音読授業を創る  そのA面とB面と    06・6・8記




 「やい、とかげ」の音読授業をデザインする




●「やい、とかげ」(舟崎靖子)の掲載教科書……………………教出4上



             
作者について


  舟崎靖子(ふなざき やすこ)。1944年、神奈川県生まれ。1964年
『うたう足の歌』でレコード大賞童謡賞を受ける。翌年、詩集『ポテトチッ
プ館』を刊行。1971年『トンカチと花将軍』を舟崎克彦との共著で刊行し、
以後児童文学の創作を手がける。『ひろしのしょうばい』でサンケイ児童出
版文化賞、絵本『やいトカゲ』(渡辺洋二絵)で絵本にっぽん賞、『とべ
ないカラスととばないカラス』で赤い鳥文学賞を受ける。『ミッフィーのゆ
め』『亀八』『まいごになったプレゼント』『よわむしハリー』『も・いち
どあ・そ・ぼ』『もりのピザやさん』『もりのクリーニングやさん』『もり
のスパッゲテーやさん』『もりのぎんこう』『もりのゆうびんきょく』『も
りのはいしゃさん』『あんちゃん』など多数。
  夫・船崎克彦との共著も多い。また夫・克彦は作家でもあり画家でもあ
る。船崎靖子・文、船崎克彦・絵の著作物も多い。靖子と克彦とは三人のお
子さんをもうけたが、15年で離婚する。離婚後は妻・靖子が三人の子育て
をしていたが、十年後に「社会人にするには親父が育てた方がいい」という
ことから、三人のお子さんは克彦と一緒に暮らすことになる。長女大学一
年、長男高校一年、次女中学1年のことであった。
  現在、お子さん達はそれぞれ独立の社会生活を送っている。克彦は次の
ように書いている。≪十年前までは、「若い、若い」とヤニさがっていた私
だが、ふと気づくとひげは白く、頭はスダレ状態と化している。だが、私は
毒気のぬけた今の自分が、人生の中で一番気に入っている。それは子等が
皆、そこそこの大人になってくれたことで、私自身も真の自立を果せたから
だろう。そして今の彼等へのメッセージは、「おーい、みんな、勝手に幸福
になれ」≫だ。ウェブサイト「男の育児宣言」より引用。


       
「ぼく」の視点から音声表現する


  本教材は、「ぼく」の視点から描写されています。ぼくの目に見えた事
柄や、ぼくの心に浮かんだ事柄を、ぼくの気持ちになって描写されていま
す。ですから、この文章「やい、とかげ」は、「ぼく」の目になって、「ぼ
く」の気持ちになって音声表現していくとうまくいきます。
  冒頭には「ぼくは自転車をなくした。だれのせいでもない。ぼくが悪
い。」と書いてあります。「ぼくは自転車をなくした。」と事実を報告し、
「だれのせいでもない。ぼくが悪い。」とぼくの判断(気持ち)が書いてあ
ります。音声表現のしかたは、ぼくの目になって、ぼくの気持ちになって読
んでいくようになります。つまり、ぼくが自戒しているように、自省してい
るように、反省しているように、ぼくの気持ちになって、自分で納得してい
るように、独り言のように音声表現していくとようになります。
  つづく文章に「家に帰って母さんに話したら、母さんはかんかんになっ
ておこった。」とあります。ぼくの目に見えた母さんの言動(姿形、顔の表
情)が、ぼくの視線をとおして、ぼくの気持から描写されています。
  もし、「ぼく」でなく、他人の視線や気持ちで描写されていたら、つま
り、母親自身の目や気持ちを通して、あるいは、のぶちゃんの目や気持ちを
通して、あるいは、とかげの視線や気持ちを通して描写されていたら、本教
材文にある文章表現とは全く違った描写になっているはずです。
  本教材文の文章では、母さんの気持ち、のぶちゃんの気持ち、とかげの
気持ちは、全く分りません。「ぼく」の気持ちだけは、手にとるように分か
る書かれ方になっています。ぼくの気持ちだけは、読み手の心ににびんびん
と響いてくる書かれ方になっています。音読していると、いつのまにか読み
手は「ぼく」の心と重なってしまってい
るような錯覚にさえおそわれます。
  「やい、とかげ」は、全文が 「ぼく」の視点から描写されていますか
ら、母さんの言動、のぶちゃんの言動、とかげの言動、あたりの風景、これ
ら全ては「ぼく」の目を通し、ぼくの気持ちを通して書いてあります。です
から、本教材文はすべて「ぼく」の気持ちになって音声表現していくことに
なります。


         
好きな文章個所を選んで


  「やい、とかげ」全文を、一人ひとりの児童に音声表現させて、ていね
いに音読指導する時間的余裕はありません。指導する内容は、音読だけでな
く、ほかの指導内容もあるからです。
  全文音読でなく、音読してみたい文章個所の一部分を選択させて、そこ
を全員の前で音声表現をする発表をさせてみましょう。自分は、この文章部
分の表現がいいなあと思う、この文章部分が好きだなあと思う、ここは自分
が好きな場面だ、この文章部分は言葉の選び方や組み合わせ方など文章表現
ががいいと思う、ここは音読してみたい文章個所だ、という文章個所を自由
に、音読したい文章部分を一人一人に選択させます。
  大体1ページ(12行)前後の範囲を選択させます。選んだ文章部分
を、全員がばらばらに声を出させて音読の個別練習をさせます。家庭練習の
宿題にしてもよいでしょう。        
  教室で、一人一人に全員の前で音表現よみの発表をさせます。
ここでは個人発表が主目標ですから、個々人の発表された音読表現への、他
児童たちからの感想発表や意見発表を述べさせることはごく簡単にします。
拍手をする程度か、1・2名程度の児童の感想意見出しの発表ぐらいにとど
めておきます。教師の感想意見も入れていいですが、どこかに賞賛を入れる
ことを忘れないようにします。
  なぜ、その文章部分を選択したかの理由を言える児童には、その理由も
同時に発表させましょう。「なんとなく」というムードやカンで選択して、
はっきりした理由は言えない、という児童たちもいることでしょう。そう
した児童には、無理に理由を言わせる必要はありません。「なんとなく、い
いなあと思ったから。なんとなく好きな文章部分だから。なんとなく場面が
よく・音読してみたかったから。」というような理由だけでよいでしょう。
  文章範囲を選択する学習は、他の学習効果の発揮にもなります。どこを
音読しようかなあと文章範囲を選ぶ検討作業を通して、文章を改めて見直す
ことが要求されます。音読の観点から本文を読み返し、どこを選択しようか
と、あれこれと今まで以上により深い文章分析をしなければならなくなりま
す。
  こうして文章を評価する能力が身につきます。いい文章、わるい文章、
好きな場面、あまり好きでない場面、言葉のつながり方がいいなあと思う場
面、素敵な表現・言葉の組み合わせだなあと思う場面、この台詞がいいなあ
・上手な言い方だなあと思う場面、じっくりと音読してみたい文章だなあと
いう文章個所、こうした音読範囲を自分で自主的に選択する学習を通して、
するどく言葉表現に反応する言語感覚を育て、言語感覚を磨く力が身につく
ようになります。


           
音声表現のしかた


  児童たちは、各人の自由選択ですから、どの文章個所を選択するかは不
明です。本稿では、全文についての音声表現のしかたのポイントとなる事柄
を、以下に簡単に書き記すことにします。


     
母さんに自転車をなくしたことを話す場面


 ぼくが自転車をなくしたことについて、どこで、どんな状況で、自転車を
なくしたかについて説明しています。こういう状況で、こういうわけで、こ
うなって自転車は消えてしまった、というように、順序よく説明するような
つもりで音声表現していくとよいでしょう。小声で、独り言してるみたい
に、頭の中の記憶をたぐりよせて、ぶつぶつと語っているように音声表現し
ます。
  母さんが話している会話文は、声高に、ヒステリー気味に、どなりつけ
ているように、キャンキャンと叫んでいるように音声表現するとよいでしょ
う。
  二個の母さんの会話文は、実際はひとつながりの会話文になるはずで
す。「だらしがないったらありゃしない。物をなくしたからって、すぐに新
しい物を買ってもらえると思ったら、大まちがいよ。」のようなひとつなが
りの気持ちで会話文全体を音声表現するとうまくいくでしょう。     
 
  二つの会話文にはさまれた地の文「家に帰ったら、母さんはかんかんに
なっておこった。」は、軽く、小さい声で、早口で、はさみこむように読む
とよいでしょう。
  「母さんは、それきり、自転車の話はしなくなった。」は、直前の母親
の声高な怒声とは全く逆に、静かに、小声で、落ち着いた声で、ゆったり
と、この地の文を表現よみするとよいでしょう。


       
のぶちゃんの遊びの誘いを断る場面


  作家は「いつものように」を4回、意識的に繰り返して、連続して書い
ています。音声表現のしかたでは、特に声高とか緩急変化とかの目立つ読み
方にはしないで、ごく普通の音調で「いつものように」を四個ならべて、な
らんでいるように音声表現していきます。四個をならべて音読することで
「いつものように」が際立つようになり、ひとりでに強調された音声表現に
なるでしょう。
  のぶちゃんの会話文は、元気よく、快活に、声高に、喜び勇んでいるよ
うに、はつらつと音声表現しましょう。それら会話文を説明している前後に
ある地の文は、ぼくの心内語といってもよい性質の地の文ですから、小声
で、がっかりして、気落ちして、暗い感じの声立てで、ゆったりと音声表現
するとよいでしょう。


         
ぼくが原っぱに入った場面


  ぼくの目に映った、太陽の光をいっぱいにあびた原っぱの様子が描写さ
れています。これら明るい原っぱとは対照的に、ぼくの気持ちは失意のどん
底にあります。ふさぎこんだ、暗い気持ちに陥っています。いちばんの遊び
友達であるのぶちゃんとは一緒に遊べません。のぶちゃんは、さっさと東町
公園へ野球をしに行ってしまいました。
  ぼくは、がっかり、つまんない、ひとりぼっち、遊び相手なし、むなし
い気持ちになっています。くじけて、しょげいる、滅入る気持ちいっぱいに
なっています。遊びたいなあ、遊べたらなあ、何かで遊びたいが、遊ぶ意欲
も出てこない、中途半端な状態です。
  こうした中途半端な状態で、原っぱの様子を語り、自分の気持ちを語っ
ています。


      
とかげにろうせきを投げつけた場面


  次の地の文は、かぎかっこをつけた全くの独り言にして音声表現しても
いいくらいです。「ちぇっ、ろうせきなんか買いに行かなければ、ぼくは今
ごろ東町公園で野球をしていただろうな。ぼくがいなくて、だれがピッ
チャーをやっているんだろう。こんなろうせき、すててしまえ。」地の文で
すが、独り言のように、心内語のように、ぶつぶつとした音調で音声表現す
るとよいでしょう。
  「すると、ぼくはだれかの横目を感じた。」は、ぼくが辺りの様子から
察知した突然の判断です。早口に、急いだ感じの声立てにして、素早く音声
表現します。
  会話文「やい、自転車をなくしていい気味だぞ。」は、ぼくが自分勝手
に想像した事柄です。とかげにとっては、八つ当たりされて、いい迷惑なこ
とでしょう。音声表現のしかたは、とかげの気持ちになって、ぼくを、軽蔑
しているように、やゆしているように、からかっているように、はやしたて
ているように音声表現します。
  地の文「ナイスピッチングだ。ろうせきは石に当たった。」は、すっき
りとした、晴れやかな声立ての音調にして音声表現します。
  次の地の文は、間のとりかたに特別の注意が必要です。
  「残ったしっぽはしばらく動いていたけれど、(ここで、しばらくしっ
ぽが動いていた時間の間を三つ分ぐらいあけます)やがて(二つ分の間をあ
ける)う・ご・か・な・く・なっ・た。」(ぽつぽつと間をあけたスタッ
カート読み、そのあとの文末でたっぷりと全くしっぽの動きが止まってし
まった時間経過の間を五つ分ぐらいあける)。
  「ぼくはしっぽをぶら下げた。」と書いてあります。なんて残酷な行為
なんでしょう。ぼくは失意のどん底にあり、ぼくの心理的消耗はかなりひど
いようです。正常な意識の行動を失っているようです。とかげのしっぽを手
に持って、ぶら下げて、何か自慢し、威張っているようにもみえます。
  「なんて原っぱは静かなんだろう。」から「ひとりぼっちで立ってい
る。」までの音声表現のしかたは、こうします。ぼくは失意のどん底にあり
ます。ぼくの心の中はからっぽです、空虚です。何をどう行動しようの当て
もなく、意気消沈した、意欲のわかない、気の抜けた気持ちになっていま
す。こうした気持ちで、語句のつながりを押さえ、区切りをはっきりさせ
て、全文をゆっくりめに、気落ちした声で、音声表現していくとよいでし
ょう。


      
のぶちゃんとの遊びを回想している場面


  ここでも作者は「あの日も、ぼくは自転車に乗っていた。」の文を4
回、意識的に繰り返して記述しています。この繰り返し文は、一字下げの改
行で書かれています。しかし、意味内容では前段落に書いてある事柄と接続
している文章内容になっています。四つの場面のそれぞれについて、やっぱ
り「あの日も、ぼくは自転車に乗っていた。」と繰り返しながら回想してい
る文章です。
  音声表現するときは、一字下げの改行で書いてありますが、気持ちとし
ては前段落にすぐ続けるように読んでいくとよいでしょう。前段落の最後の
文末に直ぐにつなげて、想い出し、想いをたぐって語っているように音声表
現るとよいでしょう。
  さくらの日、ざりがにつり、いろんな実、冬休み、これら四つは意味内
容で区切って、四つのまとまりにして音声表現します。これら一つ一つ場面
に「あの日も、ぼくは自転車に乗っていた。」を最後に付け加えているよう
に音声表現していくとよいでしょう。
  それぞれ四つの場面の区切りごとに「あの日も、ぼくは自転車に乗って
いた。」がつけ加わり、リピートの文が四個ならぶように、ならべる気持ち
で音声表現します。四つの回想場面がならび、それらひとつひとつに「あの
日も、ぼくは自転車に乗っていた。」という回想の言葉が並べてあることが
分るように音声表現します。
  「ふながねむる、こいがめぬる、たにしがねむる」「池を」の係り受け
です。「池」の前に長い体言修飾部分がついています。体言修飾の係り受け
に気をつけて音声表現させましょう。
  次に、四つの場面を分けた、区切りが分るように、くぎって書いてみま
しょう。

さくらの花がいちばんきれいにさいた日、明るい花のしたで、ぼくはのぶ
ちゃんと友だちになった。あの日も、ぼくは自転車に乗っていた。

ざりがにをつりに行った日、どろやなぎの葉が風に光る川原で、ぼくはのぶ
ちゃんと待ち合わせをした。あの日も、ぼくは自転車に乗っていた。

松の実、しいの実、どんぐりの実、いろんな実のふる音の中を、ぼくはのぶ
ちゃんとどこかへ急いでいた。あの日も、ぼくは自転車に乗っていた。

冬休みに入った最初の日、ぼくはのぶちゃんと学校へ遊びに行った。ふなが
ねむる、こいがねむる、たにしがねむる池を、ぼくとのぶちゃんはいつまで
ものぞきこんでいた。あの日も、ぼくは自転車に乗っていた。


         
とかげと再会した場面

  
  この場面は、「一か月たってから、ぼくの自転車が出てきた。」から、
この物語りの最終行までです。自転車が見つかったわけですから、明るく、
元気に、晴れ晴れとした、生き生きした、溌剌とした気持ちと声立てで音声
表現していくよいでしょう。

  次の文章個所は、体言修飾の係り受け関係に注意して音声表現します。
  「すぐに自転車に乗って野球をしに行く」は「ぼく」に係る体言修飾部
です。「すぐに自転車に乗って野球をしに行く」+「ぼくになった。」とい
う区切り方で音声表現するとよくなります。
  「一度遊びに行ったら夕方まで帰らない、自転車をなくす前の」は、
「ぼく」に係る体言修飾部分です。「一度遊びに行ったら夕方まで帰らな
い、自転車をなくす前の」+「ぼくになった。」という区切り方で音声表現
するとよいでしょう。

  「とかげは、ぼくの方に生えたてのしっぽを投げ出して、「見ろよ!」
というように、横目でぼくを見ている。」と書いてあります。これは、勝手
にぼくの目にそう映っただけのこと、ぼくの頭にそのように浮かんだだけの
ことです。自分勝手に、ぼくに、そう見えただけです。とかげ自身には、
ぼくに「見ろよ。」と自慢している気持ちはつゆほどもなかっことでしょ
う。しかし、ぼくには、とかげがぼくに「見ろよ。また生えたではない
か。」と自慢して言ってるように見えたのでしょう。
  ぼくも、「やい、とかげ。ぼくの自転車を見ろよ。なくした自転車が見
つかったんだよ。出てきたんだよ。」と、自転車のベルまで鳴らしてとかげ
に注意を喚起しながら、呼びかけて、自慢しています。
  とかげ君が自慢するなら、ぼくにだって自慢するものがあるんだぞ、お
あいこだぞ、と堂々と渡り合っているようです。「ほら、これが、ぼくの自
転車だぞ。」と、鼻高々とした態度で、見つかった自転車をとかげに「見ろ
よ」と誇示しています。
  このように、ぼくは、自分勝手な物語を作り上げています。これは本教
材の全文がぼくの視点から描写されている作品だからです。ぼくは、とかげ
とで自慢し合いができる物語を、嬉しい気持ちで、自分勝手に作り上げて、
楽しんでいます。
  最終行の「やい、とかげ、せっかく生えたしっぽ、なくすなよ。」は地
の文として書かれてはあるが、実際は、ぼくから、とかげへの、会話文とし
て見立てて音声表現する方がよいでしょう。地の文ではあるが、呼びかけの
会話文のような書かれ方ですから、ぼくの会話文にして音声表現するほうが
よいでしょう。最終行の地の文は、ぼくからとかげへの、語り掛けとして音
声表現します。
  だけど改めて考えてみるに、この地の文(会話文)は、ぼくがとかげに
向かって語りかけているというよりも、自分が自分自身に向かって「やい、
せっかく見つかった自転車だよ、今後気をつけなよ。絶対になくすんでない
よ。自転車がなくて、つらかっただろう。毎日がつまらない日々だったろう。
今後、鍵をきちんとかけて、ぜったいに自転車をなくさないようにしよう。」
と自分に語りかけ、自分自身に言い聞かせ、自分自身への新たな決意表明を
させているメタファーとしての地の文だとも思えるのは、わたし(荒木)だ
けでしょうか。


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