読授業を創る そのA面とB面と        08・7・16記 




  
 『一つの花』─(資料編)




      
戦争体験のない若い教師たちのために


  戦争の実体験のない(直接の影響を受けたことのない)若い教師たちが
多くなりました。
  本稿では、物語『一つの花』の読解指導に役立つと思われる視聴覚資
料などを紹介し、この物語を指導する教師たちの教材研究ための参考資料を
提供したいと思います。
  物語『一つの花』の読解指導には、「出征」という過去の事実がどんな
ものであったか、よく知っておいて指導することが重要です。「出征場面」
をきちんと押さえて指導することがポイントとなります。また、お腹をすか
しているひもじいゆみ子の気持ちや様子に身につまされる如くに感じ取るよ
うに指導することも重要です。なぜ、ひもじかったかを知っておくことも必
要です。お腹をすかしているゆみ子に食べ物を与えてやれない両親の気持ち
(現実)を思いやり、一輪のコスモスの花にゆみ子が泣き止み、にっこりし
て何も言わずに汽車に乗って出征していく場面に読者は少しばかりほっとし
つつも無慈悲な現実の哀れさが身につまされます。


           
出征兵士を送る


  物語「一つの花」の中に、ゆみ子のお父さんが出征兵士となって、駅構
内で母子に見送られる場面があります。当時は、通常は家族だけの見送りは
なかったと思いますが、例外な場合としてあったのかもしれません。作者
は、淋しく悲しい物語場面を作り上げるための虚構設定上の作為からこうし
た構成にしたのかもしれません。
  通常は、村人たちが総出で、町内の人たちが総出で、駅に集合して、の
ぼりを立て、日の丸の小旗をちぎれるほどにふって、出征兵士を見送ったも
のでした。「駅には、ほかにも戦争に行く人があって、人ごみの中から、と
きどきばんざいのが起こりました。また、別の方からは、たえず勇ましい軍
歌が聞こえてきました。」のようにです。
  大都市では、出征兵士が一堂に集まり、ひとまとめの集団として、大都
市の人々に大集合の号令がかかり、鳴り物入りの大行列を組んで、出征兵士
の大集団を見送ったものでした。家族だけ、というのは通常はありませんで
した。

  実際に、過去において、出征兵士を送る場面はどんな様子だったので
しょう。次に、それを経験した人たちが書いた文章から引用してみます。

  
七原恵史・林吉宏・新崎武彦共著『ぼくら国民学校一年生』(ケイ・アイ・
メデア発行、2001)から引用
(荒木注、三人の著者は、「愛知県の、三河の、そして長篠村という狭くて
小さい集落に生まれ育ったぼくら」です。三人は軍国主義教育体制の「国民
学校」の児童として学校生活を送りました。当時の「国民学校」という戦意
高揚一辺倒の教育体制という特殊な学校生活の中で体験したことを、記憶を
振り返って記述しています。)


ーーーー引用開始ーーーーーー

             兵隊送り

  「兵隊送り」と言って、出征する兵隊さんを送りだす行事がしばしば
あった。兵隊送りは、一番早い時間に行うことが多かった。
  ぼくらも朝早く起きて、眠い目をこすりながら朝食を食べてでかけた。
まだあたりは暗く、星がまたたいている時もあった。そんな時はよく流れ星
を見た。明け方の空に、突然明るい光がスーッと尾を引いて流れる星を見る
のは楽しかった。「ああっ、今度の星は長かったな」などと話し合った。冬
の朝だと息を吐くと白い息が出た。何回も息を吐いてその広がりを楽しん
だ。
  ある時、上級生がタバコを持ってきて、隊列(当時は隊列を組んで歩い
た)の一番うしろに行って火をつけた。たいへんなことをするなあと思って
いると、二年生や三年生のところに来て「お前も吸え」と言って吸わされ
た。背けば怒られるので吸った。吸えば下級生も同罪であり、告げ口ができ
なくなるという理屈である。しかし、一年生には吸わせなかった。これは、
あの頃の仁義であったと思う。
  兵隊送りは、本長篠の駅が多かった。駅前は狭い場所であった。その駅
側の送る代表である村長や役員が並び、出征する兵士とその家族が駅の向か
い側にある店の前の方に並んで向かい合う。送る一般の人たちは両者の間に
立つ。やがて村長が出征する兵士の前に立って、激励の言葉を述べる。当時
の村長は筒井耕一氏で、しわがれた声でながながと演説した。要するにお国
のために頑張ってほしいということであった。それが済むと出征する兵士が
お礼の挨拶と出征にあたっての決意を述べた。自分の兄が出征する時は誇ら
しいような、照れ臭いような気持ちが半々であった。列車が来るまでの間、
軍歌を歌った。「出征兵士を送る歌」などはその一つである。

        一 わが大君に召されたる
          命はえある朝ぼらけ
          たたえて送る一億の
          歓呼は高く天を衝く
          いざいけ つわもの
          日本男児

  いよいよ出発の時間が来て、列車が構内に入ってくると、みんな手に手
に旗を持って振って見送った。これも途中から旗を振っているとスパイに軍
隊を送りだしていることがわかってしまうからいけないという理由で旗を振
らないことになった。スパイってどこにいるのだろうかと不思議であった。
  出征した兵士は男子がほとんどであったが、一人従軍看護婦として出征
する女性がいた。姿勢や顔つきもよく、挨拶もしっかりしていると感心した
が、いざ、電車が動き出すと、デッキの上で手を振っているけれど、涙があ
ふれでて、ハンケチで顔を覆いながら遠ざかっていった。あれだけ気丈に見
えた人が涙を流したところを見て複雑な気持ちになった。
  こうして出征した人たちは、指定された軍隊に入隊するらしいが、中に
は翌日に戻っていた人もあった。丙種合格という評価で、あの人も出征かと
戦況の厳しさを考えたが、やはり軍隊は無理であったのかと思った。その人
と顔を合わせるのはつらかった。

ーーーー引用終了ーーーーーーー



今の若い人たちは、軍歌をパチンコ屋さんで聞くことがあるでしょう。
上述の文章にあった「出征兵士を送る歌」とは、こんな歌です。


       出征兵士を送る歌
 
             作詞:生田大三郎
             作曲:林伊佐緒

    1.
   わが大君に 召されたる
   生命はえある 朝ぼらけ
   讃へて送る 一億の
   歓呼は高く 天を衝く
   いざ征け つはもの 日本男児

    2.
   華と咲く身の 感激を
   戎衣の胸に 引き緊めて
   正義の軍の 行くところ
   誰か阻まん その歩武を
   いざ征け つはもの 日本男児

    3.
   輝く御旗 先立てて
   越ゆる勝利の 幾山河
   無敵日本の 武勲(いさをし)を
   世界に示す 時ぞ今
   いざ征け つうあもの 日本男児

    4.
   守る銃後に 憂なし
   大和魂 揺るぎなき
   国のかために 人の和に
   大盤石の この備へ
   いざ征け つはもの 日本男児

    5.
   ああ万世の 大君に
   水漬き草むす 忠烈の
   誓致さむ 秋至る
   勇ましいかな この首途
   いざ征け つはもの 日本男児

    6.
   父祖の血潮に 色映ゆる
   国の誉の 日の丸を
   世紀の空に 燦然と
   揚げて築けや 新亜細亜
   いざ征け つはもの 日本男児


「出征兵士を送る歌」の歌詞にある語句解説
  大君(天皇に対する敬称)
  戎衣(軍服。戦争に行く時の衣服)
  輝く御旗(ここでは日の丸)
  銃後(戦場の後方。直接に戦闘に携わっていないが間接的に
     なんかの形で戦争の参加している一般国民)
  万世(限りなく続く永い世)
  忠烈(きわめて忠義心が厚いこと)
  父祖(父と祖父。または代々の先祖)
  歩武(足のはこび。足取り)


出征兵士を送る歌(二葉百合子)
http://www.youtube.com/watch?v=gjhPoa4jyNA&feature=related


出征兵士を送る歌(出征場面の映像あり)
http://www.youtube.com/watch?v=ZbG9eFK4qbA

http://www.youtube.com/watch?v=xPmQyMLkj_U


冒頭場面に出征の様子が出てくる
http://jp.youtube.com/watch?v=7WOVJbs4pOM&feature=related


鶴田浩二さんのすばらしい語りに耳を傾けてみよう。
鶴田さんの悲痛な慟哭の呻き声が聞こえます。生き残ったすまなさと自責、
羞恥の念、贖罪と鎮魂、哀悼と救済の痛切な語り声に耳を傾けてみよう。
http://www.youtube.com/watch?v=MLvyta_NzsU

http://www.youtube.com/watch?v=3Ok_Dh-HVWw


「同期の桜」 兵学校の訓練の様子と戦場の映像あり。天皇陛下の
御為に死んで靖国神社に護国の英霊として祀られる名誉の戦死。
http://www.youtube.com/watch?v=DEkqLqnuMq4

「嗚呼!同期の桜」六十数年前の悲劇に散った若者たちの
 勇士を称え悼み………
http://www.youtube.com/watch?v=I5rgSB1QkFw&feature=related


「出征兵士」の解説
 「出征兵士」については、下段にあるウェブサイト検索がまとめてくれて
ますので、ひとつ一つを検索して調べてみましょう。
http://www.asahi-net.or.jp/~uu3s-situ/00/Syussei.Heisi.html



         
戦時中の食糧不足のわけ



「一つの花」の本文に「お母さんのかたにかかっているかばんには、包帯、
お薬、配給のきっぷ、そして、大事なお米で作ったおにぎりが入っていまし
た。」とあります。「大事なお米」と書いてあります。なぜ「大事な」なの
でしょうか。ゆみ子が、なぜ、あんなにまでお腹をすかしていたのでしょう
か。また、「配給のきっぷ」とは、何なんでしょうか。


  これらについて鴨下信一(演出家、TBS相談役)さんは、下記のよう
に書いています。鴨下信一『誰も「戦後」を覚えていない』(文春新書
平成17)からの引用です。

配給制度の様子
 
 六大都市を中心に米の配給通帳制が始まったのは昭和十六年の四月、太
平洋戦争開戦の八か月ほど前だった。一人一日当たり2合3勺(330g)。
この年、お菓子も割当制になった。東京では一か月に1円15銭分。香辛料
も配給制になり、卵も餅も配給に。
  配給米は配給がはじまった時は七分づき米だった。七分づきといっても
いまの人には解説がいる。ぬかの部分を全部取り除けば白米。七割除いたの
が七分づき、取り除いてないのが玄米。
  昭和18年には七分づきが五分づきになる。まもなく玄米になった。当
時の東条首相がさかんに玄米は栄養価が高くて体にいいと宣伝していたのを
思い出す。本当はつき減りする分を一日当たりの量にくり入れようという魂
胆だった。
  玄米は消化が悪くてしばしば下痢の原因となる。圧力鍋で炊いても、そ
れこそアゴがひだるくなるまで噛まないといけない。噛むから栄養にいいと
言われても、とてもたまらない。そこで一升瓶の中に玄米を入れ、瓶の口か
ら細い竹の棒をさしこんでこれをつつく。老人や子供がよくこれをやらされ
た。ひどく疲れる割にぬかはとれず、させられるのは本当に嫌だった。
                     22pより引用


食糧難のわけ
 
 食糧難の第一の原因はもちろん戦時中の軍需優先の生産体制で、召集と
徴用とで農村の人手不足が深刻化したこと、そして敗色濃厚のなか輸送・配
給のロジステックスが機能しなくなったことだが、外地からの復員、引き揚
げによる人口増がこれに追い打ちをかけた。しかし食糧不足のどん底の年、
昭和21年の飢餓状況に決定的だったのは昭和20年の未曽有の凶作(大正、
昭和をとおして最大)で、米の収穫量は581万トン(前年比68.8%)、
供出量は予定量のたった23%だった。これではたまらない。
                      28pより引用


≪ここで荒木の注記をさしはさみます。語句の注記です。
召集とは、国民に軍隊として呼び集める命令すること。徴用とは、兵器工場
などへ強制的に動員労働させること。これは男子だけでなく、若い女子労
働・たとえば女学生たち(娘たち)も徴用にかりだされた。
以上で荒木の注記のさしはさみを終了します。以下、引用の継続をします≫

食糧難の様子
 
 戦前からすでに日本の米の消費量はその生産量を大幅に上回っていた。
この差を埋めたのは朝鮮などの植民地の米生産だが、戦利が不利となってゆ
くにつれて輸送が利かなくなった。戦争末期の昭和20年の7月から米の配
給量は315gになり、しかも全部米でない、4割、ひどい時は、5割麦そ
の他の雑穀が混じった。
  もう炊き増えなどでごまかすような状態ではなくなって、とっくに世の
中は〈混炊)の時代に入っていた。     24pより引用

  配給は減配から遅配・欠配となる。21年6月東京都内の遅配は平均1
8,9日。当然、混炊は雑穀になる。食糧難で政府は10万人以上の人口の都
市への転入を禁止するが、そんなことはどうにもならない。前年すでに東京
上野駅で1日平均2,5人の餓死者があったと記録にある。飢えないだけでもい
い。
  戦争は日本人の食事を明治以前に押し戻した。豆、いも、かぼちゃ、と
うもろこし、ひえ、あわ、きび等の雑穀(麦などもったいなくてこの中には
入れられない)、その他の野菜類、混炊の材料はいろいろあったが、高粱(
こうりゃん)、あれには困った。どうやっても排便のときそのまま赤い粒粒
が出てきてしまうのだ。            25pより引用

  都市の空き地という空き地、焼け跡という焼け跡は畑となった。作るも
のはまず第一がかぼちゃ、そしていも。特にさつまいも、ただし”実”だけ
食べるわけじゃない。”かぼちゃはは葉っぱも種も食え””いもはつるまで
食え”が合い言葉だった。           30pより引用

  美味しいには、〈腹いっぱい食べる〉ことが含まれるという注釈がいる
のだろう。腹いっぱい食べることがイコール美味しいことだった。
                       20pより引用
ーーーここまで鴨下さんの著書からの引用終了ーーーーーーー



  同じく戦時体制下の食糧不足とその原因について、配給制度について、
吉田裕(一橋大学教授)さんは下記のように書いています。吉田裕『アジ
ア・太平洋戦争』
(岩波新書、2007)からの引用です。

  日本の戦時体制の最大の特質の一つとしては、戦時体制の強化と国民生
活の窮乏化とが、常に併進したことがあげられるだろう。この点では、同盟
国のドイツとの間にもかなりの違いがあった。ドイツの場合、政府が生活必
需物資の確保を重視し、時には軍需をある程度、犠牲にしても、国民の生活
水準の維持に努めようとした。
(中略)
  これに対して日本の場合には、日中戦争以降の物動計画そのものが、限
られた国力の下で軍需生産を急速に拡充するため、民需を犠牲にするという
政策を意識的に採用していた。ある企画院調査官は、民需に対する配慮がな
く、「民需とは濡れ手拭いのようにしぼればしぼるほど余裕のあるものだ」
との観念に支配されていたと回想している(田中申一『日本戦争経済秘史』)。
この結果、軍需の拡充に反比例する形で、国民生活の水準は切り下げられた。
このため、国民の生活水準は、日中戦争以降、一貫して低下し、個人消費支
出は、早くも四二年の時点で日中戦争開戦時の水準の八割を割っていたし、
アジア・太平洋戦争開戦前の四十年の時点で、昭和恐慌下の三十年の水準を
下回っている。
(中略)
  日本の戦時経済の進展が国民生活を直撃したのは、配給制度と労働力動
員を通じてである。配給制度とは、日中戦争以降の戦時経済の下で、生活必
需品などの分配を政府が統制するために導入された制度であり、政府の決め
た分配量だけを各自が国定価格で購入することができた。国民は配給された
食料や生活用品を配給所もしくは隣組を通じて入手したのである。四十年六
月からは六大都市で砂糖とマッチの配給制が始まっていたが、国民生活に決
定的な影響を与えたのは、四一年四月から六大都市で実施に移された主食の
米の割当配給制である。これによって、普通の大人一人の配給量は、平均的
な消費量よりかなり低い二合三勺に設定され、以後、同年中にこの制度はほ
ぼ全国に波及してゆく。この二合三勺という割当量は、形式的には四五年五
月までは変わらなかったが、米に代わって、麦・いも類・雑穀などが混入さ
れるようになり、四四年十月には、主食配給量米の占める割合は、六六%に
まで低下している。
  さらにアジア・太平洋戦争の開戦前後から配給制はいっそう拡大し、四
一年十一月からは、衣料品と味噌・醤油が、続いて十一月からは青果物が配
給制に移行している。しかし、実際には、当初の割当基準量を維持すること
さえ困難であり、配給品の粗悪化とも相まって、国民生活は急速に窮乏化し
ていった。同時に配給品だけで生きていくのは不可能だから、多くの国民は
公定価格制度違反の闇取引によって、米や野菜などを購入するようになった。
闇取引の常態化である。
(中略)
  三八年四月公布の国家総動員法に基づく勅令として公布された国民徴用
令は、国民を政府の指定する業種に強制的に就業させる法令であり、軍需産
業=重化学工業への労働力の「狩り出し」政策に決定的な強制力を付与した。
軍隊への召集令状が国民の間で「赤紙」と呼ばれたのに対して、徴用令状が
国民の間で「白紙」と呼ばれた。
                   123P〜125Pからの引用



「配給制度」の様子について、金田一春彦(元東外大教授、国語学者)さん
が、恩師・橋本進吉(元東大教授、国語学者)さんの生涯を語っている文章
の中で、下記のように書いています。『金田一春彦著作集第四巻』708ぺ
「橋本進吉博士の生涯」からの引用です。

 戦争中は配給制度といって一般の人たちの食物はすべておかみから支給さ
れることとなった。しかし、それはまずいものばかりで、その分量も少なす
ぎた。で、多くの家庭ではヤミと称し、ほかのほうへ手をまわして知り合い
から食物を公定価格より高いお金で購入して飢えをしのいでいた。
 が、橋本博士はきまじめな性格から、一切ヤミのものを買うことをしなか
ったという。出来るだけ食をきりつめて生活をしていた。終戦後そういう配
給だけで食生活をまかなっていた裁判官が栄養失調で死んだというニュース
が新聞に出たが、橋本博士の場合もそういううわさが流れたものだった。謹
厳な博士には全然考えられないことではなかった。




  「物のない時代」について安藤かよ子(昭和7年生まれ)さんは、
当時を回想して下記のように書いています。『昭和の戦争記録・東京目黒
の住民が語る』(岩波書店、1991)
からの一部抜粋引用です。

  私の家は二度の空襲で荷物を持ち出す間もなく丸焼けになってしまい、
わたしは着替える服もなく、学校の先生にブラウスを頂いたり、雨が降る時
さす傘もなく、知り合いの方に頂いたお古の雨合羽を着ていました。古い雨
合羽なので雨が合羽の中までしみてきましたが、何もないよりましでした。
  食べ物も、サツマイモのつるや、庭に生えていたアサガオの芽を摘んで、
ゆでて食べたりもしました。食料の配給といえば、豆かす、トウモロコシの
粉、ヤシの油、砂糖、サツマイモで、その配給されたサツマイモが大根のよ
うに大きかったのを今でも覚えています。
  お風呂にも入れず、髪の毛や服にシラミのたかった人もいました。 
  このころはタバコも配給でした。(略)大切に着ていた古合羽や、お酒
の配給を一升の御米に換えて、少しずつ分けて作ったお芋だらけの雑炊のこ
となど、今でも忘られません。      173Pより引用



  「物のない時代」について、朝比奈昭元さんは、当時を回想して下記の
ように書いています。朝比奈さんは、太平洋戦争の開戦時が小学2年生、敗戦
時が小学6年生で、長野県木曽郡木祖小学校に在籍していました。『メデ
ア・リテラシーを伸ばす国語の授業、小学校編』(児童言語研究会編著、一
光社、2005)所収の朝比奈論文「戦前のメデア教育ーーわたしのメデア教
育体験」
からの一部抜粋引用です。 
 
 
1941年(昭和16)に入ると、統制関係の発令は続出し、生活必需品
をはじめ、米穀、鮮魚、食肉、衣類、紙、薬品、木材などにいたるまで配給
制度が強化されていきました。こうしたすべてにわたる統制は、国民の生活
を強く圧迫しました。今日では考えられないような窮乏生活を強いられたの
です。当時の生活状況の中からいくつか鮮明に記憶していることを取り上げ
ていきましょう。
  まず、甘味が無くなりました。お菓子どころではありません。めずらし
く母が作ってくれたおはぎが塩味だったことを今でも覚えています。米の配
給はわずかなものでした。それを補うために、ふき、わらび、ぜんまい、み
ずをはじめ野草や木の葉など、食べられる物は何でも採取しました。それを
少しばかりの米といっしょに煮炊きして食べました。魚を手に入れるのも大
変でした。村には魚屋が一軒しかありませんでした。店主が仕入れ行き、帰
ってくるのがお昼ごろでしたが、すでに長蛇の列ができていて、一人当たり
の分は限られたものでした。
  肉類は見ることができませんでした。そのかわりに、ひきがえる、へび、
かもしか、くま、さるの肉まで食べたものです。学校に持っていくお弁当は、
とうもろこしの粉を固めた塩味のだんごでした。それが二つほどでしたが、
大事に少しずつかじったものです。
  やがて戦争末期になり、高学年になった私たちは、授業らしきものはほ
とんどなくなり、厳しい奉仕活動を強いられました。冬場の教室のストーブ
の薪を確保するため、深い山に入り、生木の束を二把ずつ背負い、急坂を馬
車道まで何回も往復しました。その見返りとしてわずかの薪を学校は手に入
れたのです。子どもの体力の限度を越える労働でした。田植えや稲刈りの時
期になると、農家へ出かけて朝から暗くなるまで働いたものです。食料事情
がいっそう悪化してくると、ついには学校の校庭も畑に変わり、全校の子ど
もがつるはしや鍬を振るって校庭を耕しました。踏み固められた土は固く、
鍬が跳ね返ってきたことが思い出されます。こうして、私たちは学ぶ権利を
奪われ、やがて兵隊となって天皇・国家のために一命を捧げる軍国少年に、
勉強は無用だったのです。            60ぺより引用



 [もののない時代」について、前掲書『ぼくら国民学校一年生』(ケイ・
アイ・メデア発行。2001)には、次のように書いてあります。国民学校当時
の小学生たちの食糧難の様子が書かれています。

食糧増産 
 何と言っても食糧問題が取り上げられ、作業が多くなった。一番の思い出
は、大通寺の裏手にある山を開墾してサツマイモを作ったことである。広い
斜面の山で三年生や四年生も弁当持ちで、毎日毎日木の根を掘ったりする開
墾は重労働であった。
 とくに肥料として学校の便所を汲み取り、「のっこし」を通って開墾の山
まで行くのは本当に難儀であった。ぼくは体が小さく、肥桶の紐を幾重にも
巻きつけなくては桶が地面に当たってしまい困ったことが多かった。ついに
我慢できなくなった時、「のっこし」の医応寺に行く道にそれて山に入り、
半分ほどあけて軽くした。開墾の下に池があり、その水を入れて自分の肥料
を撒く範囲は薄くなってもできる計算はしていたつもりである。
 ところが、たまたまだと思うが、ある先生が尿意を催し、ぼくらが便をあ
けたところに行ったのでバレてしまい、後で大目玉を食らった。桶は二人で
担ぐため、相手もいるわけだが、先生が用を足さなかったらバレなかったと
いつも思いつつ、相手の名前と先生の名前は伏せておくことにする。
馬糞集め
 運動場の八割くらいが畑になった。それでも足りず運動場の西南隅にある
空地にカボチャを作ることになった。そのために肥料が必要で、肥料になる
牛の糞や馬の糞を集めることになった。当時の運送には牛や馬が使われてい
たから道にはその糞が落ちていた。手作りの、小型の手押し車を作り、糞を
かき寄せるトンボやちり取りも作って集め、学校へ持って行った。
 集めた牛糞や馬糞を下に埋め、その上に円錐形に土を盛り、円錐の頭を平
らにしてカボチャの種を蒔いた。ところで、牛の糞はネバメバしているが、
馬の糞はわらが入っているのでパラパラしていた。牛や馬の糞は独得の植物
的な匂いがあるけれど人間のように臭くないのでそれほど抵抗はなかった。



 「父の出征」について野沢美智子(昭和12年生まれ)さんは、当時を
回想して下記のように書いています。『昭和の戦争記録・東京目黒の住民が
語る』(岩波書店、1991)からの一部抜粋引用です。

  父が出征したのは、昭和18年でした。私が六歳、下に弟と妹がいまし
た。当時私たち家族は、中目黒駅近くの住んでいました。
  昭和18年の何月だったでしょうか。ある日の夕方4時ごろに、父の入
ってる隊が品川駅から戦地の出発するという知らせがはいりました。そのこ
ろはすでに物資の乏しい時代でしたが、母はどう工面したのか、父にかりん
糖を作って持って行ったのが、とてもよく記憶に残っています。母は妹を背
負い、私は弟の手を引いて、近所の時計屋さんの家族と一緒に品川駅まで行
きました。
  品川駅前の広場には見送りの人でごった返していて、ぼんやりしている
と母とはぐれてしまいそうでした。駅の近くの兵舎まで行き、父に会いたい
と、そばにいた兵隊さんに頼みました。あとで分かったのですが、本当は面
会などできなかったそうです。母が頼んだ兵隊さんが父を知っている人で、
呼んできてくれました。大きな高い木の門の間から、ほんの一瞬父の顔が見
え「元気で行ってくるから」とだけいうのが聞こえました。母がかりん糖を
渡せたのかどうか覚えていません。
  汽車に乗るまで見送ろうと待っていましたが、兵隊さんたちが整列して
行進してきた時は、ものすごい数ののぼり旗や人の声で、誰が誰だか分らな
い状態で、その日は、父とはそれきり会えませんでした。
  父が出征してからは、玉砕のニュースを聞いたりすると、子ども心に、
もしかすると父もそうなのかと思ったりしました。とにかくずっと音信不通
で、生きているのか死んでしまったのか全く分かりませんでした。
                         68Pより引用



  「食糧難」について、倉沢愛子(慶応大学教授)さんは、下記のように
書いています。倉沢愛子『大東亜戦争を知っていますか』(講談社現代新書、
2002)からの一部抜粋引用です。

 ●娘へ
  ロミ、戦争中、日本では食糧が不足し、配給制でほんの限られた量の食
べ物しか手に入らなかったということを、あなたも、おばあちゃんからいや
というほど聞かされたよね。(略)珍味やおいしいものを追い求めるグル
メ・ブームの日本にいるあなたたちにとって、餓死者が出るほどの戦中、戦
後の食糧事情を想像するのはかなり難しいことかもしれないね。
  日本は最初、国内の不足を東南アジアの米を輸入して補えばいいと考え
ていたの。「ガイマイ」っていうことばを聞いたことがある? 文字通りの
意味は「外国から輸入した米」なんだけど、この「ガイマイ」という表現に
は独特のニュアンスがあるのよ。主に、戦争中東南アジア、特にタイから輸
入したお米を指しているの。輸入状況が悪かったから、味も落ちてしまって、
しばしば石ころなども混ざっていて、日本の消費者の手元に届いた時にはま
ずいお米になっていた。だから「ガイマイ」っていうのはまずいお米という
先入観をともなったことばなんだけど、現実にはそれでも大変に有難たかっ
たのよ。その「ガイマイ」も手に入らなくなってしまった。
  それは、東南アジアの占領地においてもひどい米不足が生じていたから
なの。(略)現実には、インドネシア、北部ベトナム、マラヤなど東南アジ
ア各地でも米が不足して、餓死者が出るほどだったの。とくに北部ベトナム
では1945年初頭に200万人もの餓死者が出たと言われているの。
                        146〜7Pより引用


 戦争中、戦争直後の「食糧難」について、東京新聞発言欄(2010,6,2)に
次のような読者からの投稿記事が掲載されていました。

 弟からの暗号マメオクレ     柴崎幸子82歳(埼玉県毛呂山町)
 
 戦争中、東京の空高く銀翼を連ねたB29の編隊が悠々と飛んでいるの
を近所の人たちと眺めていた時、一枚のハガキが届いた。学童疎開している
小学六年の弟からだった。
  近況を綴ったものだった。が、よく見ると、所々に消した跡なのか、そ
れとも涙でも落としたのか、小さな黒いものが。たどってみた。逆さにして
「イリマメオクレ」と読めたのだ。
  弟がおなかをすかし、先生の検閲を逃れてのSOSだと分かった。その
ころは、豆といえども配給もなく手に入らない。両親を病気で亡くし、母親
代わりの私にはどうすることもできなかった。
  しかし、何とかヤミで手に入れた大豆をいって、面会の日に持参した。
「夜中に布団にもぐって食べるんだ。みんなしてるんだよ」とうれしそうに
抱え持った弟の笑顔が今でもはっきりと思いだせるのである。


 フキ雑炊で飢えをしのぐ    石井敏男71歳(埼玉県三芳町在住)
 
 「採ったフキをしょって、一里の山道を下ってきたことが、たびたびあ
った」。私の母は九十一歳まで生きた人だが、敗戦直後の暮しを思い出すと、
感慨をこめてこう言った。一握りの米にフキを多く入れ、雑炊にした。母と
低学年の私と祖母の食事である。
  私は給食の体験がない。4年生までは自宅からすぐの分教場。昼は帰宅
して、おかゆをかき込んだ。高学年になると、五キロ先の本校通い。風呂敷
に包んだ弁当の中身は、サツマイモやジャガイモ、大根葉などを炊き込んだ
ご飯。夕食は、ランプの下で食べる麦飯やすいとん。おかずは、たくあん。
たまに塩引きのサケ。肉は食したことがない。卵は病気になって口にできた。
それが当たり前と思っていたので苦にならなかった。
  母の実家で味わった幼き日の、飢えをしのぐ質素な食生活が身に染みて
いるから、食べ残しや廃棄など、もったいないことはできないのである。

 差し入れに照れた往時     宮前 昇87歳(埼玉県秩父市在住)
 
 昭和21年は、本当に空腹の年であった。私が県東南の旧制のK中学に
赴任したのはこの年九月、二十三歳。初任給は勤労者最低の三百円ほど。町
の素封家の別宅、北西窓の一間に下宿しての自炊生活はどん底だった。
  判事が一切の闇米を拒否して餓死したというのは翌23年のこと。闇買
いしなかったのは私も同じ。違いは彼は判事としての信念からだったろうが、
私は薄給に加え、知らぬ異郷で闇買いの才覚がなかったからで、自慢にはな
らない。
  食料の配給は隣組を通じて週二回。ひどい時はバケツに入るのは水っぽ
いイモばかり。飯ごうでイモをふかしていた時、隣家の台所から家族の談笑
と共に、味噌汁の匂い。
  もやもやしていたら、上の引き戸が開いて「宮前さん、これどうぞ」と
湯気の立っている味噌汁と漬物のお盆を差し入れてくれた。「すみません」
という返事に照れと、みじめさがあった。私より多少年上の女性だった。半
世紀以上たった今も、時々思い出す。




           
英霊の帰還


英霊の帰還とは
「英霊の帰還」とは、「死して我が家に帰る」ことです。そして「靖国神社
に英霊として祀られる」ことです。これについては下記の文章をお読み下さ
い。

「英霊の帰還」の映像
出征の見送り、英霊の帰還と遺骨の行列、配給制度、戦争協力キャンペー
ン、国民学校の発足などの映像が出現します。
    http://jp.youtube.com/watch?v=yEY0ZMncN7M

つづいて上記した本、七原恵史・林吉宏・新崎武彦共著『ぼくら国民学校一
年生』(ケイ・アイ・メデア発行、2001)からの引用です。当時の子ども達
がどのように英霊を迎えたか、その一例が書かれています。

ーーーーー引用開始ーーーーーーー

            英霊の帰還

  兵隊送りとは逆に、「英霊の帰還」というのがあった。白木の箱を白い
布で巻き、頸にかけた遺族が、戦死した兵士の写真をかかげて駅の前に整列
した。村長が白木の箱や写真を持った遺族の前で演説をした。「英霊」とか
「名誉ある戦死」だとかお決まりの言葉が並べられた。戦死した兵士の家に
は「誉れの家」という表札が掲げられた。
  ぼくの祖母の在所(出身地)でも長男が亡くなった。国からの連絡では
「台湾で戦病死」といわれたが、遺骨は帰らなかったし、どんなふうであっ
たかわからずじまいであった。 
  ぼくの伯父さんは、昭和十五年十一月三十日に出征し、昭和十六年五
月二十二日にモンゴルで戦死した。わずか半年で白木の箱になって帰ってき
た。葬儀の日に祖父が箱をあけてみせてくれたが、白い骨があった。

             村葬

  戦局が不利になると多くの犠牲者がでる。長篠村でも出征兵士の訃報が
出始めた。無言の帰還を住民とともに学校から駅へ迎えに行った。
  家族の代表の胸に白帯で抱きかかえられた遺骨の包みは痛々しかった。
住民を代表して労をねぎらう村長さんの言葉も、枯れたかすれ声であまり聞
き取れなかった。当時筒井村長であった。
  無言の帰還をした兵士の葬儀は「村葬」で行われた。場所は長篠国民学
校の運動場で、大きな輪を作り、その中心に祭壇を置いて盛大に挙行された
が、若くして亡くなられた方々は、そうした時代に生を受けたとはいえ、お
気の毒であったと今でも思う。
  「村葬」には三年生以上は全員が参列した。一、二年生は飛び回って遊
んでいた。葬式も終りに近づくと花籠が振られた。花籠の中から紙に包まれ
たお金が振り撒かれる。当時の子どもたちの現金収入の一つにこの花籠を拾
うため、普通の葬儀に子どもたちは群がった。
  ぼくたちは葬儀に参列していて直立不動の姿勢をしているので、お金は
全て一、二年生に拾われてしまった。足元に落ちたお金を辛うじて足で踏み
つけ、後で拾おうとしていても、先生の「気をつけ!」の号令で、両足を揃
えた瞬間、足で隠しておいたお金が出ると同時に一、二年生に拾われてし
まった。
  村葬が終わって一、二年生から取り上げようとしても、近くにはだれ
もいなくて、どこに隠れてしまったかわからなかった。小さい子どもたちの
知恵であった。
ーーーー引用終了ーーーーーーー


 「英霊の帰還」は「名誉の帰還」であった。「死んで帰る」ことは「ほま
れ高い、名誉な、栄光の帰還」として人々に迎えられた。
  なお、「白木の箱」については、すでに本ホームページの6年生教材
「川とノリオ」(いぬい とみこ)の教材解説の個所で書いています。そこ
で、わたしは次のように書いています。

  「白木の箱」について。戦死者の遺骨は白い布におおわれていたことか
ら「白木の箱」といわれています。戦死者の遺骨は「白木の箱」に入れられ
て無言の帰宅をしました。英霊(軍人)の親(母、父)は気丈にも人前では
涙を見せることはせず、かげで泣かなければなりませんでした。人前で涙を
見せることは国辱であったのです。銃後を守る日本国民としての恥だったの
です。
  戦争末期になると遺骨収集が困難となり、帰宅した「白木の箱」には、
人骨が入っていることは少なく(入っていても誰の遺骨かは不明)、一枚の
小さな板きれや紙切れしか入っていないのが普通でした。
  考えみましょう。敵陣との激しい戦車や機関銃の弾が飛び交う修羅場の
戦場で戦死者や重傷者の味方兵士を引き連れて帰ることはとうていできませ
んでした。我が身を敵陣の砲弾の危険から回避しつつ戦うか、または我が身
だけで逃げ帰ることしかできなかったのですから。》



      
大川悦生作「おかあさんの木」から

 
  大川悦生作「おかあさんの木」という物語があります。かつて五年生の
国語教科書(教育出版)に掲載されていた教材文です。物語「おかあさんの
木」には次のような文章部分があります。お母さんの息子である一郎が、英
霊の兵士となって母親のところに名誉の帰還をした文章場面です。以下に、
この場面だけを抜粋引用しています。

ーーーー引用開始ーーーーーー
  ところが、ある日、その木はなんのかわりもなかったに、役場の人があ
らたまってやってきて、一郎が中国大陸で、
    メイヨノセンシヲトゲラレタ
という、知らせをくれた。
  おかあさんは、むねもつぶれんばかり、たいそうおどろきなさったけれ
ど、じっとこらえて、手をついて、
「ごくろうさまでござんした。あの子が、おくにのお役に立てて、うれしゅ
うございます。」
と、いいなさった。
  やがて、一郎の遺骨が、白木のはこにいれられ、白いきれにつつまれて
帰ってきた。そのときも、おかあさんは、人まえでは、なみだひとつこぼさ
んかった。
  でも、おそうしきがすんで、しんるいや近所の人がもどってしまうと、
こらえきれんように、うちのあきちへとんでいった。〈一郎〉の木にとりす
がり、かたいみきにほおずりしながら、
「一郎、一郎、さぞつらかったろうね。たまにあたって、どんなにかいた
かったろうね、死にたくなかったろうね。」
というて、泣きなさったそうな。
  そればかりではない。一郎が戦死してからというもの、毎朝、キリの木
にはなしかけるおかあさんのことばは、すっかりかわっていった。
  まえはひきょうなまねはせんと、おくにのためにてがらをたてておくれ
や………そういいなさっておったのが、
「二郎も、三郎も、四郎もな、一郎にいさんみたいに死んだらいけん。てが
らなんて、たてんでもいい。隊長さんにほめられんでもいい。きっと、生き
て帰っておくれや。」
と、いいなさるようになった。
  すると、だれぞ、どこでききつけてきたのだろう。おかあさんのところ
にきて、なじるように耳うちして、
「そんなこといっていのれば、せんそうにきょうりょくしない非国民といわ
れます。世間の口はうるさいで、きいつけなされ。」
というたり、へんにえんぎをかついで、
「キリの木は、冬、葉がおちるからいけん。みな、おはかの木になるに、ぬ
いてしまいなさるがいい。」
と、いうたりしたのだそうな。
  それでもなんでも、おかあさんは、いままでとちっともかわらず、だい
じにだいじに、むすこたちのキリの木をそだてた。そして、あるときは、一
郎の写真をだきしめて、
「いまだからいうよ。おまえが、おくにのためにたてて、うれしいなんて、
ほんとうなものか。せんそうに死なせるために、おまえたちをうんだのでな
いぞえ。いっしょうけんめい大きくしたのでないぞえ。」と、生きてる人に
はなしかけるように、いいなさった。(以下、省略)
 大川悦生作、箕田源次郎絵『おかあさんの木』(ポプラ社、1969)より



      
幸徳秋水作『兵士を送る』から


  下記は、幸徳秋水が「平民新聞」に寄稿した『兵士を送る』の全文で
す。
日露戦争開戦の直後、明治32年2月14日の「平民新聞」に掲載された文
章です。
  平民新聞は、日露戦争当時、非戦論と社会主義思想を宣伝・普及するた
めに発刊された新聞です。「平民主義、社会主義、平和主義」を唱える。幸
徳秋水、堺利彦などが編集にかかわった。下記は『兵士を送る』の全文で
す。


ーーーーー引用開始ーーーーーー
行矣(ゆけ)従軍の兵士、吾人今や諸君の行(こう)を止(とど)むるに出
なし
諸君今や人を殺さんが為に行く、否(しから)ざれば即ち人に殺されんが為
に行く、吾人は知る、是れ実に諸君の希(ねが)ふ所にあらざることを、然
れども兵士としての諸君は、単に一個の自動機械也、憐れむ可し諸君は思想
の自由を有せざる也、体躯の自由を有せざる也、諸君の行くは諸君の罪に非
ざる也、英霊なる人生を強いて、自動機械と為せる現時の社会制度の罪也、
吾人諸君と不幸にして此の悪制度の下に生まるるを如何せん、行矣(ゆ
け)、吾人今や諸君の行を止むるに由なし
嗚呼従軍の兵士、諸君の田畝(でんぽ)は荒れん、諸君の業務は廃せられ
ん、
諸君の老親は独り門に倚(よ)り、諸君の妻児は空しく飢に泣く、而(しこ
う)して諸君の生還は元より期す可からざる也、而も諸君は行かざる可ら
ず、行矣(ゆけ)、行(ゆい)て諸君の職分とする所を尽せ、一個の機械と
なって動け、然れども露国の兵士も又人の子也、人の夫也、人の父也、諸君
の同胞なる人類也、此を思ふて慎んで彼等に対して残暴の行あること勿れ
嗚呼吾人今や諸君の行を止むるに由なし、吾人の為し得る所は、唯諸君の子
孫をして再び此惨事に会する無らしめん為に、今の悪制度廃止に尽力せんの
み、諸君が朔北(さくほく)の野(や)に奮進するが如く、吾人も亦悪制度
廃止の戦場に向かって奮進せん、諸君若し死せば諸君の子孫と共に為さん、
諸君生還せば諸君と共に為さん
ーーーーー引用終了ーーーーーー



  この幸徳秋水の文章について、丸谷才一(作家)さんは、彼の『文章読
本』(中央公論社、1977)の中で次のように解説を書いています。丸谷さん
は「文章のはじめにはかならず緒論・序論・前書きから書けとよく言われる
が、そんな必要はない。短刀直入に本論から書くのがよい」と書き、その見
本の例文として幸徳秋水『兵士を送る』の文章を挙げています。丸谷さん
は、この文章『兵士を送る』を分析して次のように書いています。丸谷さん
は『文章読本』という書物の性格上、文章の書き方の観点から縷々述べてい
ます。

ーーーーー引用開始ーーーーーー
 この起承転結といふ見方で幸徳秋水の『兵士を送る』を読み直せば、
 第一段(起)行け兵士、といきなり核心に呼びかけ。もちろんこれは、ま
さか反戦新聞が兵士を送る文章など掲げるはずはないといふ、読者の先入主
に衝突感を与える工夫である。思わず読もうとする意欲をそそる、上乗の書
き出し。
 第二段(承)出征兵士に思想および肉体の自由はない。君たちが戦場にお
もむかざるを得ないのは、ひとえに現在の社会の責任である。
 第三段(転)戦争の悲惨。しかし君たちは戦場におもむかざるを得ない。
ただしそこでは、敵兵と積極的に闘ってはいけない。このくだりで筆者は行
け兵士と語りかける立場からくるりと旋回している。行けとは、闘えといふ
意味ではなかったのだ。華麗にしてしかも論理的。十分に納得が行って、そ
のくせドラマチック。
 第四段(結)悪しき社会制度廃止のため共に闘はう。巧妙で着実で激越な
まとめ。
といふ具合になるだろう。仕掛けに急所はまさしく第三段の転にある。
ーーーーー引用終了ーーーーーー 


(これについての丸谷才一さんの論稿はまだ続いているが、大要は以上で尽
されているので、以下省略します。
 さて、幸徳秋水の主張についての読者の皆様のご見解は如何? )



           
生きた戦争教材    


 東京新聞((2013・8・14,朝刊)の「本音のコラム」欄に、斎藤美奈子
(文芸評論家)さんが下記のようなコラム記事を発表していました。

ーーーーーー引用開始ーーーーーー
 数年前、小中学校の国語教科書に載った戦争教材について調べたことがあ
る。国語の戦争教材はほぼすべてが被害者史観に基づく「泣かせの児童文
学」だった。よくある物語のパターンは
 (1)父の出征と戦死
 (2)原爆や空襲による家族の死
 (3)子どもひとりが残される結末
である。あまんきみこ「ちいちゃんのかげおくり」とか、いぬいとみこ「川
とノリオ」とか。
 「悲しい」「つらい」は戦争忌避の第一歩だから仕方がないとしても、な
ぜ戦争になったかの記述がない。他方、社会科は社会科で歴史認識がらみ
年々後退を強いられている。若い世代が右傾化しているといわれるのは、平
和教育がパターン化し「飽きられた」ためかもしれない。
 だからこそ「戦争知るには本物必要」なのだ。手始めに、靖国神社内の遊
就館に行ってみることを薦めたい。軍事博物館なんか、と毛嫌いするなかれ。
戦争の正当化に努める展示とは裏腹に「二度と戦争はしてはいけない」式の
反戦を学ぶ子も少なくない。隠すのでなく見せる。零戦ゼロセンも戦車も
「英霊」の祀り方も。(文芸評論家)
ーーーーーーー引用終了ーーーーーーー


 上記の斎藤美奈子さんの記事掲載から二日後、東京新聞((2013・8・17,
朝刊)の「筆洗」欄に、東京新聞記者による下記のようなコラム記事があり
ました。遊就館についての記事です。

ーーーーーー引用開始ーーーーーー
 靖国神社にある遊就館の片隅に奇妙な像がある。潜水服姿で頭には大きな
かぶと。両手で長い棒を持ち、身構えている。先端に付けられているのは機
雷である。
 八月十五日の遊就館は見学者であふれていたが、この像をあまり気に留め
る人はいない。それはそうだろう。本土決戦を水際で食い止める「人間機
雷」の存在はほとんど知られていないのだから。
  敗戦直前に横須賀や呉などで部隊が編成され、三千人近くの若者が潜水
訓練を受けた。上陸する米軍の舟艇を水中で待ち構え、竹ざおの先の機雷を
突き上げて自爆する。「伏龍」と名付けられた水際特攻隊である。
 空を飛ぶ夢を失った予科練の少年兵たちは、ひたすら死に向かう訓練に明
け暮れた。本土決戦が回避されたために実戦には至らなかったが、潜水具に
は構造的な欠陥があり、多くの若者が訓練中の事故で命を失った。
 当時の戦争指導者の愚劣さが凝縮されている人間魚雷を考えたのは、参謀
として真珠湾攻撃の作戦を立案した人物だ。自らを犠牲にして祖国を守ろう
とした少年たちの命をここまで軽く扱うのか。以前、取材した時に心底、怒
りがわいた。
 戦争が長引けば伏龍の要員になるはずだった人物に城山三郎さんがいる。
特攻を命じた側に常に厳しい視線を向けた作家の原点だろう。「日本が戦争
で得たのは憲法だけだ」。城山さんの言葉が重く響く。
ーーーーーーー引用終了ーーーーーーー




     
参考資料「平和絵本のアニメーション」


 「中央区平和祈念バーチャルミュージアム」で、空襲の様子、被災の様子、
当時の生活の様子がアニメーションで分かりやすく視聴できます。
 平和モニュメント、戦争の記録、資料室、映像ライブラリーなどを視聴し
てみましょう。「学ぼう、平和の広場」の中の平和絵本を児童たちに視聴さ
せてみよう。空襲体験「お父さんは写真屋さん」、戦時下の市民生活「赤ち
ゃんと防空壕」、学童疎開「次郎の疎開」の写真画面の上部をクリックする
とアニメーションが見られます。

http://www.city.chuo.lg.jp/heiwa/index.html へのリンク

http://www.city.chuo.lg.jp/heiwa/kids/ehon/index.html



    
参考資料「NHK戦争証言アーカイブス」

http://www.nhk.or.jp/shogenarchives/education/ へのリンク


           トップページへ戻る