け持ちであるが、
誠に善良なナーズである。
」と。ここで注目したいのは、荒木が付けた茶色
太字の文字である。「芳紀(年頃を迎えた女性の年齢、十八歳と言われてい
た)やや過ぎて二十四歳」「二十四歳でも未だ独身」「目は二十四歳という
年に似合わず若々しい」つまり「二十四歳では婚期が過ぎた売残り娘で、女
盛りが過ぎている」のような口ぶりの書き方ですね。

 石川啄木は明治39年の話でしたが、次は大正10年の話です。
 日本の代表的な童謡「赤とんぼ」(作詞・三木露風作曲・山田耕作)
3番に「妲やが十五で嫁に行き、お里のたよりもきえはてた」という歌詞
があります。「三木露風が赤ん坊だった時、彼の子守妲やだった娘が15歳
でお嫁に行った」と書いてある歌詞です。「15歳で嫁に行った」に注目で
す。
 「赤とんぼ」は、「三木露風が大正10年7月のある日、午後4時ごろ、窓の
外を見て作った。所は函館トラピスト修道院の宿舎である」(三木露風文学
館HPから)だそうです。
 この歌詞が作られた大正10年は、西暦1921年です。大正10年頃は
女子が15歳前後で結婚するのがごく普通だったということが分かります。
「妲や」とは地方出身(お里)の雇われ「女中さん」(家事全般、子守も)
です。三木露風を子守してくれた妲やが十五歳で結婚し、その後の消息も絶
えてしまった、と懐かしく思い出しています。
 「赤とんぼ」は戦後一時期、教科書掲載が見合わさられたことがありまし
た。その理由は、妲やが十五で嫁に行ったという三番の歌詞にあったという
ことです。こうした歴史的事実は現在の道徳観からはずれているということ
からです。のち、教科書掲載に復活しましたが、最近まで三番はカットされ
たままでした。

  ところで、昔話に登場する「おじいさん、おばあさん」は、殆どといっ
ていいほど「わが子が産まれてこない。わが子がいない」場面設定で登場し
てきています。極端な例が「ちから太郎」「あか太郎」「こんび太郎」の題
名の昔話でしょう。この昔話の場合では、わが子の誕生を熱望しているのに
子どもが産まれない、わが子いない、という現実にあり、その身代わりとし
て「あかで作った男の赤ちゃん」が造型されて物語が展開していきます。か
つ、もう一つの昔話の特徴である「力持ち」(悪者退治)の武勇伝の物語と
してストーリーが展開していきます。
  こうした昔話のもつ特質も「オバアサンが赤ちゃんを産む?」を考える
必須の条件としてあります。二人っきりのオジイサン、オバアサンの生活に
男の赤ちゃんがいては昔話は成立しないのです。また、二人が貧乏でなくて
は昔話は成立しないのです。多くの昔話がそういう状況設定が多いですよね。
男の子がスーパーマンの活躍をしてくれます。これはオジイサン、オバアサ
ンの叶わぬ夢の悲願と祈願を表していると言えるででしょう。ということは、
オバアサンは妊娠不可能ということになります。という解釈も成立しますね。
これも一つの解釈にしかすぎませんが。分かりやすく雑な言い方をすればで
す。そのほか昔話論としては、いろいろ考えなくてはならないことがありま
すが、これぐらいで止めることにします。



      
裸形の哲学者・中井正一



  『中井正一全集2・転換期の美学的課題』(美術出版社、1981)付録を
読んでいると、依田義賢(脚本家、大阪芸術大学教授)さんが、中井正一
(美学者、評論家、国会図書館副館長)さんの思い出を次のように書いて
います。

ーーーーー引用開始ーーーーー
 中井正一さんが国立国会図書館の副館長に赴任されて、間もなくのことで
した。わたしたちのシナリオ作家協会が熱海で、総会を持ったことがありま
す。それに京都の方の役員として出席したわたしが、熱海の宿について、浴
場に入ろうとして、浴衣をかかえて脱衣場にいると、入ってきたのは中井正
一さんでした。中井正一さんは、その時、来賓として招待されていたのです。
 「やあしばらくでした」で、湯に入って、「副館長にご就任されて、おめ
でとうございます」というと、フンと笑って「なにが、おめでたいもんです
か」と吐き出すように言います。「僕ら、野人ですからね、ああいうところ
は、あきまへんな。性に合わん」「そうでっしゃろな、そらそうでないと」
おかしいとわたしはすぐに納得しましたが、「えらいところに来てしもうた
と思てね、ちょっとも、面白いことおへんのや、今日はみなさんに会えるし、
たのしみにして、よばれてきましたんや。あんたらと会うのがいちばん、う
れしいわ」中井さんはほんとうに嬉しそうでした。後で聞くと、国会図書館
へ行くと、アカ追い出せというようなイヤがらせされたりして、すっかりく
さっていたんだそうですが。
  さて、宴会がすすんで、ふとみると、席に中井さんの姿がありません。
もういっぺん、湯につかろうと思って、浴場に行くと、大浴槽の中をひびか
せて、「妻をめとらば才たけて、みめうるわしく情けあり」と大声で唄って
いる奴がいます。「誰や、えらいやっとるな」と、友人らと入って、おうと
思わず、うなりました。大浴槽のわきのタイルに、真っ裸で大の字に寝てい
るのは、中井正一さんです。ふてぶてしい腹の上に、男性のシンボルを、根
性たくましく、つきたてて、「中井正一の裸をみろ、中井正一の逸物をみよ、
裸の中井正一、ここにあり、それっ、元気でゆこう。妻をめとらば才たけて、
みめうるわしく情けあり」その裸身、いまだに、鮮やかに、眼に残っていま
す。
      『中井正一全集2』(美術出版社、1981)付録より引用
ーーーーー引用終了ーーーーー

【荒木のコメント】
  わたしは、この大浴槽エピソードは、中井正一さんにとっては公言して
もらいたくない恥ずかしいウラの生活の一場面だろうと考えていました。が、
のちに彼の「美学入門」を読んでいて、どうもそうでもないようだ、江戸町
人の粋な生活を自身が堂々とこの場所で実践しているオモテの生活の一場面
ではないか、と考えるようになりました。酔った勢いからの行動でなく、彼
の美的センスからの至当な当然の「粋」な行動だったように思えてきました。
そのことは下記に引用した中井さんの文章から窺えます。
  中井さんは「美学入門」の中で、江戸時代になると町人が時代全体を担
うようになり、「肉体の存在の無限に豊かな世界の発見、その自由を獲得し
ようとする反抗、つまり町人としての新しい人間像が生まれ始めた」と書き、
次の文章へと続いていきます。
ーーーーー引用開始ーーーーー
  この世界こそ町人の粋(いき)の世界である。これは武家に対する「意
気地」から出発したのであるが、これはやがて江戸の「いきこのみ」という
か「粋」になっていくのである。「粋」とは、米へんの、精とか粋とかいう
言葉があるように、米がその「もみ」をとり「かわ」をとり、青光りするほ
どその「ぬか」をとって、真裸のもの、裸々堂々と、すべての飾りを脱ぎ去
ることなのである。武家の着こんだ裃(かみしも)、長袴(ながばかま)を
みごとに「野暮」と捨て去って、幡随院長兵衛のように鎗のふすまの中に、
裸一貫でとびこんでいくあの意気、あれが新しき町人の人間像、一つの美の
類型となっていくのである。それは赤裸々であるがゆえに、新しく生まれる
巨大な、不敵な太さが、そこに現れようとしている。団十郎が、初代から何
代も何代もかかって描きに描き、次第に大きくしていったあの「太さ」の芸
術なのである。あの江戸前の声色の大きさ美しさは、能楽の節回しにはみら
れない。町人が武士の前に、あくまで抵抗しぶっつかっていった新しい人間
像なのである。ここにも過去の重いものを抜け去り、捨て去る「イキ」とし
て、立派に弁証法的な、ダイナミックな「契機の美」の構造が「意気の美」
として表わされているのである。
 『中井正一全集3』(美術出版社、1981)所収「美学入門」より引用
ーーーーー引用終了ーーーーー



  同じく『中井正一全集2・転換期の美学的課題』(美術出版社、1981)
付録の中で、真下信一(名古屋大教授)さんが、中井正一(美学者、評論家、
国会図書館副館長)さんの思い出を次のように書いています。

ーーーーー引用開始ーーーーー
  昭和の初め頃「カフェー」が栄え、ダンスホールが簇出した。中井さん
よりもっと若い私など、さすがにダンスホールに出かけていってフォックス
トロットやワルツを踊る勇気はなかったが、モダンボーイの中井さんにひっ
ぱられて「円タク」をとばして二、三度、琵琶湖畔のホールに遠征したこと
がある。いつも蝶ネクタイで、いっぱしのおしゃれではあったが、背の低い
中井文学士がすらっとしたダンサーにつかまってワルツを踊る風景はちょっ
とした見ものであった。うすぐらいホールの壁際お椅子にかけたまま、私は
中井先輩の取りすました表情と物腰を眺めていたものだが、そんな時、私の
横の椅子には、これまたダンスのできない清水光(当時もう映画美学で有名
になっていた)もいたはず。ぞの「光はん」も今は亡い。時というものは無
残なものだと私は思うのである。
       『中井正一全集2』(美術出版社、1981)付録より引用
ーーーーー引用開始ーーーーー

【荒木のコメント】
  わたしも社交ダンスや日本舞踊やパントマイムなど、身体表現すること
が下手の横好きで大好きで、こうした祝祭空間で自己拡大する契機を得てい
ます。上記の文章部分を読んで、「お、お、仲間がいる」とうれしくなりま
した。これを読んでから難解な中井正一論文が分かりやすく理解できるよう
になった気がして不思議です。
  中井正一さんは日本を代表する哲学者の一人ですが、フランスの哲学者、
メルロー=ポンティも社交ダンスの愛好者であったという文章を見つけまし
た。加賀野井秀一(中央大学教授)著『メルロー=ポンティ 触発する思
想』(白水社、2009)のなかで、そのことを下記のように書いています。下
記を読んだ(知った)からといって、メルロー=ポンティの文章はそう簡単
に理解できるわけはありませんが、どうしてなかなか歯が立ちませんが、噛
めば噛むほど味わいが出てくるようになったような気がしています。

引用開始ーーーーー
  メルロー=ポンティの「世俗的生活」はどのようなものであったのか。
それを見事に伝えてくれる一つの証言がある。筆者はボリス・ヴィアン。実
存主義の流行華やかなりし頃、サンジェルマン・デ・プレ地区を中心に、ト
ランペット奏者として、夜の帝王として鳴らしたあの異色の作家である。彼
はその著『サンジェルマン・デ・プレ案内』(リブロポート)で諧謔をまじ
えながらメルロー=ポンティをこう評していた。

   モーリス・メルロー=ポンティ:実存主義者三人組の一人(他の二人
  はサルトルとシモンーヌ・ド・ボーヴォワール)として、名目上はそう
  なっていないかもしれないが、実質的に『レ・タン・モデルヌ』誌を取
  り仕切っている。サン・ジェルマン・デ・プレの至る所に出没し、駄文
  書きどもの頼りない頭の中で<実存主義>の語義が混乱する元を作る。
  ご婦人をダンスに誘う唯一の哲学者。
   高等師範学校の卒業生、哲学教授資格者、非常に頭脳明晰な教授。私
  はいささか彼に恨みがある。『知覚の現象学』によって頭が割れんそう
  なほどひどい目にあったからだ(私は十七ページで本を投げ出した。さ
  すがに私は頭のスペアはもっていないので)。
      加賀野井秀一『メルロー=ポンティ 触発する思想』
                    (白水社、2009)より引用

ーーーーー引用終了ーーーーー
  
ボリス・ヴィアンと言えば、彼の家で、メルロー=ポンティとアルベー
ル・カミュ(作家)が『ヒューマニズムとテロル』をめぐって論争となり、大
喧嘩となり、絶交状態となってしまった話は有名です。
  日本の学校教育に話を変えよう。

  新学習指導要領で、2012年度から中学校の体育科の授業で武道とダンス
が必修となりました。中学1,2年生の男女を対象に、武道は柔道、剣道、
相撲などから一種目を、ダンスは創作ダンス、フォークダンス、ヒップポッ
プ、社交ダンスなどのいずれかを選んで教えることになりました。社交ダン
スは、スポーツとして認められるようになりました。2010年、広州アジア大
会では、社交ダンスは正式種目となりました。オリンピック種目になるとか
話題にもなっています。社交ダンスを、隠微な世界のものと、あなたが考え
ているなら、アタマを入れ替えましょう。




教師のほめ言葉で作家になるきっかけ



  叱るよりほめよ。教師のほめ言葉には、絶大な効用があるとはよく言わ
れます。しかし、教師稼業をしていると、どうしても管理的になって、子ど
ものアラはたいへんによく目につくが、よい点やほめるべき点は目につかな
いものです。よい点やほめる点はできて当然、それは当り前のこと、なにも
ことさら言葉に出してほめなくても、と思ってしまいがちです。これはいけ
ませんね。
  「叱る」は容易で低級指導なり、「誉める」は難しく高級指導なり、教
師ならだれでも知っています。タバコや酒がやめられないのと同じに、なか
なかこのごく普通の鉄則が守れません。
  人間は誰しも誉められて悪い気はしません。誉められると前向きな気持
ちになります。誉め言葉は、相手を気持ちよくさせ、自信を与え、快い向上
心と行動力を与えます。「これは当たり前のこと、できて当然」と考えて、
知らんぷりしていてはいけないのです。当たり前のことができたら、それを
取り上げて、誉めましょう。そう考えを改めると、誉めることがたくさん出
てきますね。当たり前のこと、やったら誉め、やらなかったら、やらせてう
んと誉めるようにしましょう。
  下記は、『作家の自伝109 有吉佐和子』(日本図書センタ、2000)の
中で、有吉佐和子さんが、小学校四年生の担任教師から作文を激賞されて、
「これが私にものを書くことに対する興味を起こさせた最初の事件である」
と書いています。

ーーーーー引用開始ーーーーー
  四年に進級して、担任が中村先生という男の方に変わった。色の黒い大
柄な先生で、作文教育に熱心だった。私の書いた「おとうと」という綴り方
を激賞して、文中「私の弟は沢庵がすきです。しゃぶらせるとなんともいえ
ない顔をします」という一条を何度も声をあげて読み、「このなんともいえ
ないという表現が素晴らしい」といっていたのだけが記憶である。子供心に
得意で聞いたからだろう。そもとき何故それが素晴らしいのかは分からなか
ったのは勿論である。
  これが私に、ものを書くことに対する興味を起こさせた最初の事件であ
る。小説家や劇作を志している今、私にとって最も懐かしい先生と言えると
思う。だが、中村先生は終戦後、その小学校の校庭で、焼夷弾の不発弾が急
に爆発し現場に居合わせ即死された。今生きていたら、どんなに喜んで下さ
ったかと思うと残念でたまらない。私はその後、数多くの学校で一応の作文
教育は受けたけれども、そして私に文才ありと認めてくださった先生方があ
ったけれども、その都度中村先生を思い出して先生のおかげだと感謝してい
る。
 『作家の自伝109 有吉佐和子』(日本図書センタ、2000)より引用
ーーーーー引用終了ーーーーー

【荒木のコメント】
  ほめ上手は育て上手、教え上手と言われます。ほめ方にもコツがあり
ます。とってつけたような、うわべだけのほめ言葉はいけません。「すごい
ね」「上手だね」というほめ言葉でも、その語り方に感動した気持ちがと思
いが満ち溢れていなければなりません。どこがどう上手かを具体的に語らな
ければなりません。みんなの前で紹介する、注目させる、「先生が君をほめ
ていたよ」と人づてに言わせる、聞かせる、などもよい方法です。いいねー。
すんごく、いいねえー。すんばらしくよかったよー。なーるほど、そうーか、
先生も気づかなかったよー。先生に教えてくれてありがとう。と、ほめる言
葉表現に気合を入れ、感動の驚きをこめて、教師の顔の表情や身体の表情も
うれしにあふれさせます。有吉さんお中村先生も誉め方が上手ですね。
  教師の観察力が弱いと子どもの長所が見えてきません。観察力が貧し
いと、子どものアラしか見えない教師になります。
  叱り方は、ほめ方よりもむずかしい。下手な叱り方は逆効果になります。
教師がよかれと思って注意・叱ったことが、子どもにとって理不尽な叱られ
方だと受け取られることが、かなり多いと思われます、相当数がそう受け取
られがちです。子どもは叱られると大体は、多くが理不尽な叱られ方を受け
たと考えるのが一般的でしょう。
  理不尽な叱られ方だという思いが強くなると、その思いが高じると、こ
どもは教師を信頼しなくなります。教師の人格や人間性全体を否定し、やが
てその教師の言うこと、なすこと、総てが嫌いになり、教師を相手にしなく
なり、無反応で拒絶し、受け入れてくれなくなります。
 有吉さんは、小学校で叱られたことを次にように書いています。

ーーーーー引用開始ーーーーー
  根岸小学校の五年生女子組に転入した私は、出席した第一日に担任の三
由隆三先生から「有吉、よそみをしていけない」と、注意を受け、真っ青に
なってしまった。というのは、私のスラバヤ時代に一度でもこの種の注意を
先生から受けたことがなかったからだ。私は早熟で大人の本をよみ耽ってい
たから、学校の授業はまったく退屈で退屈で、よそみというのはあくびより
も上品なことだという考えでいたし、先生もそれを理解していたのか、他の
子どもがよそみをした科(とが)で立たされることはあっても、私は決して
そんな目に遭うことはなかったのであった。三由先生から大勢の前で、しか
も転校第一日目に叱られたのはショックだった。私は青くなって家に飛んで
帰った。先生を恨むとか、そんなことではなくて、私は純粋に驚愕(びっく
り)したのである。
  三由隆三先生は、当時私などの目にさえ教育熱心な先生に映ったほど言
葉も態度も積極的な方であった。が、きわめて日本人らしい日本人であった
ことは、その歯切れの悪い口癖からも知れた。訓示に夢中になると富山弁が
丸だしになる。「日本人は世界一の国民です」私は再びこういう教育を受け
ることになった。
  三由先生は才能型よりも努力型を買う方だったから、私がスラスラ難問
を解いてみせてもゼンゼン相手にしてくれないのである。いくら手を挙げて
振り回しても、先生の指名は出来ない子を漁って、決して私に番を廻してこ
ない。頭の悪い子がモタツキながら返事をすると手を叩いて褒めるくせに、
私がより直截な解決を示しても、ふんとおっしゃるだけである。そうして
(たま)に宿題でも忘れようものなら、文字どおり目から火の出るような叱
り方であった。弁解を全く許されなかった。私が同級生の悪口をいうと、向
こうだって私の悪口をいい放題いっても、私だけが級全員の前で説教を受け
るのである。私は、三由先生は私が大嫌いなのだ、という具合に思いこんで
しまった。  
 『作家の自伝109 有吉佐和子』(日本図書センタ、2000)より引用
ーーーーー引用終了ーーーーー

【荒木のコメント】
  有吉さんにとっては納得のいかない理不尽な叱責を受けたようです。三
由隆三先生とは不幸な出会いだったようです。こういうことはあとあとまで
記憶に残るのが通常です。不思議ですよね。教師にとっては災難ですね。
  有吉さんは、早熟な子だったようで、小学一年生で漱石全集を読破して
いたそうです。一年生の時「漢字も読めるのにカタカナを習うのが馬鹿馬鹿
しくて退屈していた。五年生の出来ない子に後ろからモノを教えると「一年
生は黙っておれ」と叱られた。」子どもだったそうです。
  有吉さんの文章は私たち教師に、子どもの立場に立って考え、子どもの
気持ちになって考え、叱ったり、ほめたりしなければならないことを教えて
います。叱ること、ほめることは、子どもの将来を活かしたり殺したるする
とても重要なきっかけを与えるものだと教えています。これは教師なら誰で
も意識して日常指導しているわけであるが、改めて、考えを新たにして、よ
りいっそう意識し直して指導に当たるべきことを教えています。
  さあ、あなたが、明日、教室に行ったら、一人一人の子どものよい点を
一つだけでいいです、探して、ほめてあげましょう。ほめることはたくさん
あります。ごく当たり前のこと、ありふれたことでいいです。きっと、あな
たは、子どもうれしそうな笑顔に出合うことでしょう。そして、あなたが教
師であることに至福の歓びを見出すことでしょう。
  叱る時は、叱る前に、まず、子どもの言い分を、子どもの立場に立って、
子どもの気持ちに入り込んで、聞いてあげましょう。じっくりと耳を傾けま
しょう。ここから先は、ケースバイケースです。あなたの人間性、人間的魅
力で対応していきましょう

補遺1(前エッセイ「わたしの教師論」とも関連あり)
  有吉佐和子さんの小説に『夕陽ヶ丘三号館』があります。この小説の中
に下記のような会話文がありました。
ーーー引用開始ーーーー
 「でもね、日教組でも反日教組でも、熱心な先生というのはそれだけ自分
の教育にも理想があるわけだから、結局はいい先生ですよね。困るのは、ふ
らりふらりと生徒に教えるだけの先生。そういうのに担任になられたらテキ
メンに学力が落ちますものね。だから私は日教組でも反日教組でもそのとき
どきで仰せごもっともでやってきましたわ」
      有吉佐和子『夕陽ヶ丘三号館』(新潮社、1971)より引用
ーーーー引用終了ーーーー

  この会話文は、有吉さんの本音を語っているのではと思ったんですが、
どうなんでしょう。この場面は、教育ママの先輩が、後輩ママに語って聞か
せている会話文です。
  この小説『夕陽ヶ丘三号館』は、1971年(昭和46年)に発刊されてい
ます。都内近郊に団地がにょきにょき林立しだした頃です。現在、これら団
地は高齢者の古ぼけた住居となっており、今では何かと社会問題化してきて
います。当時の時代背景を考えると、この小説が投げかけている問題がより
いっそう深く理解できるでしょう。

補遺2
 「凡庸な教師はただ話す。良い教師は説明する。優れた教師は態度で示
  す。そして、偉大な教師は、心に火をつける。」
          アメリカの教育哲学者、ウイリアム・ワードの言葉

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