暗誦の教育史素描(14)       08・05・21記




谷崎潤一郎さんが推奨する暗誦教育



                    
 
谷崎潤一郎著『文章読本』(中公文庫、昭50)を読むと、谷崎潤一郎さ
んが素読をたいへんに推奨していられることが分かります。
  以下に、この本の中からそれについて書いてあることの要点をかいつま
んで紹介することにします。はじめに谷崎潤一郎さんについて簡単に紹介し
ておきます。

  谷崎潤一郎(明19年〜昭和40年)さんは、東京市日本橋区蠣殻町に
生まれました。幼時から神童と言われ、府立一中(現、都立日比谷高)では
第2学年から第5学年に飛び級で進級しています。旧制一高、東京帝国大学
文科大学国文学科にすすむが、学費未納により中退しています。
  谷崎潤一郎さんは、いわずとしれた大文豪です。毎日出版文化賞、毎
日芸術賞。文化勲章受賞。作品として「刺青」「痴人の愛」「文章読本」
「細雪」「春琴抄」「少将滋幹の母」「陰翳礼讃」「鍵」「瘋癲老人日記」
「新訳源氏物語」など。
 「文章読本」は昭和9年に発売になり、大ベストセラーとなった本です。
 以下に、この「文章読本」の中から谷崎が素読や暗誦について書いている
個所をかいつまんで紹介していきます。


ーーーーー引用開始ーーーーーーー

  思い出すますのは、昔は寺子屋で漢文の読み方を教えることを、「素読
を授ける」と言いました。素読とは、講義をしないでただ音読することであ
ります。私の少年の頃にはまだ寺子屋式の塾があって、小学校へ通う傍そこ
へ漢文を習いに行きましたが、先生は机の上に本を開き、棒を持って文字の
上を指差しながら、朗々と読んで聞かせます。生徒はそれを熱心に聴いてい
て、先生が一段読み終わると、今度は自分が声を張り上げて読む。満足に読
めれば次へ進む。そういう風にして外史や論語を教わったのでありまして、
意味の解釈は、尋ねれば答えてくれますが、普通は説明してくれません。
  ですが、古典の文章は大体音調が快く出来ていますから、わけが分から
ないながらも文句が耳に残り、自然とそれが唇に上ってきて、少年が青年に
なり老年になるまでの間には、折に触れ機に臨んで繰り返し思い出されます
ので、そのうちには意味が分かってくるようになります。古の諺に「読書百
遍、意自から通ず」というのはここのことであります。(38ぺ)

【荒木のコメント】
  さすが作家です。素読の定義、素読教授の様子がありありと描写されて
います。
  素読とは「講義をしないでただ音読することであります。意味の解釈
は、尋ねれば答えてくれますが、普通は説明してくれません。」と書いて
います。「先生が棒を持って」の「棒」とは「字突き棒」のことです。先
生が字突き棒で書物の文字を指示しながら、先生が朗々と読んで聞かせま
す。生徒はそれを熱心に聴きとり、先生が一段読み終わると、今度は生徒
が声を張り上げてそれを復誦します。満足に読めれば次へ進んでいきます。
素読とは、こうした指導方法でした。「暗誦の教育史素描(その7、13)で
書いた野村吉二郎さん、湯川秀樹さんの受けた素読教授も全く同じでした。
谷崎さん、野村さん、湯川さん、三人の受けた素読学習の方法はみな同じで
す。ちっとも変わっていません。
  先生も生徒も「朗々と声を張り上げて読む」。意味内容が分からない単
純な繰り返しの音読(復誦)学習ですから、「朗々と声を張り上げて読む」
わけが分かります。声を張り上げなければ眠くなってしまうからでもありま
しょう。
  こうした素読学習は、秀才の湯川さんでさえも嫌で嫌でたまらなかった、
素読から逃げ出したかったと自著『旅人──湯川秀樹自伝』(角川文庫、
昭35)の中に書いています。
  谷崎さんは、意味が分からなくとも、声に出して読めばリズムがあって、
快い響きの音調があって、気持ちよく読めた、と書いています。素読を受け
た子供にとっては落語「寿限無」を棒暗記するような言葉遊びみたいなもの
で楽しかったのでしょうか。言葉のリズムの快さが楽しかったというか、そ
れが素読への興味をつなぎとめていたといえましょう。
  同一文章個所を何回繰り返し読んだのでしょう。いつの間にか暗誦して
身体化してしまい、成人になってから機に臨んで思い出され、意味も部分的
に分かってきたと書いています。


ーーーーー引用開始ーーーーー

  講義を聴いて分かったのは意味だけ分かったのでありまして、言外の味
まで汲み取れたのではありませんから、その場限りで忘れてしまうことが多
いのであります。たとえば大学にこういう言葉があります。

  詩云。緡蛮黄鳥止干丘隅。子曰於止知其所止。可以人而不如鳥乎。

  これは「詩ニ云ク、緡蛮(メンバン)タル黄鳥(コウチョウ)丘隅ニ止
マルト。子曰(ノタマワ)ク止マルニ於イテ其ノ止マル所ヲ知ル、人ヲ以テ
鳥ニ如カザル可ケン乎」と読むのでありまして、大学を習った者なら誰でも
覚えている有名な文句でありますが、その癖その意味を現代語に訳してみよ
と云われれば、漢学者でない限り、普通の者にはちょっと出来ません。
  が、それにも拘らず、われわれは漠然と分かったような気がしている。
「緡蛮(メンバン)タル黄鳥(コウチョウ)」の「緡蛮」(メンバン)とい
う文字も、字引で引いてみなければ本当のことは分かりませんが、それでも
一羽の鶯が丘の上の樹の枝に止まって美しい声で鳴いていることだろうと、
いつからともなく独りぎめに決めてしまっている。詩歌や俳句にはそういう
例が多いのでありまして、自分ではわかったつもりでいるものですから、一
度も疑いを挟んだことはありませんけれども、さて説明せよと言われれば出
来ない。
  しかし、この漠然たる分かり方が実は本当なのかもしれません。なぜな
ら、原文の言葉を他の言葉に言いかえますと、意味がはっきりするようでは
ありますけれども、大概の場合、ある一部分の意味だけしか伝わらない。
「緡蛮タル黄鳥」は「緡蛮タル黄鳥」でありまして、他のいかなる言葉を持
ってきても、原文が含んでいる深さと幅と韻(ひびき)とを言い尽くすこと
は出来ない。ですから、「分かっているなら現代語に訳せる」と云えるはず
のものではないので、そう簡単に考える人こそ分かっていない証拠でありま
す。そうしてみると、講釈をせずに素読だけを授ける寺子屋式の教授法が、
真の理解力を与えるのに最も適した方法であるかも知れません。(39ぺ)

【荒木のコメント】
  谷崎潤一郎には『陰翳礼讃』という書物があります。日本文化には「陰
翳」なることが美徳であって、『文章読本』全体で「陰翳」なる文章をよし
と強調しています。文章には「饒舌を慎むこと」が必要だ、「含蓄」が必要
だと繰り返し述べています。その全体論調の中でここの素読も記述されてい
るのです。
  ですから、素読では意味内容が漠然たる分かり方だった、何となくぼん
やりした気分的なわかり方だった、しかし素読は意味が分からなくてもよ
い、成人になると部分的にいつかは分かってくるのだから、と書いていま
す。
  だから、「他のいかなる言葉を持ってきても、原文が含んでいる深さと
幅と韻(ひびき)とを言い尽くすことは出来ない。」「分かっているなら現
代語に訳せる」と云えるはずのものではないので、そう簡単に考える人こそ
分かっていない証拠であります。そうしてみると、講釈をせずに素読だけを
授ける寺子屋式の教授法が、真の理解力を与えるのに最も適した方法である
かも知れません。」となるわけです。
  さて、これを現代の学校教育に持ってきて、読み方の教授法として採
用することは、いささか問題があると考える教師が多いのではないでしょ
うか。


ーーーーー引用開始ーーーーー

  文章感覚を研くのにはどうすればよいかと云うと、
  出来るだけ多くのものを、繰り返して読むこと
が第一であります。次に
  実際に自分で作ってみること
が第二であります。
  上の第一の条件は、あえて文章に限ったことではありません。総て感覚
と云うものは、何度も繰り返して感じるうちに鋭敏になるのであります。た
とえば三味線を弾くには、三つの糸を整える、一の糸の音と、二の糸の音
と、三の糸の音とが調和するように糸を張ることが必要でありまして、生来
聴覚のするどい人は、教わらずとも出来るのでありますが、大抵の初心者に
は、それが出来ない。つまり調子が合っているかいないかが聴き分けられな
い。そこで習い始めの時分は、師匠に調子を合わせて貰って弾くのでありま
すが、だんだん三味線の音を聞き慣れるうちに、音の高低とか調和とか言う
ことが分かって来て、一年ぐらい立つと、自分で調子を合わすことが出来る
ようになる。(74ぺ)
  と云うのは、毎日毎日同じ音色を繰り返し聞くために、音に対する感覚
が知らず識らず鋭敏になる。──耳が肥えてくる──のであります。
  かように申しましたならば、文章に対する感覚を研くのには、昔の寺子
屋の教授法が最も適している所以が、お分かりになったでありましょう。講
釈をせずに、繰り返し繰り返し音読せしめる、或いは暗誦せしめるという方
法は、まことに気の長い、のろくさいやり方のようでありますが、実はこれ
が何より有効なのであります。が、そう云っても今日の時勢にそれをそのま
ま実行することは困難でありましょうから、せめて皆さんはその趣意を以っ
て、古来の名文と云われるものを、出来るだけ多く、そうして繰り返し読む
ことです。(75ぺ)


【荒木のコメント】
  谷崎さんは、こう書いてます。「文章に対する感覚を研くのには、昔の
寺子屋の教授法が最も適している所以が、お分かりになったでありましょう。
講釈をせずに、繰り返し繰り返し音読せしめる、或いは暗誦せしめるという
方法は、まことに気の長い、のろくさいやり方のようでありますが、実はこ
れが何より有効なのであります。」と。
  ここで、谷崎さんは優れた文章を書くには、文章感覚を研くこと、それ
には古来の名文といわれるものを繰り返し読むこと、そして実際に文章を
作ってみること、この二つが肝要だと述べています。繰り返し読む、それも
黙読じゃなく、音読することが重要だと述べています。繰り返し音読して、
やがて暗誦せしめる、そのことを重視しています。
  そして、「が、そう云っても今日の時勢にそれをそのまま実行すること
は困難でありましょうから、せめて皆さんはその趣意を以って、古来の名文
と云われるものを、出来るだけ多く、そうして繰り返し読むことです。」と
結論づけています。現代人は、名文を繰り返し音読して、暗誦できるぐらい
繰り返し音読しよう、と呼びかけています。


ーーーーー引用開始ーーーーー

  多く読むことも必要でありますが、無闇に欲張って乱読をせず、一つの
ものを繰り返し繰り返し、暗誦することが出来るくらいに読む。たまたま意
味の分からない個所があっても、あまりそれにこだわらないで、漠然と分
かった程度にして置いて読む。そうするうちに次第に感覚が研かれて来て、
名文の味わいが会得されるようになり、それと同時に、意味の不明であった
個所も、夜がほのぼのと明けるように釈然として来る。即ち感覚に導かれ
て、文章の奥義に悟入するのであります。(75ぺ)
  しかし、感覚を鋭敏にするのには、他人の作った文章を読む傍ら、時々
自分でも作ってみるに越したことはありません。もっとも、文筆を以って世
に立とうとする者は、是非とも多く読むと共に多く作ることを練習しなけれ
ばなりませんが、私の云うのはそうではなく、鑑賞者の側に立つ人といえど
も、鑑賞眼を一層確かにするためには、やはり自分で実際に作ってみる必要
がある、と申すのであります。(76ぺ)

【荒木のコメント】
  谷崎さんは、こう書く。「多く読むことも必要でありますが、無闇に欲
張って乱読をせず、一つのものを繰り返し繰り返し、暗誦することが出来る
くらいに読む。たまたま意味の分からない個所があっても、あまりそれにこ
だわらないで、漠然と分かった程度にして置いて読む。」ことだと。これ
だったら荒木にも出来そうです。が、現代は刺激がありすぎて、読みたい、
見たい、聞きたい、やりたい、味わいたい、というものが多すぎて、ひとつ
のものにこだわることがなかなか困難なことですね。
  谷崎さんは、こうも書く。「文章感覚を鋭敏にするには、他人の作った
文章を読む傍ら、自分でも作ってみるに越したことはない。鑑識眼を一層確
かにするためには、自分で作ってみることだ。三味線の例で申せば、自分で
実際に手にとったことのない人には、三味線の上手下手は分かりにくい。た
とい一年でも半年でも、自分で三味線を習ってみると、耳が肥えてきて、音
に対する感覚がめきめき発達してきて、鑑賞力が一度に進歩する。自分で習
てみると、他人の巧い拙いが見えるようになる。この嗅ぎ付ける力が文章を
作る力となって働くようになるのだ。」(76ぺ要旨)と。
  荒木も、これと同じようなことを拙著『表現よみ指導のアイデア集』
(民衆社)の中で一節「暗誦は作文力の向上に役たつ」と書いたことがあり
ます。本稿の末尾「結び」個所にその文章を抜粋引用することにします。


ーーーーー引用開始ーーーーー

  現代の口語文に最も欠けているものは、眼よりも耳に訴える効果、即ち
音調の美であります。今日の人は「読む」と云えば普通「黙読する」意味に
解し、また実際に声を出して読む習慣がすたれかけてきましたので、自然文
章の音楽的要素が閑却されるようになったのでありましょうが、これは文章
道のために甚だ嘆かわしいことであります。西洋、殊に仏蘭西あたりでは、
詩や小説の朗読法が大いに研究されていまして、しばしば各種の朗読会が催
される、そうして古典ばかりでなく、現代の作家のものも常に試みられると
云うことでありますが、かくてこそ文章の健全なる発達を期することが出来
ますので、彼の国の文芸の盛んなのも偶然ではありません。それに反して、
我が国においては現に朗読法と云うものがなく、またそれを研究している人
を聞いたことがない。(36ぺ)


【荒木のコメント】
  谷崎潤一郎さんはこう書く。「今日の人は「読む」と云えば普通「黙読
する」意味に解し、また実際に声を出して読む習慣がすたれかけてきまし
た」と。
  谷崎さんが『文章読本』を発刊したのは昭和9年です。昭和9年頃に
は「声に出して読む習慣がすたれかけてきており、読むといえば「黙読」が
普通になっている時代だった、ということに注目したい。書物を読むことが
「音読」が普通だった過去と、「黙読」が普通になっている現代との、谷崎
『文章読本』が出版された昭和一桁時代はそれが移行する過渡期(または終
末期)だったと想像できます。これについては「自伝からみた明治中期の素
読風景」の中の片山潜・師範学校生活の文章とも関連します。
  現在、西洋諸国やロシヤなどで現在も広く行われている朗読の習慣、暗
誦教育については、わたしのホームページに「朗読ブームについて思う」章
に詳述しています。そちらのコメントをご覧ください。


ーーーーー引用開始ーーーーー

    私が何故これを力説するかと申しますのに、たとい音読の習慣がす
たれかけた今日においても、全然声と云うものを想像しないで読むことは出
来い。人々は声を出し、そうしてその声を心に耳に聴きながら読む。黙読と
は云うものの、結局は音読しているのである。既に音読している以上は、何
かしら抑揚頓挫やアクセントを附けて読みます。
  然るに朗読法と云うものが一般に研究されていませんから、その抑揚頓
挫やアクセントの附け方は、各人各様、まちまちであります。それでは折角
リズムに苦心をして作った文章も、間違った節で読まれると云う恐れがある
ので、私のように小説を職業とする者には、取り分け重大な問題でありま
す。私はいつでも、自分の書くものを読者がどう云う抑揚を附けて読んでく
れるかと云うことが気になりますが、それと云うのも、こう云う種類の文章
はこう云う風な節で読むと云う、大よその基準が示されていないからであり
ます。(37ぺ)

【荒木のコメント】
   谷崎潤一郎さんはこう書く。「私が何故これを力説するかと申します
のに、たとい音読の習慣がすたれかけた今日においても、全然声と云うもの
を想像しないで読むことは出来い。人々は声を出し、そうしてその声を心に
耳に聴きながら読む。」と。
  昭和9年にこうした鋭い指摘をしていた谷崎潤一郎さんの先見の明に驚
かされます。現在では生理学での実験でこれが証明されています。
  ですから、上手な音読を経た黙読であるか、下手な音読を経過した黙読
であるかによって、実際の黙読の様相は全く違ってきます。上手な音読がで
きる人の黙読では、文章の意味内容やイメージがありありと浮かんだ、文章
内容のリズムにのった優れた黙読で読んでいることになります。音読指導
は、上手な黙読指導を鍛錬する欠かすことのできない指導なのです。


ーーーーー引用開始ーーーーー 

  一体、現代の人はちょっとした事柄を書くのにも、多量の漢字を濫用し
過ぎる幣があります。これは明治になってから急にいろいろの熟語が殖え、
和製の漢語が増加したけ結果でありまして、その弊害の因ってくる今一つの
原因は、昨今音読の習慣がすたれ、文章の音楽的効果と云うことが、忽諸に
附されている所に存すると思います。つまり、文章は「眼で理解する」ばか
りでなく、「耳で理解する」ものであるのに、当世の若い人たちは見て分か
るように書きさえすればよいと思って、語呂とか音調とかに頓着せず、「何
々的何々的」と云う風に無数に漢字に漢字を積み上げて行く。
  然るに、われわれは、見ると同時に聴いて理解するのである。ですから
あまり沢山の漢字を一遍に並べられると、耳は眼の速力に追いつけなくな
り、字形と音とが別々になって頭へ這入る、従って内容を理解するのに手間
が懸かるのであります。
  されば皆さんは、文章を綴る場合に、まずその文句を実際に声を出して
暗誦し、それがすらすらと云えるかどうかを試してみることが必要でありま
して、もしすらすらと云えないようなら、読者の頭に這入りにくい悪文であ
ると極めてしまっても、間違いありません。現に私は青年時代から今日に至
るまで、常にこれを実行しているのでありますが、こう云う点から考えまし
ても、朗読法と云うものは疎かに出来ないのでありまして、もし皆さんに音
読の習慣がありましたら、蕪雑な漢語を無闇に羅列するようなこともなくな
るであろうと信ずるのであります。(38ぺ)

【荒木のコメント】
 谷崎潤一郎さんは、この「文章読本」の本の中で音読の効用を強調してい
ます。音読は、優れた黙読をするのに大いに役立ち、文章感覚を研くのに大
いに役立ち、文章を綴るときに大いに役立つのだと。言葉は本来、音声で
あって、文字ではない。文字がなくても、音声があれば、言葉となることが
できます。文字は音声になってはじめて言葉となるのです。自分で文字を音
声に出して音読することによって、頭に言葉のリズムを響かせ、その音(心
声、心耳)を自分で聞く。これが本来的な読み方なのです。
  「多量の漢字を濫用するな」と書いています。わたしは、この頃は、年
齢のせいだろうか、小学生が書くような、分かりやすい、簡明な文章を書く
ようになってきているが、若い時分は、翻訳調で難解な単語をわざと使った
文章を書いて得意になっていたものです。難解な語句や言い回しをしながら、
その内容たるや幼稚でしかない、誇大で仰々しい文章をです。若気の至りで、
今考えると恥ずかしい。
  「文章に風を通す」という言葉がある。一度書いた文章は、少なくとも
3、4日は放って置いて、長ければ長いほどよい、しばらくしてから声に出
して読み返し、音読しながら推考することが大切なことは言うまでもない。
だからわたしは依頼された原稿は、直ちに草稿を書き出し、一か月ぐらいの
あいだ放って置き、締め切りが近づいたら音読しながら推考していくことに
している。こうして主観的な文章から客観的な文章へ、文章内容に見合った
快い、口当たりのよいリズムの文章にするように心がけている。


              
結び


  谷崎さんは『文章読本』(中公文庫、昭50)の中で、上手な文章が書け
る訓練には、名文といわれるものを繰り返し音読することが大切だ、暗誦で
きるぐらいに繰り返し音読することだ、と主張しています。谷崎さんが
音読を推奨している理由は、「文章感覚を磨くツメができてきるからだ。
よい文章というものが分かり、よい文章が書けるようになるには、優れた
文章を繰り返し音読することで肉体化・身体化するからだ」という理由から
そう主張しているのでしょう。
  荒木はかつて拙著『表現よみ指導のアイデア集』(民衆社)の中で谷崎
さんと同じようなことを書いたことがあります。次にそれを抜粋引用して
「結びの言葉」とします。
「 幾回となく声に出して読んでいるうちに自然と文章を暗誦してしまいま
す。とくに低学年の教科書文章は短いですし、詩はさらに短いですから、繰
り返し読んでいるうちに子ども達はいつのまにか暗記してしまっています。
  暗誦するぐらい繰り返し読むと、まず文字ずら読みがなくなります。気
持ちや思いを表に立てた音声表現になります。文字ずらに心配がなくなる
と、注意は自然に意味内容や言葉のリズムに集中していきます。その文章内
容との感情的な共振リズムが生起し、音声表現する時のリズム(呼吸、息づ
かい、タイミング、心理的・感情的な生動)が生まれ出てきます。
  ただし、むりに詰め込む機械的暗記、苦行を強いる暗記強要はよくあり
ません。繰り返し音声表現の工夫や練習をしているうちに、いつの間にか暗
誦してしまっていた、というようでなければなりません。それぐらい読み込
む練習、繰り返しの音声表現の仕方の工夫の練習をしたいものです。
  文章を暗誦すると、語いが豊かになり、知らず知らずのうちに理解語い
が表現語いに転化します。暗誦で身体に覚えてしまった語句や言い回しや文
型や文章構成法(思考様式、思考の進め方)が、日常生活で話したり書いた
りする時に、その文型や言い回し方を使って現実を切り取り、認識思考し、
日常利用していくようになっていくようになります。」
   拙著『表現よみ指導のアイデア集』(民衆社、2000)164ぺより


つけ加え

  ノーベル賞作家・川端康成著『新文章読本』(新潮文庫、昭和29)を読
んでいたら谷崎潤一郎さんと同じような主張が書いてある文章を見つけました。
  この本の「はしがき」部分に次のような文章がありました。日本の大文豪
が二人揃って素読の効用を称賛していることに驚きを覚えました。
ーーーー引用開始ーーーー
  少年時代、私は「源氏物語」や「枕草子」を読んだことがある。手あた
り次第に、なんでも読んだのである。勿論、意味はわかりはしなかった。た
だ、言葉の響きや文章の調べを読んでいたのだある。
  それらの音読が私を少年の甘い哀愁に誘いこんでくれたのだった。つま
り意味のない歌を歌っていたようなものだった。
  しかし今思ってみると、そのことは私の文章に最も多く影響しているら
しい。その少年に日の歌の調べは、今も尚、ものを書く時の私の心に聞こえ
て来る。私はその歌声にそむくことは出来ない。
  右は、古い私の文章の一節であるが、読みかえしていま、文章の秘密も
そこにあるかと思うのである。
  文章を単に小説の一技術とみなす風潮が、どれほどわれわれの文学を貧
しくして来たであろうか。昔は、文章は即ち人といわれていた。文章それ自
身が、一つの声明を持って生きていた。私のこの拙い一冊はまた、思えばそ
うした、『生命ある文章』へのノスタルジアであろう。
        川端康成『新文章読本』(新潮文庫、昭和29)より引用

ーーーー引用終了ーーーー 
【荒木のコメント】
  川端康成は、「少年時代、私は「源氏物語」や「枕草子」を読んだこと
がある。手あたり次第に、なんでも読んだのである。勿論、意味はわかりは
しなかった。ただ、言葉の響きや文章の調べを読んでいたのだある。」「私
の文章の秘密もそこにあるかと思うのである。」と書いています。
  川端康成『新文章読本』(新潮文庫)の最後尾に付されている解説を書
いているのは伊藤整(作家)です。伊藤整の解説文の一部につぎのような文
章があります。
  「川端氏の文学論は、常に文章の内側から出発する。作家の文章の内部
にある微妙な気配、そこに漂う民族の精神、または才能と体験の錬金術師の
ような働きの結晶体のあり方、そういうものに関して、川端氏の述べている
ことは、決して技巧とか技術というようなものでないことに読者は気をつけ
るべきだ。作家がその筆致の中に吹き込む生命の息吹、というものを知るこ
との鋭さにおいて、当代には川端氏以外にほとんど人がいないのである」
  川端康成が少年時代に素読をしたこと、「意味はわかりはしなかった。
ただ、言葉の響きや文章の調べを読んでいた」こと、そうした川端少年の体
験の集積が、のちの川端の文体に大きく影響を与えていること、それがノー
ベル文学賞受賞式でモーニング姿でなく、日本古来の紋付羽織袴を着用して
臨んだこと、「美しい日本の私」という題の記念講演をしたこと、などと深
く関係がありそうです。日本の古典文学や漢詩文の素読を楽しんだことが、
川端の文学観(日本固有の美的精神・美的心情)の生命の息吹の涵養となっ
たのだろう。


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