暗誦の教育史素描(13)      08・05・21記



  
湯川秀樹さんが受けた暗誦教育

      
             
                 
  
湯川秀樹著『旅人─湯川秀樹自伝』(角川文庫、昭35)を読むと、湯
川秀樹さんが幼少時に祖父から漢籍の素読の指導を受けて、それが湯川秀樹
さんの人生に大きな影響を与えたこということが書かれています。
  以下に、この本の中からかいつまんで紹介することにしましょう。

  はじめに湯川秀樹さんについて簡単に紹介します。
  湯川秀樹(明40年〜昭和56年)さんは、京都帝国大学卒業、同大学
名誉教授、日本で最年少で文化勲章受賞、日本人として始めてノーベル賞を
受賞という輝かしい業績をもっています。
  兄・芳樹(冶金学者、東大教授)、兄・茂樹(歴史学者、京大教授、文
化勲章受賞)、弟・環樹(中国文学者、京大名誉教授)という、これまたす
ばらしい兄弟関係で、秀才一家です。
  湯川秀樹さんは、明治40年に、父・琢治、母小雪の三男として東京麻
布に生まれました。父・琢治が京都帝国大学の地理学の教鞭をとるように
なったため、東京には一年二か月しか住んでなく、それからは京都に住む
ようになりました。
  父・琢治は明治3年生まれで、中学校入学までに四書、五経などを父親
から口授されました。南監本二十一史のうち、後漢書、三国史、晋書などを
特に愛読したそうです。父・琢治は、幼時から漢学を学び、終生漢籍に親し
んたそうです。漢詩作りをたしなむ人でもあったようです。
  秀樹の父方の祖父は、儒者で、藩学修道館で、漢学を講じていました。
のち廃藩置県により藩学が閉鎖されたため、私塾を開いて子弟を教育してい
ました。
  秀樹の母方の祖父は、明治以前は和歌山のお城に勤めていた武士であっ
て、明治以後は洋学を学び、晩年までずっとロンドンタイムスを講読してい
ていたような人であったそうです。
  このように湯川秀樹さんの生まれた環境は、漢学漢籍に囲まれていたこ
とが分かります。秀樹が漢学漢籍を学ぶようになったのは自然のなりゆ
きでした。秀樹は、漢籍の素読を母方の祖父から習ったと書いていいます。
その祖父から漢籍の素読を受けた時のことを以下のように書いています。

ーーーーー引用開始ーーーーーーー

  ある日──私が五つか六つの時だったろう──父は祖父に、
「そろそろ秀樹に、漢籍の素読をはじめて下さい」
と言った。
  その日から私は子供らしい夢の世界をすてて、むずかしい漢字のならん
だ古色蒼然たる書物の中に残っている、二千数百年前の古典の世界へ入って
ゆくことになった。(45ぺ)

【荒木のコメント】
 湯川さんが素読を始めたのは、「五つか六つの時」と書いてあるので、今
でいえば幼稚園年長組か小学校一年生の時ぐらいから始めたと分かります。
また出生が明治40年なので、明治45年か大正元年・大正2年頃だと分か
ります。明治末期や大正初期でも、素読が存在していたということが分かり
ます。

ーーーーー引用開始ーーーーー

  一口に四書、五経というが、四書は「大学」から始まる。私が一番初め
に習ったのも「大学」であった。
  「論語」や「孟子」も、もちろん初めのうちであった。が、そのどれも
これも学齢前の子供にとっては、全く手がかりのない岸壁であった。
  まだ見たこともない漢字の群は、一字一字が未知の世界を持っていた。
それが積み重なって一行を作り、その何行かがページを埋めている。すると
その1ページは、少年の私にとっては怖ろしく硬い壁になるのだった。まる
で巨大な岩山であった。
「ひらけ、ごま!」
と、じゅもんを唱えて見ても、全く微動もしない非情な岸壁であった。夜ご
と、三十分か一時間ずつは、必ずこの壁と向いあわなければならなかった。
  祖父は机の向う側から、一尺を越える「字突き」の棒をさし出す。棒の
先が一字一字を追って、
「子、曰く……」
私は祖父の声につれて、音読する。
「シ、ノタマワク……」
素読である。けれども、祖父の手にある字突き棒さえ、時には不思議な恐怖
心を呼び起こすのであった。
  暗やみの中を、手さぐりではいまわっているようなものであった。手に
触れるものは、えたいが知れなかった。緊張がつづけば、疲労が来た。する
と、昼間の疲れが、呼びさまされるのである。
  不意に睡魔におそわれ、不思議な快い状態におちることがある。と、祖
父の字突き棒が本の一か所を鋭くたたいたりしていた。私はあらゆる神経
を、あわててその一点に集中しなければならない。
  辛かった。逃れたくもあった。
  けれども時によると、私の気持ちは目の前の書物をはなれて、自由な飛
翔をはじめることもあった。そんな時、私の声は、機械的に祖父の声を追っ
ているだけだった。(46ぺ)

【荒木のコメント】
  「四書五経」は儒学の基本となる書。「四書」とは「大学」「中庸」
「論語」「孟子」のこと。「五経」とは「易経」「詩経」「書経」「礼記」
「春秋」のこと。
  湯川秀樹さんは、ここの文章個所で「学齢期前の子供にとって」と書い
てあるので、湯川さんが素読を始めたのは小学校へあがる前だとなります。
このへん湯川さんの記憶がはっきりしていないようです。
 「字突き棒」とは寺子屋や私塾の教師が持っていた30cm前後の細長い竹
や木の棒のことです。素読指導の時に教師が必ず使っていた指示棒のことで
す。生徒と教師とが机をはさんで向かい合い、書物の字の向きは生徒の方へ
向け、教師は字を頭にして読み、教師は「字突き棒」を持って一字一字を指
しながら音読して聞かせ、教師の指示棒の位置にそって、生徒がその文字を
復誦するという教授形態だったようです。湯川さんには、その「字突き棒」
が恐怖の対象だったとは驚きです。湯川さんでさえ、いやいやながら素読を
受けていたとは驚きです。
  そして、祖父から素読を受けているとき、「不思議に睡魔におそわれ、
不思議に快い状態におち」「辛かった。逃れたかった」「そんな時、私の復
誦する声は、機械的に祖父の声を追っているだけだった」とは尚更驚きで
す。ノーベル賞受賞者の湯川さんの幼時の素読がこうだったとは、これは驚
きです。ましてやわたしのような凡人の素読学習は、それはそれは難行苦行
の連続であったこと間違いなしです。

ーーーーー引用開始ーーーーー

  暗やみの中を、手さぐりではいまわっているようなものであった。手に
触れるものは、えたいが知れなかった。緊張がつづけば、疲労が来た。する
と、昼間の疲れが、呼びさまされるのである。
  不意に睡魔におそわれ、不思議な快い状態におちることがある。と、祖
父の字突き棒が本の一か所を鋭くたたいたりしていた。私はあらゆる神経
を、あわててその一点に集中しなければならない。
  辛かった。逃れたくもあった。
  けれども時によると、私の気持ちは目の前の書物をはなれて、自由な飛
翔をはじめることもあった。そんな時、私の声は、機械的に祖父の声を追っ
ているだけだった。(47ぺ)


【荒木のコメント】
  素読を受けている湯川さんの気持ちは、心は書物にあらず、書物から離
れて、自由な夢の中を飛翔している。すると、祖父は大声で怒鳴ったりせ
ず、黙って「字突き棒」で今読んでいる文字の個所を鋭く叩くのであった、
という。これが寺子屋風の素読の一般的な指導方法の風景であったようだ。

ーーーーー引用開始ーーーーー

  ある夜のことである。私が祖父の前に端座していると、不意に軒をたた
く雨の音に気づいた。と、わたしの気持ちは、たちまち小さな「さむらいぐ
も」の上にとぶのである。
  裏庭のほこらあたりには、大きな木が、何本もならんでいる。その根元
には、幾すじか、さむらいぐもの巣が顔を出していた。巣は細長いつつ型で
地下へつづいている。そのもろい巣をこわさないように、そっと指先でひっ
ぱり上げると、底には小さなくもが縮こまっている。
  このくもは人の手につかまって絶体絶命になると、自分で腹を切って死
ぬことがあるので、さむらいぐもという名がついたらしい。
  「大学」を習っている最中に、さむらいぐものことを思い出したのは、
どうしてだったろうか。
  巣をひっぱり上げられて、逃げ場を失ったくも。そのくもの運命に似た
立場に、自分も置かれていると思ったのかもしれない。あるいは、動かない
漢字の世界をのがれて、動く昆虫の世界に入ってゆきたかったのだろうか。
(47ぺ)
  
  「大学」を習っている最中に、さむらいぐものことを思い出したのは、
どうしてだろうか。
  巣をひっぱり上げられて、逃げ場を失ったくも。そのくもの運命に似た
立場に、自分も置かれていると思ったのかもしれない。あるいは、動かない
漢字の世界をのがれて、動く昆虫の世界に入ってゆきたかったのだろうか。
  雨の音はつづいている。
  ──さむらいぐもは、どうなっただろう?
  けれども、素読は終わらない。祖父の手に握られた字突き棒は、今まで
通りに確実に漢字の一字一字を追っていく。
  私はひそかに、棒を握る祖父の手を見た。老人らしく、枯れかけた肌を
していた。そしてその手の上にさがったひげは、白く長く、光っているよう
であった。
  子供の私が年齢というものを、老人というものを、ほのかに考えたこと
があったとすれば、その時であったかもしれない。しかし、祖父は端然とし
ていた。やさしいところはあったが、日課をおろそかにするような点はな
かった。だから、時間が来るまで、いや予定された一日分の日課が終わるま
で、祖父は同じ表情を持ちつづけて、正確に一字一字をたどって行くのであ
る。(48ぺ)

【荒木のコメント】
  湯川秀樹さんの祖父の容貌がほうふつと浮かんできます。荒木が想像す
るに多分こうであったろう。長いあごひげ、謹厳実直、端座して孫と対面
し、言葉少なに、媚びた顔せず、こむずかしい顔で、書物の一字一字をてい
ねいに字突き棒を当てて、ゆっくりと音読して聞かせる、そうでないかもし
れないが、荒木にはどうもそう想像せずにいられない。そう想像したほうが
ぴったりで、楽しい。
  湯川秀樹さんは、素読がいやでいやで仕方がなかった。たまらなく嫌い
で、逃げ出したい気持ちだった。が、湯川さんは、自分の主張を押し出すこ
とができない、引っ込み思案の子で、おとなしい気弱な子だった。父親や母
親や祖父にとっては「よい子」たったのでしょう。「よい子ぶってた」がま
ん強い子だったのでしょう。

ーーーーー引用開始ーーーーー

  私はこのころの漢籍の素読を、決してむだだとは思っていない。
  戦後の日本には、当用漢字というものが生まれた。子供の頭脳の負担を
軽くするためには、たしかに有効であり、必要でもあろう。漢字をたくさん
おぼえるための労力を他へ向ければ、それだけプラスになるにちがいない。
  しかし私の場合は、意味も分からずにはいっていった漢籍が、大きな収
穫をもたらしている。その後、大人の書物をよみ出す時に、文字に対する抵
抗が全くなかった。漢字に慣れていたからである。慣れるということは怖ろ
しいことだ。ただ、祖父の声につれて復唱するだけで、知らずしらず漢字に
親しみ、その後の読書を容易にしてくれたのは事実である。(49ぺ)

  私は塩尻先生(小学校高学年の担任教師)に選ばれて学芸会の舞台に立
ち、暗誦するはずの国語の「菅原道真」の文が全く口から出ず、顔を赤くし
て壇を下りてしまったことがある。例の、口のきけなくなる性癖の顕著なあ
らわれであった。──が、私はずっと級長だった。(80ぺ)

【荒木のコメント】
 湯川さんは、あんなに嫌がっていた漢籍の素読を、「無駄であったとは思
わない」と書いています。そして湯川さんは気弱な、引っ込み思案の性格か
ら学芸会で「菅原道真」暗誦の舞台発表ができなかった、と書いています。
湯川さんは、幼時に素読を受けたその
メリットとしては、
●大人になって書物を読むときに、文字に対する抵抗が全くなくなった。
●祖父の声を復誦するだけで、知らず知らずに漢字に慣れ親しんで、その後
 の読書を容易にしてくれた。
デメリットとしては
●漢字に向かってる時間が長く、漢字をたくさん覚えるという時間の浪費が
 あり、それを他の学習の時間に向ければプラスになる面が多かった。
●祖父からの素読の学習は、祖父の声をただ機械的に繰り返すだけで、面白
味がなく、嫌で嫌でしようがなかった。途中で睡魔に襲われたり、素読から
早く逃れたかった、辛かった。他所事の自由な思考の飛翔をしていることも
あった。

  以上のことを湯川さんが書いています。結局、あんなにいやいや学習し
た漢籍の素読も、メリットのほうが多いのだと書いています。大人になって
から大変に役立っている。ぜひ、皆さんも漢籍の素読をやるべきだ、と自信
のある口吻で書いているようにも思います。

ーーーーー引用開始ーーーーー

私は子供ながらに、なぜか孤独と親しんで行ったようだ。父に対する根強い
反感があった。怖れもあった。それがわたしの心を閉鎖的にした。しかし外
へ向かっては、閉ざされた自分の中では、一人で、だれに気がねもなく、私
の空想は羽ばたくことができた。家じゅうにあふれていた書籍が、次第に私
をとらえ出した。そして、それが私の空想に新しい種を与えた。(51ぺ)

私は子供ながら、なぜか孤独と親しんでいた。(50ぺ)。私は生来孤独な散
歩者だった。(202ぺ)

  実際、私は試験のための勉強には、余り熱心ではなかった。その上、記
憶力は余りすぐれていない。「暗記物」と呼ばれている学科では、大して良
い成績は取れなかった。その代わり、数学が好きになっていった。教え方の
上手な、竹中馬吉先生のおかげもあったかもしれない。ユークリッド幾何を
習いはじめると、直ぐその魅力のとりこになった。数学、ことにユークリッ
ド幾何の持つ明晰さと単純さ、透徹した論理──そんなものが、私をひきつ
けたのだろう。
  しかし何より私を喜ばしたのは、むずかしそうな問題が、自分一人の力
で解けるということであった。幾何学によって、私は考えることの喜びを教
えられたのである。何時間かかっても解けないような問題に出会うと、ファ
イトがわいてくる。夢中になる。夕食の呼ばれても、母の声は耳に入らな
い。苦心惨憺の後に、問題を解くヒントが分かった時の喜びは、私に生きが
いを感じさせた。(98ぺ)

  私は何時からか、老子や荘子の思想の中にいた。それまで教えられてい
たものは大学であり、論語であり、孟子であった。中国の思想としては正統
派である。私の多くの兄弟たちは、これらに余り反発せずにすごしたのでは
ないだろうか。東洋史を専門にするようになった兄茂樹も、当時から特に、
儒教に反発した様子はないようだ。
  しかし儒教は、私には「押しつけられた思想」のように思われた。私が
それを必要としたのではない。批判力もないうちから、あたえられたもので
ある。その事実が、まず私を懐疑的にする。
「身体髪膚、これを父母に受く。敢えて毀傷せざるは……」
という調子からして、押しつけがましい感じをいだかせる。深遠な思想とい
うものは、そこにはないようだった。
  私はあてもなく、何かを求めだした。父の書斎で中庸を読んだ。これは
やや哲学的だった。私は、父がなぜそれを習わせなかったかに疑問を持っ
た。それから老子を発見し、やがて荘子に入っていった。
  私の中に芽生えていた少年期の厭世観が、これら書物で一歩深くなった
ように思う。そこには逆説もあったが、私に強くアピールするものがあっ
た。私はいっそう、私の中に閉じこもろうとした。べつにそうなるべき事件
があったわけでもない。具体的には悲観すべき出来事はなかった。恋愛をし
たのでもない。当時、堅実な家庭の子弟には、女の子との交際はタブーで
あった。
  物理学をやるようになってからも、私は仕事が順調にゆかないときな
ど、しばしば絶望的な厭世観におそわれたことがある。ヨーロッパの物理学
者で、自殺した人が何人もいることを知った。その気持はよく分かるような
気がした。しかし、私は自分で自殺したいとまで、思ったことはない。
(108ぺ)

  老子や荘子の思想は自然主義的であり、宿命論的であった。しかしそこ
には、一種の徹底した合理的なものの考え方が見出されるのである。一つに
はこの点が私にアピールしたのであろう。というのは、私には、小さい時か
ら、中途半端な物の考え方には満足できなかった。
  前に言ったように、京極小学校にいたころ、毎朝、朝礼があった。その
後で建部校長が訓話をされた。どんな話だったか、ほとんど全部、忘れてし
まっている。が、不思議なことに、その中の一つだけを、今でもはっきりと
覚えている。校長先生はある朝、「徹底」という題で話された。いろいろな
動物が川を渡った。ほかの動物はみな泳いで渡った。象だけは川の底をふみ
しめて渡った。これが徹底だという話である。
  小学生の私は、徹底という言葉が、いつまでも強い印象を残した。ただ
校長先生の話を聞きながら、もしも象の背も立たないような川があったらど
ういうことになるだろうかと、子供心にふと疑問を抱いた。(112ぺ)

【荒木のコメント】
  昔から怖いものは「地震、雷、火事、親父」と言われてる。湯川秀樹さ
んも父親が怖かったようだ。反感さえ持っていたと書いています。暗記物は
得意ではなかった。自分は記憶力はあまり優れていない、と書いています。
祖父からの素読(つまり暗誦)に気が乗らなかった理由がこれで理解できま
す。湯川少年は、一つのことをじっくりと思考し、追究することに優れ、機
械的な暗記は得意ではなかったことが分かります。
  湯川少年は孤独を好み、心は閉鎖的で、成長するにつれ次第に書物世界
の中に快楽を見出すようになっていきます。誰に気がねなく、自由奔放な思
索の中で、苦心惨憺の後で、問題を解くことができた喜びに無上の法悦にひ
たることができ、そこに生きがいを感じるようになっていきます。
  湯川さんは祖父から教授された儒教思想をそのままおしいただくことは
していない。かなり懐疑的でもある。批判力もないうちから強制的に与えら
れたせいか、思想そのものにも、押しつけがましいもの、「押しつけられた
思想」のようなものとして感じとっています。これら書物の厭世感、宿命論
湯川さんの少年期に芽生える厭世感に、一層の拍車をかけた。そうしたこと
から、そこから逆説的に「一種の徹底した合理的なものの考え方」を見出し
て、「徹底」の重要さを感得することになります。徹底して思索を重ねる、
これがやがて未開拓な分野に「徹底」して思索していくようになり、それが
ノーベル賞へとつながっていくようになったのでしょう。
  

             
結び


  湯川秀樹さんが素読を始めたのは、出生が明治40年(1907)1月23
日なので、明治45年か、大正元年、2年頃であったと思われます。明治か
ら大正にかけての時期に祖父からの個人教授としての漢籍の素読を受けてい
たことが分かります。このことは江戸時代の寺子屋や藩校で盛んだった漢籍
の素読が大正時代に入ってからも行われていたという事実が分かります。
  湯川秀樹さんが素読を始めた時期(明治の終わり、大正の初め)に、町
中に素読授業がごく普通にみられた風景なのか、湯川家など特殊な家庭にに
見られた風景なのかは分かりません。湯川さん父方の祖父は江戸末期に生ま
れた儒学者であり、漢学修道館で漢学を講じていた人であり、父・琢治は明
治3年生まれで、父親から四書五経を習い、後漢書、三国史などを愛読して
いた。こうした漢籍に素養のある一家に囲まれ、育っていた素読環境の中に
あったことは確かでしょう。

  湯川さんは、漢籍の素読が嫌で嫌で仕方がなかった、祖父の声を機械的
に追っているだけ、気持ちは書物を離れて他所事の自由な思考を飛翔を浮遊
していた、と書いています。だが、漢籍の素読体験は、決して無駄だったと
は思わない、結果としてプラスになった、と書いています。こう書いている
ことに注目したいと思います。

  もう一度、わたしなりの整理を下記に再録しましょう。
メリットとしては、
●大人になって書物を読むときに、文字に対する抵抗が全くなくなった。
●祖父の声を復誦するだけで、知らず知らずに漢字に慣れ親しんで、その後
 の読書を容易にしてくれた。
デメリットとしては
●漢字に向かってる時間が長く、漢字をたくさん覚えるという時間の浪費が
 あり、それを他の学習の時間に向ければプラスになる面が多かった。
●祖父からの素読の学習は、祖父の声をただ機械的に繰り返すだけで、面白
 味がなく、嫌で嫌でしようがなかった。途中で睡魔に襲われたり、素読か
 ら早く逃れたかった、辛かった。他所事の自由な思考の飛翔を浮遊してい
 ることもあった。

  湯川秀樹さんが祖父から漢籍の素読を習っている時に「辛かった。逃げ
だしたかった」「心は書物になく、他所事の自由な飛翔をしており、祖父の
声を機械的にただなぞっているだけだった」と書いています。ノーベル賞受
賞者の大天才の能力を保持している人にしてこれですから、わたしのような
凡人はましてや全く深く同じであることは当然なことです。湯川さんがそう
だったこと、とっても安心できて、心を休めてくれる事実です。わたしを勇
気づける心強い文章でした。だが、祖父から受けた漢籍の素読は「大人にな
ってから、たいへんに役立った」とあり、「つらいことでも、がんばんなく
ちゃ」とこれもまたわたしを勇気づけ奮励してくれる心強い文章でした。


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