音読授業を創る そのA面とB面と    05・12・28記
   



  詩「くも」の音読授業をデザインする




●詩「くも」(山村暮鳥)の掲載教科書………………………………なし




          くも

             やまむら ぼちょう

      おうい くもよ
      ゆうゆうと
      ばかに のんきそうじゃ ないか
      どこまで ゆくんだ
      ずっと いわきだいらの ほうまで ゆくんか



  この詩は、山村暮鳥の詩集『雲』に掲載されています。詩集『雲』の冒
頭部分に掲載されている詩です。雲についての詩が三つ連続してあり、その
二番目に「おなじく」という題で掲載されている詩です。



            雲

         丘の上で
         としよりと
         こどもと
         うっとりと雲を
         ながめている



           おなじく

         おうい雲よ
         ゆうゆうと
         馬鹿にのんきそうじゃないか
         どこまでゆくんだ
         ずっと磐城平の方までゆくんか



           ある時

         雲もまた自分のようだ
         自分のように
         すっかり途方にくれているのだ
         あまりにあまりにひろすぎる
         涯のない蒼空なので
         おう老子よ
         こんなときだ
         にこにことして
         ひょっこりとでてきませんか



          
音声表現のしかた


  上記した二番目の詩「おなじく」のみを教材として教室で扱うことにし
ます。以下、二番目の詩のみについて書きます。
  はじめに子ども達にこの詩を黙読させます。小声でも読ませます。それ
から「思ったこと。分かったこと。気づいたこと。絵として浮かんできたこ
と。いいなあと思ったこと。分からないこと」などを発表させます。
  分からないことでは、「磐城平」が発表されるでしょう。磐城は、福島
県の平市をふくむその近辺の地名です。作者の山村暮鳥は平市で牧師をして
いたことがあり、ほんの短い間 平市に住んでいたことがあります。磐城平
は、平市から見えるなだらかな山地と思われます。

  語り手は、「おうい、雲よ。」と呼びかけています。この詩の音声表現
では、この呼びかけ音調をつかませることがとても大切です。まず「おう
い、くもよ。」だけを選択して音読発表をさせてみましょう。呼びかけた音
調にして音読するとがよいことに気づかせます。次に「おうい、くもよ。」
だけでなく、この詩全体が呼びかけ音調であることを理解させます。そして
全文の音読練習をさせます。音読発表もさせます。

  呼びかけ音調も、いろいろあります。ここでは、遠い空に浮かんでいる
雲への呼びかけです。小さな声では届きません。近くへ届ける声の呼びかけ
音調でもいけません。遠くの雲へ届ける声の出し方で音声表現するようにさ
せます。遠い遠い雲さんに届くように呼びかけてみようと誘いかけます。
  呼びかけている人は、何歳ぐらいでしょうか。男でしょうか女でしょう
か。一人でしょうか二人でしょうか三人でしょうか多人数でしょうか。
  ここで教材として扱っている詩だけでは、上記の連詩を読まないと、年
寄りと子供ということは分かりません。
  いろいろな答えが子ども達から発表されるでしょう。いろいろあってよ
いでしょう。自分のイメージした年齢、人数、性別で呼びかけさせてみまし
ょう。両手を口に丸く筒を作って当て、メガホンで呼びかけてもよいでしょ
う。
  呼びかけている場所はどこでしょう。野原でしょうか。田んぼでしょう
か。家の二階でしょうか。どんな姿勢で呼びかけているのでしょうか。とび
ぬけておかしなイメージでなければ、それはそれで正答としてよいでしょ
う。
  雲はゆうゆうと、のんびりと、ゆったりと流れていると思われまう。呼
びかけ音調も、それに合わせて、ゆうゆうと、のんびりと、ゆったりと音声
表現させるとよいでしょう。

≪注意≫
  ばかでかい声、やたら大声で叫んでいるだけの声ではいけません。
  親しみのこもった、愛情に満ちあふれた呼びかけの声でなければなりま
せん。


           
参考資料(1) 


  萩原朔太郎(詩人)は、山村暮鳥の詩集「雲」について、次のようなこ
とを書いています。
  朔太郎の文章から推量するに、この詩「雲」の音声表現のしかたは、子
どもの純粋で素朴でナイーヴな天性の声で読ませるとぴったりです。子ども
らしい、屈託のない、持ち前の地声で、心をすっかりと開放させた、天子の
声の呼びかけ音調で音声表現させるとよいでしょう。
  こざかしい音読表現技術や知恵を授けない方がよいでしょう。

ーーーーーーー引用開始ーーーーーーーー
  詩集「雲」は、しかしながら瞑想的なものでなく、むしろ小曲風の軽い
情趣の富んでいる。この詩集には西洋にイメージがない。純粋に東洋的の気
分であり、和歌俳句などの国粋詩歌とも、情景相通ずる類の詩集である。
 
  暮鳥の詩と人物とを通じて、素質的に著しく感じられるのは、その性格
の素朴で子供らしいことである。この「子供らしい」という言葉は、善い意
味にも悪い意味にも使用される。悪い方の意味では、幼稚や低能への軽蔑を
示している。反対に善い意味では、純粋でナイーヴな原始的性格を語ってい
る。暮鳥ついていう「子供らしさ」はもちろん後者の方の意味である。
  「常識は理知であり、詩人は原始本能で知る」という言葉がある。この
場合の「知る」という語には、難しい認識論上の議論もあるだろうが、とに
かく詩は常識を超越した所に意義を有する。

  山村暮鳥は、実に「生まれたる詩人」である。そしてとりわけ子供らし
き心情の所有者である。その子供らしき心情は、自然のあらゆる現実を生々
しい姿で見る。理知で認識しないで本能的な神経で見る。だから必然的に認
識が生新しく、常識の想像できない特異なもの(常識はそれを神秘という)
を発見する。故に「子供らしき性情」は、必然的にまた神秘的な風格を表象
する。

  すべての「子供らしき心情」の本領は「稚拙」である。もっと丁寧に言
えば「魅力ある稚拙」である。そして暮鳥の芸術ほど、善い意味での稚拙と
言う言葉にあてはまるものはない。実に彼の得意なスタイルを有する詩は、
これを「素朴」というよりも「稚拙」という方の感じに適合している。その
言葉はぶっきら棒で、リズムは途中に寸断され、語章に巧みなく、脈絡な
く、一言で言えば子供の描いた稚拙の絵に類している。下手カスの絵、拙劣
の絵、それでいて原始的な力強い印象をもって迫ってくる。然り、暮鳥の詩
のスタイルこそ、まさに「子供の描いた絵」である。
  子供の天才! 子供の神秘詩人たる山村暮鳥は、いつもまた子供のよう
に大自然を観照していた。いつも自然の中にのみ、彼は嬉々として遊んでい
た。山中の老仙、白髪童顔にして稚児に似たりという形容は、我々の暮鳥の
人物をしばしば想念させる。彼の晩年の詩集「雲」が、老子的虚淡の心境に
近づいていった経路を暗示するのもまた当然のしだいである。
 
         「山村暮鳥詩集」(思潮社、1991)135ぺより引用
ーーーーー引用終了ーーーーーーー


          
参考資料(2)


(荒木のコメント)
  作者・山村暮鳥は、「おうい雲よ。ゆうゆうと馬鹿にのんきそうじゃな
いか」と、流れる雲に、安閑とした生活の中で悠長に呑気に気楽に呼びかけ
ているようにみえます。
  しかし、山村暮鳥は当時の詩壇からは嘲笑と悪罵を受け、生活は貧窮の
どん底にありました。その裏返しとして空にのんびりと自由にたゆたう雲へ
の憧れ、無限無窮の憧憬や羨望を抱いてこの詩を書いたのかもしれません。
  また、福島県平は、暮鳥が結核とクリスチャンであったため平村民から
石持て追われるごとくの迫害を受けた土地でもあります。そうした土地であ
った半面、平村には暮鳥にとって親しい友人・無二の親友がいた土地でもあ
りました。
  この二つの事柄のどちらに重点をおいてこの詩を解釈するかによって、
「ずっと磐城平の方までゆくんか」の解釈が大きく違ってきます。
  いずれにせよ、ここでは一年生教材として配当してあります。小学校一
年生に上述のような屁理屈はもちろん必要ありません。この詩の文字を読ん
で、詩想(詩操)から虚心坦懐に受けとった素直な印象を話し合い、音声表
現していけばよいこと当然です。
  詩人・山村暮鳥についての詳細は、本ホームページの六年生教材「りん
ご(詩)1・2」を参照のこと。


         
 参考資料(3)

  
高田敏子(詩人)さんは、この詩「雲」について次のように書いてい
ます。

ーーーーーー引用開始ーーーーーー
  どなたも知っている暮鳥のこの詩は、とても単純なかたちで、雲を友だ
ちとしてあつかっています。子どもの心そのままに、なんのきどりもなく、
思わず口にでたことばがそのまま書かれているように思われますね。
  大正時代に書かれたこの詩が、いまも変わらずに愛されているのは、こ
の童心の美しさにあるのでしょう。けれども、そればかりではなく、一言一
言のことばにも、深い味わいのあることが思われます。
  「おうい雲よ」と、よびかけることばのひびきからは、澄みきった空の
青さが思われ、その青さの中に、流れゆく雲の姿がうかんできます。雲まで
の距離は、遠すぎも、近すぎもしない、「おうい」と、よんでとどく距離。
この「おうい」という、このはじめにおかれたことばがとても効果的で、雲
がどのあたりを流れているかを伝えています。
 「ゆうゆうと/馬鹿にのんきそうじゃないか」
 このことばで、ゆったりとひろがる雲の白さやその形もうかびます。
 そしてこの日は、風もそよ風、やさしく、ここちよい程度に吹いているの
でしょう。

「イメージゆたかだ」とは、詩をほめるときによく使うことばですが、イメ
ージとは映像、たとえばテレビや映画を見るように、その情景が心のスクリ
ーンにうかんでくることです。
  この「雲」は、はじめの3行で、そのイメージを十分にあらわしている
といえるでしょう。
  終わりの行の「ずっと磐城平のほうまでゆくんか」は、雲の流れる方向
が磐城平であるという地理的なことだけでなく、なつかしい思い出とか、会
いたい人が住んでいるとか、「自分も雲と一緒に行けたらな」と、そんな思
いで見送っているのでしょう。

      高田敏子『詩の世界』(ポプラ社。19969)より引用
ーーーーーー引用終了ーーーーーーー



           トップページへ戻る