プロフィール


  氏 名       荒木 茂(あらき しげる)


  誕生日      みずがめ座  0型 


  出生地       山形県新庄市


  おいたち       父は山形県最上郡の山奥の分校の小学校教師だった。そこの村落は全校児童が40名前後、一教
             室内で一人の先生から全学年が学ぶ同時同教科異教材の複式授業だった。教師が一年生を教えて
             いるとき他の2〜6年生は課題の自習という学習形態だった。体育・図工・音楽などは全学年が同じ
             題材で一緒に学習した。教師ひとりが全学年担当なので、小学校六年間は父がわたしの担任だった。
             のち、児童数が増加して、教師二人となり、1・2・3学年と4・5・6学年との二教室に分かれて勉強した。
             わたしは、就学前から教室にもぐりこみ、空いた机に座り、使い古した教科書を借りて一緒に勉強を
             していた。4歳ころからだから、父はわたしの子守もしていたことになる。父を、学校では「先生」と呼び、
             家では「とうちゃん」と呼んでいた。当時は、春休み、夏休み、冬休み、のほかに、田植え休み・3日と
             稲刈り休み・3日もあった。秋には、丸一日の落穂ひろいの学校行事もあった。

             当時、村の人々は農業と炭焼きで生計をたてていた。現在、村の過疎化がすすみ、児童数が減少
             したため、わたしの学んだ、思い出がたくさん詰まった分校は廃校になってしまっている。村の子ども
             たちはスクールバスで隣駅にある本校へ通学しているという。

             小学校4年生になり村に電信柱が立ち、各家庭に電燈が灯った。それまではランプの生活だった。
             小学校4年生ぐらいまでは日常生活の普段着は着物にもんぺと足袋の服装であった。夏はわらぞう
             りか げたで、冬はわらであんだ長靴(わらぐつ)であった。新聞は、一日遅れで、郵便で配達人が、
             毎日、届けてくれた。

             小学校への入学前に敗戦に出会った。食糧難で来る日も来る日も、三食すべて、さつまいも、かぼちゃだった。
             現在、さつまいも、かぼちゃが大嫌いな原因はそこにある。
             1945年8月15日直後の教科書は、4月に配られた国定教科書に、教師の指示通りに自分で墨を
             塗って、それを教科書として使った。それ以後、数年間の教科書は、新聞紙大に印刷された印刷物が
             2,3枚配布され、自分でそれを折りたたんで、ナイフで切って作った薄っぺらで粗末な教科書だった。

             戦争中は兵力増強のため「産めよ殖やせよ」が国策であった。大日本帝国は百年戦争といって、いつ
             までも戦争を続ける喧伝をしていた。そのため、村には兄弟姉妹の子どもたちが多かった。授業中、赤
             ちゃん(弟や妹)を背中におんぶして椅子にすわり、机に向かってねっしんに勉強する姿もよくみられた。
             わたしも6人兄弟で、それに長男で、背中に妹や弟をおんぶして授業を受けた。おしっこで背中がびっ
             しょりと濡れることもまれではなかった。当時の成人女性たちは田や畑や山へいって早朝から深夜まで
             よく働いた。「専業主婦」なんていなかった。

             小学生の頃のあこがれのスポーツ選手は、野球選手とお相撲さんであった。野球選手では、大下弘、
             別当薫、川上哲治、別所毅彦らが人気選手であった。お相撲さんでは、照国、栃錦、東富士、名寄岩
             千代の山らが人気関取であった。

             子どもの頃にどんな遊びをしたか、思いつくまま、ランダムに列挙してみよう。
             くぎさし、ゴムだん、輪回し、めんこ、なわとび、お手玉、かげふみ、ビー玉、馬乗り、馬跳び、おしくらまんじゅう、
             あやとり、竹馬、かんけり、こま回し、トランプ、クロンダイク(トランプ)、すごろく、かざぐるま、ボールけり、手品、
             野球、キャッチボール、三角ベースボール、卓球、将棋、はさみ将棋、将棋駒かたまりのバランス崩しゲーム、
             せみとり、とんぼつり、鳥さし、小動物(てん、いたち、山うさぎなど)のわなしかけ、ほたるがり、日光写真、あぶりだし、
             かがみてらし、ベーゴマ、電話ごっこ、石板と石筆、戦争ごっこ、鬼ごっこ、かくれんぼ、めかくしおに、きばせん、
             まりつき、ドッジボール、すもう、おはじき、かざぐるま作り、シャボン玉、、はないちもんめ、じんとり、鉄棒、蛍狩り、
             カルタ、水車作り、紙飛行機作り、グライダー作り、羽根つき、じんとり、魚つり、けんけんとり、たこあげ、水泳、
             木のぼり、ターザンごっこ、笹舟うかべ、セミとり、どじょうとり、キノコとり、山ブドウとり、あけびとり、イナゴとり、、沢蟹とり、
             おちぼ拾い、木の若芽とり(おひたしにして食べる)、くり拾い、山菜とり、セミ穴ほり、アリ穴ほり、ほおずき(実から中の種子を
             もみだしてこしらえる。口に入れて舌で押し出して鳴らす.) 山鳥の巣(卵)さがし、だるまさんがころんだ、お手玉、
             あがり目さがり目、ケン・ケン・パーの足じゃんけん、新聞紙でかぶと・紙ひこうき作り、木登り、ターザンごっこ、など。
             冬は、スキー、そり遊び、雪ころがし、雪だるま作り、雪部屋作り、雪部屋の中で餅を焼いて食べる、雪合戦など。
             また、わなでしかけてつかまえた山うさぎの毛皮をなめして、防寒のマフラーや耳当てを作成し、使用した。正
             月はすごろく、たこあげ、はねつき、福笑い、こままわしなどで遊んだ。
             その他、はっぱ鳴らしもあった。左手の親指と人さし指で輪を作り、その上に葉をのせて押し込んで穴を
             作り、右手で上から叩いてポンと音を出す、誰の音が一番よい音であるか、よい音を出す競争をした。
             また、メスのトンボをつかまえて、それに糸をくくりつけて飛ばす。寄って来たオスのトンボが交尾した
             ところをつかまえる遊びもした。白つめ草の花輪つくり、股木とゴム紐で作ったパチンコ、竹筒で作った
             水・紙玉・杉玉でっぽう、などもした。どこまで遠くへ小石をけることができるか、石けり競争もした。
             山菜とり(わらびとり、ぜんまいとり、みずとり、あけびとり、ふきのとうとり、たらの芽とり、こごみとり、うどとり、
             うるいとり、タケノコとり、きのことり、いなごとり(つくだににして昆虫食)などは家事炊事の支援・応援になり、母親に喜ばれた。
             「だるまさんがころんだ」を、一息で何回言えるか、の競争などもした。

             中学校へは汽車通学をした。中学校は二駅離れた中心部落にあった。朝、中学校に着いても、
             汽車の本数が少ないため、始業時までに一時間以上も時間の余裕があった。その時間、バスケットボールや
             卓球をして遊んだ。これが楽しくて、そのために中学校へ行くようなものだった。

             当時は、まだ農村には封建遺制が根強く残っており、農家の嫁は家族と一緒に食事をすることは
             なく、みんなが食べ終わったあとに、一人で残り物整理のような食事をしていた。友達の家へ遊び
             に行き、それを見て、わたしは不思議に思い、子ども心を痛めたものだった。

             「百姓に学問はいらない」という風潮もまだ根強く残っており、中学校から高校へ進学する生徒は
             学級一割から二割ぐらいだった。成績優秀な子でも高校に進学しない同級生がたくさんいた。

  学 歴       山形県立新庄北高等学校普通科卒業
             山形大学教育学部小学校教員養成課程卒業
           
山形大学教育学部教育学専攻生課程修了

  職 歴     
             神奈川県川崎市立小学校教諭(日吉小、橘小)
           神奈川県横浜市立小学校教諭(浅間台小、下田小、東台小、新吉田小)
           
定年退職後、横浜市立図書館嘱託勤務。
           現在、フリー、研究・執筆・講演など。


 音読略歴      新卒二年目(昭和37)から日本コトバの会、児童言語研究会、日本話しコトバ教育研究会に参加
            する。
            そこで先輩教師たちのすぐれた教育実践に出会う。先輩教師たちのまねごとを自分の学級にも少しず
            つ取り入れはじめる。

            音読(表現よみ)は、日本コトバの会表現よみ部会で学ぶ。月一回の例会で、各人の読み声をテープ
            に録音し、再生し、それを聞いて、全員が厳しく温かい共同助言を行う。そこでの理論的指導者は
            大久保忠利(都立大教授)さんであった。大久保理論からたくさんのことを学ぶ。

            日本コトバの会では、表現よみ部会が発足した初期の頃は年二回の表現よみ発表会の舞台公演を行
            った。そこに出演することで音声表現能力が格段に高まる機会を得た。年一回、表現よみコンクールも
            あった。幾回か、そこに出場し、審査員たちによる評定や概評を受けた。

            児童言語研究会・夏季アカデミーの初期の頃の表現よみ分科会では、毎年連続して表現よみ分科会
            の発表担当者となり、レポートする。以後も、表現よみの授業実践の研鑽を継続する。

            その他、東京アナウンスセミナー、カルチャースクール、市民文化講座、朗読サークルなどでも実際の
            朗読(表現よみ)の実技を学ぶ。そこでの講師は、 おもにアナウンサーや俳優たちであった。


   著 書・論文

     『表現よみ指導ののアイデア集』(民衆社,2000年)、『群読指導入門』(民衆社、2000年)、『表現よみ入門』
     (一光社、1975年)など、拙著の一覧を示す。



   趣味・特技

     日本舞踊  社交ダンス  南京玉すだれ  どじょうすくい男踊り  パントマイム  表現よみ  読経




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