音読授業の基礎理論              05・8・22記



「存在と時間」(情状性、恐れ)を読む



  ハイデガー『存在と時間』(原佑・渡辺二郎共訳、中央公論社、中
バックス・世界の名著74、1980)を読んでの、わたしなりの読み取り
を備忘のためのメモとして書きおくことにします。
  テキストとして使用した本は中公バックス版です。以下に数箇所で引用
している本文の訳文はすべてこれによります。
  数箇所の「  」での短い引用はありますが、殆んどはわたしが短く内
容を要約したものを掲載しております。分かりやすくまとめることに努力し
たつもりです。
  中公バックス版は、上段と下段との二段組になっています。下記のそれ
ぞれの冒頭部分に<ページ数と上段・下段>を書いています。これは、テ
キストのどのページ数の上段・下段の本文個所の要約であるかを示していま
す。


第29節 情状性としての現にそこに開示されている現存在

251ページ上段
  われわれが存在論的にいう情状性は、存在的にはごくありふれたもの、
日常言語でいえば気分のことである。この気分を心理学的見地からみるので
なく、気分という現象を実存範疇として捉えることが重要だ。その都度の実
存場面でみられる落ち着いた気分、不快な気分、ある気分からほかの気分へ
の移り行き、これら気分は存在論的にはふだんは気にもとめられず、どうで
もよいこと、その場限りのものだと考えられていて、あまり意識にもとめら
れていない。しかし、存在論的には気分はとても重要なものである。

251ページ下段
  くすんだ気分(さえない、だらっとした、くすぶる、アンニュイな気
分、何となく気分がわるい、内心からうずきだしてくる、ぼんやりした心内
状況)の正体について考察してみよう。
  しばしば長引く単調でくすんだ無気分を、日常的によくある不機嫌な気
分と混同しないことだ。くすんだ無気分の中では、現存在は自分に飽き飽き
しており、その存在が重荷となっている。なぜそんな気分になっているのか
分からないし、なぜそうした気分にあるかを知ることはできない。すでに開
示されている状態の只中に無自覚的にはまっているので、(引きづられてい
る、手中にある、影響を受けている)ので、日常的には意識にのぼっていな
い。
  そのわけは、くすんだ気分は、日常生活における存在的な認識の開示力
の範囲よりか、くすんだ気分と言う現存在が現として直面している根源的な
気分の開示のほうが狭いからだ。高揚した気分も、くすんだ気分と同じ性格
をもっている。

252ページ全体
  現存在は、気分が開示していることを存在的実存的には意識して知ろう
と努力はしないし、存在論的実存論的にはそうした気分に注意を向けようと
もしない。このことは現存在が情状性に委ねられている状態にあることを示
している。つまり、委ねられている現事実性としてある。
  現存在がどこから由来し、どこへ帰属しているかは不明であるが、現存
在の存在性格は開示されている。現存在が存在しているという事実、現存在
が気分に委ねられているという事実、こうして現存在が存在しているという
事実、しかもそれは世界内存在としての現であるといった事実、このような
くすんだ気分、こうした気分のありかたのことを被投性と名づけることにす
る。

253ページ全体
  現存在が現であるのは、被投性という情状性のうちにある在り方におい
てである。現存在はつねにある気分という中に自分自身を連れ出されてお
り、情状性につねに当面している。それは知覚ではなく、ある気分の情状性
に基づいて、その中で自分自身を見出している。反省的に、直接的な探究で
情状性を見出すのではない。すでに気分は開示してしまっており、その中に
無自覚にはまっているのだから、意識にのぼらない状態で気分は発現してい
る、そういう仕方でわれわれは見出すのである。被投性に着目した開示の仕
方でなく、無自覚に、頓着したり頓着しなかったりの仕方で気分は開示する
のである。

254ページ上段
  気分においては、日常生活での認識や意欲に以前に、それらが開示する
射程を超えて、つまりそれらの底板として自分自身に開示されているのだ。

254ページ下段
  情状性の本質性格は、三つある。
  第一は、「現存在をその被投性において開示する」である。現存在は、
気分という被投性の中にある、ということである。気分はさし当たってたい
ていは現存在に注意を避けながら、つまり、注意を向けない、頓着しない、
意識しない、自覚しない、そうした仕方で開示しているのだ。

255ページ上段
  第二は、「情状性は、世界、共現存在(他者)、および実存の等根源的
開示(情状性、了解、語りの等根源性の開示)の一つの実存的な根本様式
だ」である。つまり、世界内存在のそのときどきの開示である。不機嫌な気
分がそうだ。このふさぎの気分では、配慮的に気遣われた環境世界はベール
に覆われ、自分自身も見えなくなってしまっている。無反省に身をまかせ、
引き渡されている状態で、気分は現存在を襲っているのである。気分は、外
からくるのでもなく、内からくるのでもなく、世界内存在そもものとして立
ち上っているのである。
  実存は本質的に世界内存在であり、気分は、すでに世界内存在を全体と
して開示されてしまっており、何かへと自分の視(配視。「さて何ができる
かな」と周りの世界を見回す)を向ける。現存在は、そういう指向性の目を
目をむけて見当をつけようとする。

255ページ下段
  第三は、「情状性は、世界の世界性についていっそうてっていてきにな
了解をうるのに寄与する」である。

256ページ上段
  内存在が事物存在によって襲撃される。その根拠は情状性のうちにあ
る。つまり、情状性は脅かされる(襲撃される)ことを基盤にして開示する
ということだ。情状性は何者かによって脅かされる存在である。つまり、情
状性によって現存在は脅える、恐れる存在としてあるのだ。すなわち、情状
性という気分は、現存在の世界開放性を実存論的に構成していると言える。

256ページ
  人間は「感官」(感覚器官)があるから感じると生理学的には思いがち
だが、そうではない。情状性があり、それが世界内存在であるが故に、「感
官」は感動させられ、何かに対する感じを持つことができ、「感官」を振れ
動かすことができるのだ。世界内存在としての情状性は、すでに気分によっ
て襲われてしまっている、投げ入れられてしまっているのだ。こうして情状
性は、世界を開示し、襲撃を差し向け、潜ませているのだ。(存在的には感
官があるから感動すると考えるが、実存論的には情状性があるからすべてが
発生しているのであって、あとで人間がこの感動はどこからきているかと問
いを発して存在了解を促されて、それに感官を持ち出して説明をつけている
にすぎないのだ。)

258ページ
  情状性は人間存在を襲撃する(脅かす)存在である。ふだんはそのこと
は日常性の気分のなかに委ねられていて頓着したり頓着しなかったり、意識
にのぼらない状態にある。このように情状性は本来人間存在を脅かすものと
してあるのだが、自分の本来的な存在を了解するところまではいかず、人間
は何らかの仕方で人間の存在本質を回避して世界と向き合っている。この回
避は実存的機構において頽落していると言える。(頽落とは、非本来性にお
いて生きている。人間が本来的な存在本質の存在の仕方を遮断したり隠蔽し
たりして生きている。)


   
第30節 情状性の一つの様態としての恐れ

259ページ上段
恐れを本質看取してみると
  恐れは、三つの視点から考察される。恐れの対象、恐れ自体、恐れの
理由、である。これから、この三つについて詳述していこう。
(ハイデガーは、30節の見出しの題に「情状性の一つの様態としての恐れ」
と書いている。しかし、どうもおしまいまで読むと、恐れは一つの様態では
なく、情状性の土台・中心としての重要な働きとして把握しているようだ。
現存在には根源的様態として恐れが開示しているのであり、恐れは単なる一
例としては捉えていないみたいだ。恐れは、世界においてわれわれを脅かす
仕方で存在し、すでに襲われてしまっている、人間に迫っている、そのよう
に開示されている、と言っている。)

259ページ下段
<恐れの対象とは>
  恐れの対象は、道具的存在者(例。ハンマーも使い方で凶器となる)、
客体的な事物的存在者(例。地震、雷、火事、親父、台風、ジェットコース
ター、お岩さん,病気になる、自我の不安や自我を失う)、共現存在(他
者)など、これらに出会うこ対象としてある。恐れの対象を存在的に何であ
る説明するのでなく、現象として説明することが重要だ。恐れはどういう性
格を持っているか。それは「脅かす」とい
う性格だ。

260ページ全体
<恐れ自体とは>
  恐れ自体とは、わらわれへの脅かしであり、幾つかの性格を持つ。
(1)その場その場で道具を使う現存在の開示内部で有害なものとして現れ
る。
(2)恐れの有害性は、特定の方向からやってきて、当惑させられうるもの
のある特定の範囲をねらってやってくる。
(3)やってくるものは、われわれに「物騒で安心できないもの」として、
よく知られている。
(4)有害なもの(脅かすもの)は、まだわれわれを支配するほどの近さに
はないが、この接近の確かさが有害性を発散しておって、結果、脅威を及ぼ
すことになる。
(5)この接近は、接近の程度の問題である。近さにおいて接近してくるも
のの有害さは、脅威を及ぼすのであり、出くわすかもしれないが出くわさな
いかもしれない、こうした、あやふやに・ぼんやりと接近してくることのう
ちで、結局は脅威が高まることになる。そこで、われわれは「恐ろしい」と
言うことになる。
(6)近づきつつある有害さは何事もなく素通りしていく可能性があるが、
このことは恐れを和らげたり消してしまったりはせず、結局は恐れを増大さ
せることになる。
  恐れは、このような六つの性格を持ってわれわれを脅かす。恐れは情状
性として現存在に常時、あるのだ。われわれは近づいてくる恐れを確認して
から恐れるのではなく、何とはなしに感じ取り、はじめから開き与えられて
しまっている恐れなのだ。自覚せずに、無意識に、心の奥底に開示してし
まっている恐れなのだ。恐れを感じ取るのは、自分の存在を配慮していると
きに恐れを抱く。対象だけの恐ろしさでなく、世界をも恐ろしさとして示
す。情状性は世界をも恐ろしさとして示す。何について恐れているか、どう
いう恐れなのかもも知らせてくれる。恐れははじめから世界に開示してし
まっており、これが接近することは、現存在が世界内存在の本質的な実存論
的空間にあるからだ。

261ページ上段
<恐れの理由>
  何を案じておそれているかは、恐れを抱く存在者自身、つまり人間は自
分のことが気にかかるからである。自分の存在そのものに関心を持ち、自分
の存在のありよう・ありかたそのものを案じているからだ。自分の存在その
ものを恐れているからだ。
  恐れは場合場合によって程度の差はあるが、いつも現存在を「現」の存
在においてあらわにする。恐れの理由は、現存在のことが気にかかっている
からである。なぜなら現存在は世界内存在として「配慮的に気遣う」存在だ
からだ。

261ページ下段
  恐れは、われわれを混乱させ、うろたえさせる。恐れは現存在を欠性的
な仕方(人間は完全無欠でない、足りない、脱落している、不安を持つ、と
いう仕方)で開示する。恐れは、無自覚的で、無意識的で、ちらりと知らせ
はするが常時は意識してない。恐れが退いた後、現存在は正気に戻る。恐れ
は、脅かしつつある事物(世界)と、脅かされつつある人間(自分)の自分
の「現」とを、同時に、等根源的(両面的に)開示する。だから、恐れは情
状性の一つ、「人間は脅かされる存在」という様態なのである。

262ページ上段  
  他人のために恐れることは、他人と情状性を共にすることであるが、人
間は他人が恐がらなくても、何かの理由で自分は他人を恐がること(場合)
がある。他人の(危険というような)恐れがあった場合、われは気づいてい
るが、他人がその恐れに気づかない場合がある。自分には影響がないと安心
はできず、他者の身を案じて心配であり、他人との関係が奪い取られる(自
分が相手を配慮する関係が切れてしまう)ことを恐れることになる。恐れ
(情状性)において自分はそういう他者との共存在の関係にあるのである。

262ページ下段
  脅かすものの近づき方、迫り方、進み方、突然さなどによって、恐れに
は驚愕、戦慄、仰天などの区別がある。何か熟知の親しいものが突如入り込
むと、驚愕となる。脅かすものが全然親しくないものが入り込むと、戦慄と
なる。親しくなくて突如入り込むと、仰天となる。
  恐れのほかの存在様態(変種)として考えられるものとしては、尻込
み、おじけ、気がかり、びっくりなどがある。これら「恐ろしがる傾向」は
その人間の恐れへの個別的な素質(気質)として理解されるべきではなく、
現存在の世界を脅かすものとして、情状性の実存論的可能性として理解され
るべきものである。
  

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