父母と教師に役立つ学級懇談会の話材集    2015・2・23記




   
子どもたちの放課後を考える




     
遊べない子、遊ぼうとしない子


 学校生活で、授業が終了し、休み時間になると、子ども達の多くは、われ
さきに校庭に出ようと廊下を小走りに駆けだし、出入口へ殺到します。運動
場でワーワーと無邪気に遊ぶのがふつうです。ところが、最近、休み時間に
なっても、教室から出たがらない子が増えて教師を困らせています。遊びた
がらい子、遊ぶ意欲のない子が増えているのです。
 晴天であるのに、運動場に出て遊びたがりません。教室に残って、教室内
をぶらぶらしたり、テレビマンガで流行している登場人物の絵を描いたり、
たわいのないおしゃべりでひまつぶしをしたりする子が増えています。学級
二、三割の子がそうです。男女の比率は同率ぐらいで、男女差はありません。
 昔は、内弁慶と呼ばれる子(内気な子)はいましたが、みんなと遊びたが
らない子、遊ぼうとしない子はいませんでした。日直係りが追い出し係とな
って、むりに外へ出させることになります。彼らは教室を出ても、廊下や階
段の踊り場や出入口の場所で、これといって何をするあてもなく、ただぶら
ぶら立ち話をしています。トイレに行ってすぐ教室に戻ってくる子もいます。
 教師が、彼らに「なぜ、運動場で遊ばないの?」と問いかけます。こう答
えます。
「ベツニー」といって首をかしげる。
「遊ぶものがないから」
「遊びがおもしろくないから」
「外に出てもつまらないから」
「仲間に入って遊んでも、つまらないから」
「遊び場があいてないから」
「上級生が遊び場を横取りするから」
「すぐ人にぶつかる、じゃまされるから」
「みんなが遊びに入れてくれないから」と。
 このような遊べない子、遊びたがらない子が増えた原因は、遊びの三要素
(時間、空間、仲間)を失って、一人遊びに慣らされ、子どもの遊びが貧困
化したからだと考えられます。次に、これについて考えてみましょう。


         
遊び時間の問題


 昔は、「よく遊び、よく学べ」と言われました。よく遊び、よく学ぶ子が、
よい子だと言われていました。第一次産業(農業、林業、水産業などなど自
然相手の産業)が大多数を占めていた頃、つまり、昔の親たちは「百姓に学
問はいらない」と言い、勉強するよりも遊ぶこと、頑強な体格の子を誇りに
教育していました。
 ところが、今の親は「遊ぶヒマがあったら、塾へ行って勉強しなさい。習
い事へ行って覚えてきなさい」と強要します。今の親は、遊ぶことはよくな
いことだ、時間つぶしの無駄なことだと考えています。昔の「よく遊べ、よ
く学べ」の格言は死んでしまいました。
 今の子どもは、自分の自由時間に遊び相手がいないため、一人で家の中で
テレビを見たり、スマホやゲーム器で遊んだりして時間を過ごしています。
一人遊びに慣れてしまい、遊び相手がいなくても何も感じなくなっています。
 学校の休み時間に教室から出たがらない子、からだを活発に動かして遊ば
ない子、立ち話で時間待ちをする子、遊びを工夫する熱意もなく、友だちを
広げる積極性のない子が増えています。
 勉強も、自分からすすんでするのでなく、お母さんが学習塾や習い事へ行
けというから行く、行くとお母さんが喜ぶから行く、という子が増えてきて
います。親のこうした態度が、わが子から自主性や自立心の育つ芽を奪って
いることになります。
 こどもは生来、ひとっところにじっとしてなく、何かおもしろいものはな
いかとウロチョロと興味関心を示して、知的な好奇心とエネルギーを持って
います。このエネルギーを伸ばしてやることがとても重要なことです。遊び
の貧困化は、子ども文化の貧困化を意味しています。
 今の子どもの放課後のスケジュールは過密で、多忙な生活日程になってい
ます。友だちと遊ぶにも、学習塾と習い事の時刻を気にし、時間に追われて
生活しています。学習塾や習い事へ行って遊び友達を作り、その友だちと携
帯で連絡し合って遊び時間を作ったり、学習塾やけいこ事でのわずかな空い
た時間に遊んだりするのがせいぜいです。行き帰りの同行や、一緒に机を並
べて学習することが遊びになっている現状です。


            
参考資料

 下記は、毎日新聞(2014・7・17)の投書欄「みんなの広場」に掲載されて
いた記事です。

      まず学校生活が大切では
           小学校教員 小林由香理 48 (千葉県君津市)

 世の中、子供の習い事が大盛況だ。私は現在、小学校3年生を担任してい
るが、聞いてみるとサッカー、野球、ダンス、剣道、バスケットなどの運動
系に加えてピアノ、書道、絵画、茶道などの芸術系。そいて学習塾の類も多
い。
 私自身も小学校から中学校まで書道を習い、段を取得し、仕事にも生かす
ことができている。その点では、両親に感謝している。その反面、習い事や
塾で放課後、とても忙しくて疲労がたまっている児童が多数存在するという
事実があり、子供の成長という観点から考えると危険だと思う。
 幼い頃からの英才教育全盛の現在、保護者は子供にたくさんの可能性を求
め、通わせているのだと思う。しかし、子供にとってはまずは学校生活が大
事だ。学校生活を円滑に進められ、かつ心身に無理なくできるのは、週に2
日の習い事が妥当だと私は考える。学校で元気に過ごし、放課後に友だちと
遊び、ゆっくり休養をとることも子供にとっては大切なことだ。



         
遊び空間の問題


 お互いに自由時間の調整がつかず、みんなと遊びができないので、当然に
集団遊びの遊び方が分からない子が多くなっています。今では、遊びを教え
る「遊びの学習塾」もあるそうです。
 学校の運動場で遊んでいる子どもたちを観察していると、運動場の真ん中
で遊ぶ子は少なく、はしっこで遊んでいる子が多く見られます。はしっこに
ある固定施設(鉄棒、うんてい、のぼり棒)であそんだり、はしっこでボー
ル遊びをしている子が多く見られます。遊び場の少ない都会地では、子ども
たちは路地の片隅や狭い空き地でしか遊ぶことができません。こうしたせせ
っこましい場所での遊び方が学校の遊び方となって表れているように思われ
ます。
 教師の間でこんなことが話題になります。遠足で広大な自然公園「こども
の国公園」や「三っ池公園」などに行くと、広く場所を使ってのびのびと遊
んでいる子はいなくて、せまっこい場所で、いつも自分たちが遊んでいる遊
び方でしか遊べない、広い場所で新しい遊び方を工夫する創造性がない、と
いうことが話題になります。
 昔は、住んでいる場所のいたるところが子どもたちの自由に遊べる場所に
なっていました。あちこちに原っぱや休耕地や空き地や沼地や小川や土手が
ありました。牛や馬を引いて通る狭い道路も子どもの遊び場になっていまし
た。ギンヤンマが上下する、イモリやヤモリがいる清流の小さな流れも子ど
もたちの遊び場でした。その場所、その場所で、その場所に応じた遊び方を
自由に工夫して遊んだものでした。
 私の小さい頃は、こんな遊びもありました。ビー玉を転がして地面にあけ
た穴にいれる競争、地面に線引きして陣地とりをする釘さし遊び、地面に丸
い輪を描いて遊ぶ石けりやケンパー遊び、地面に丸い輪を描いてのメンコ遊
び、二股の小枝を切ってゴム紐をつけて作るパチンコ遊び、近くの山から材
料をとってきて作った竹馬遊び、笹舟作り、草笛作り、花の輪つくり、竹
(水・紙玉・杉玉)でっぽう作り、竹とんぼ作り、ほおずき、木の実(くり、
あけび、ぐみ)採り、山菜(わらび、ひるこ、ぜんまい、たけのこ、みず)
採り、木の若芽(春の新芽をとってきておひたしにする)採り、キノコ採り、
小動物(小魚、どじょう、トンボ、セミ、バッタ、コオロギ、クワガタ、カ
ブト虫)とり、スズメとり(もつにくっつける)、やまうさぎとり(わなを
しかける)などがありました。
 トンボ釣り今日はどこまで行ったやら、昔の子どもの遊びがしのばれる俳
句です。昔は、長いさおの先にくっつけたもつ(糊。接着剤)で、留ってい
るトンボにそうっと近づけて、くっつけて、釣り上げるようにして捕まえた
のものです。秋の夕方になると赤とんぼの群が飛び交い、その中を手で分け
るようにして走ったり跳んだりして遊び回った少年の日を思い出します。夏
の夕方にはうちわを持って、ほたる狩りに水辺や土手の草むらに子どもらが
連れだって行ったものです。「ほう、ほう、ほたる来い、あっちの水はにが
いぞ、こっちの水はあまいぞ」と歌いながら、飛んでいるほたるをうちわで
落としたり、暗闇の草むらの中で光っているほたるを手でつかまえて、虫籠
にいれたものでした。


         
遊び仲間の問題


 遊び仲間が減った原因は、学習塾や習い事のために子ども同士の遊び時間
の調整がつかないというだけではありません。兄弟の人数が減った、異年齢
集団で遊ばない、ということもあります。
 兄弟の人数が少なくなり、昔のようにお兄ちゃんの友だちと遊ぶ、弟の友
だちを入れて遊ぶ、年齢と関係なく遊ぶということが少なくなりました。昔
のようにガキ大将を中心とした異年齢集団で徒党を組んで遊ぶということが
殆どみられなくなりました。今では、中学生が小学生と一緒に遊ぶというこ
とはめったに、いや皆無といってよいでしょう。
 今では、ガキ大将という言葉は悪く聞こえるが、昔は、学校の成績や親の
職業などに関係がない、子どもの遊び集団だけのステイタス関係、子ども同
士の役割と責任の関係が自然にできあがっていました。大人の支配から離れ
た地平で、子ども集団独自の支配と被支配の関係が自然にできあがっていま
した。
 昔は、年齢を超えた遊び集団に、年長の子が自然とリーダーとなって、遊
びを指揮をしたり、年少の子たちの、お兄さん、お姉さんの役割を果たして、
いろいろと面倒をみてくれたものでした。年少の子にはハンディをつけて、
いたわりながら遊びを楽しませてくれました。年長の子は、年少の子を、か
ばい、教え、励まして、遊びを楽しませてくれました。
 スマホやゲーム器の問題もあります。昔の室内ゲームは友だちがいないと
遊べないカルタやすごろくやトランプでしたが、今は一人で楽しめるゲーム
器に変わってきました。一人で楽しめるいろいろなゲームソフトがたくさん
あります。室内で、一人で、出来合いのパターンを、静かに黙々と繰り返す
だけの非創造的な遊びに変わってしまいました。集団遊びの中で全身を使っ
て筋肉を鍛えるとか、協調心や忍耐力や思いやりの気持ちを育てるというこ
とがなくなってきました。
 スマホやゲーム器には、集団でワイワイと言いながら身体を動かしたり、
子どもの自由な発想で工夫したり、発見したり、創造したりするところがあ
りません。与えられたプログラム内で、わずかなスルリと工夫を楽しむだけ
です。規格化されたプログラム内での、人間性のはく奪された、無味乾燥な、
孤独で寂しい遊びでしかありません。隔離された空間の中で熱中している姿
は、哀れというほかありません。これでは、対人関係はわずらわしいと回避
するようになり、人間関係は砂漠のようになり、自分のことしか考えない、
相手の立場を考えない、自己中心的人間になってしまいます。
 こうしたことが、今の子ども達のからだと心の成長に大きな問題を生んで
います。不器用な子が増えています。転び方が下手で、すぐケガする子が増
えています。鉛筆を削れない、リンゴの皮をむけない、こうしたことは随分
前から言われています。トラブルの処理が下手な子も増えています。友だち
にぶたれたり、つつかれたり、いじめられたりすると、じっと我慢するだけ
の子が増えています。いじめの問題は、一人で我慢するのでなく、誰かに言
う、相談する、ということがありません友だちや先生や両親に話したがらな
い、ということがあります。一人で悩まない、苦しまない、ということを教
えておいても、そうしない子が多くいます。また、相手に向かってガンガン
と言い返す、ということもしません。
 昔の親は、ケンカして泣いて家に帰って来るな、そんな弱い子ではダメだ。
相手を泣かせて帰って来い、殴り返して帰って来い、と教えたものでした。
わが子が泣いて帰ってきた場合、これがごく普通の家庭の親たちの指導の常
識となっていました。


         
遊び規制の問題


 遊べない子、遊ぼうとしない子を作っている原因は、これまで述べたよう
に子どもの遊びを成立させている時間、空間、仲間の三要素が保障されてい
ないことにあります。また、親同士の近所づきあいの連帯感が薄れたことも
原因の一つにあげられるでしょう。都市化現象がすすむとともに「隣は何を
する人ぞ」が一般的になり、近所同士の付き合いが薄れたことにもあります。
プライベートが尊重されるようになり、気楽な生活を好むようになりました。
その反面、近所の親密な結びつきがなくなり、顔も知らない、知っていても
挨拶も交わさない、せいぜい会釈ぐらいということになり、隣近所の温かな
心のつながりが少なくなりました。
 このような親同士の連帯性の欠如が、子どもの世界に反映し、近所の子ど
もとは顔は知っているが親しくは遊ばない、同じ学級の子としか遊ばない、
隣の学級の子とは遊ばない、年上・年下の子とは遊ばない、という現象がみ
られるようになりました。同じ学級の友だちが遠く離れていても、自転車で
その子の家にまで行くことになります。近所の子ども同士の年齢を超えた集
団遊びが消えたのは、大人社会の連帯性の欠如、大人社会の歪みの反映だと
も言えるでしょう。
 子どもの遊びの禁止事項は最小限にするのが望ましいです。のびのびと遊
ばせるのが望ましいのです。遊び盛りには、自由闊達に遊ばせたいものです。
 しかし、そうはいかないのが現実です。ケガをされたら大変です。ケガを
すると、今の親は、すぐに管理責任を追及し、校庭の、公園の、広場の施設
管理の責任者の過失を問い、裁判に訴えて、どうこうと言います。それで、
管理責任者は遊び場の使用規則や禁止事項を多くし、管理責任の追及から逃
れているのが現実です。
 児童憲章(昭26・5・5)には、「すべて児童は、よい遊び場と文化財を用
意され、悪い環境から守られる」と書いています。

      遊びをせんとや生まれけん
      戯れせんとや生まれけん
      遊ぶ子供の声聞けば
      我が身さえこそ動がるれ
             (梁塵秘抄)

 子どもは、本来「遊びをせんとや生まれけん」存在なのです。日が暮れる
のも忘れて遊び、家に遅れて帰っては母親に叱られる、これが普通の姿でし
ょう。子どもの遊びは、昨日がどうであれ、明日がどうであろうと、そんな
ことには頓着なしに、ひたすら現在の時間を、その瞬間瞬間の興味や関心の
おもむくままに無邪気に遊び回るだけです。ひたすら現在の時間を走り、跳
び、はね回ってるだけです。夢中になって現在の時間を興味のおもむくまま
に、むさぼるように遊び楽しむだけです。
 集団で、無邪気に遊び戯れる子どもたちの姿を取り戻したいものです。の
びのびと、自由に、遊び楽しみつつ、競争し合い、協力し合い、友情を育て
合う、遊び集団をいたるところに見たいものです。
 そのため、次のことが大切であると考えられます。

(1)地域住民の手で、子どもがのびのびと遊べる広場、公園、公民館、地
   区センター、児童館、学校の運動場の使用開放を作る。

(2)地域住民や青少年の健全な団体活動、事業をさかんにする。公共機関
   はボランテアの指導者になる人を育成する。ボランテア活動を資金面
   や施設面でサポートする。

(3)社会教育をさかんいし、学校施設を、地域住民や子どもに開放する。
(4)習い事や学習塾に束縛されない子どもの自由な時間を保障してや  
   る。ノー塾デーを設ける。

(5)親はおりをみてわが子を外に連れ出し、一緒に遊んでやる。近所の仲
   間を誘って、一緒に遊んでやる。自分の家の中を遊び場に提供する。
   友だち作りをサポートする。

(6)異年齢集団の遊びを活発にする。ガキ大将(リーダー)を養成する。

(8)親自身も社会団体活動やサークルに積極的に参加する。子どもに親の
   背中を見せてやる。


         このページのトップへ戻る