音読授業を創る そのA面とB面と    06・11・20記




 大久保君からの寄稿文・「おーい」を巡って





       
大久保君が問題提起していること


  大久保忠宗君が寄稿してくれた「卒業生からの寄稿文1・表現よみを体
験して」のエッセイには、文章を音声表現する上での重要な問題提起を含ん
でいます。
  寄稿文の中で、大久保君は、日本コトバ会主催「表現よみ発表会におけ
る模擬授業」の生徒となって参加した時、そこでの教材文「大きなしらか
ば」の中の会話文「おーい」を、歓喜の気持ちをいっぱいにして、思い切り
大きな声で叫んで音声表現した、と語っています。大久保君が「おーい」の
音声表現をした時、会場の観客達から突然のざわめきやどよめき反応があ
り、大久保君はそれにびっくり仰天したと語っています。    

  大久保君は、「アリョーシャが「おーい」と叫んだのは、アリョーシャ
が ”白樺の木にやっと登りついたぞ”という歓喜とご満悦の気持ちからだ
と解釈した。それで「おーい」の音声表現の仕方は、アリョーシャの誇らし
げな気持ちをいっぱいにして・思い切りの喜びの大声を出して叫ぶ音声表現
をした。」と語っています。
  大久保君が、とびきりの大声の歓喜の叫び声「おーい!」を音声表現す
ると、会場の観客達からどっとざわめき・どよめきが沸き上がりました。そ
れまで会場内はシーンと静まりかえり、ステージ上の授業ではまじめな語り
合いや文章の読み声表現が続いていたのが、大久保君が「おーい」の音声表
現をすると、突然に会場のあちこちから観客達のどよめき・笑い声の反応が
起こったのでした。
  突然の観客達の異様な反応に、大久保君は「え、なぜ。どうして。」と
一瞬たじろぎ・動揺し・驚愕したと書いています。大久保君には、なぜ観客
達からそうした突然のリアクションが起こったのか分らなかったようです。
気持ちが落ち着かない、不分明なままに授業が終わり、ステージから降りる
ことになってしっまようです。

  観客達から突然のリアクションが起こった理由は、荒木が考えるに二つ
があるように思います。
  一つの理由は、小学校二年生という小さな男の子の可愛らしい、喜びの
気持ちいっぱいの、思い切り大声の「おーい」の叫びの迫真せまる読み声が
発せられた、それで観客達から、かわいらしさ・ほほえみ・笑い・拍手・声
援を含めたどよめきやざわめきや笑い声の反応が沸き起ったたのだろうと思
います。
  もう一つの理由は、観客達には下記のような考えがあって、大久保君の
自信に満ちた、迷うことなき断定的な、とびきり大声の「おーい」の叫び声
が出て、その小気味よい、いさぎよい決断に、観客達から快哉と賞賛と声援
の拍手という意味でのどよめき・ざわめきが起こったのだろうと思います。
  つまり、「観客達には下記のような考えがあって」とは、観客達には以
下に書いてある考え・判断があったからだろうと想像します。ここには、文
章(文学的文章と説明的文章にかかわらず)の音声表現にかかわる重要な問
題が提起されていると考えます。


      
二通りの解釈が出た場合の音声表現


  音読授業をすすめ過程で、二通りの解釈による、二通りの違った音声表
現が主張されることがあります。同じ文章個所について、二通りの解釈が成
立し、それぞれの解釈にしたがう二通りの違った音声表現が主張されること
があります。(必ず二通りとは限らない。幾通りも出ることが考えられる。
文章の音声表現の仕方は、ただ一つとは限りません。解釈者の解釈の仕方の
よって幾通りもの読み方・読み声の表れがあると言えます。)
  たとえば児童から二通りの解釈が出た場合は、双方の主張者に、実際に
自分がよいと判断(解釈)した音声表現の仕方を実際に発表させてみましょ
う。双方から出された音声表現(解釈)について、学級全員で比較検討の話
し合いをしてみましょう。
  その結果、どちらもよく、いずれとも決めかねるという結論になる場
合が出てきます。解釈が誤りでなければ、教師は全員に「どちらでも、よろ
しい。二通りとも正しい。自分はどちらの音声表現を選択するか、自分の考
えでどちらかに決めて、片方で音声表現しましょう。」と指示します。自分
の責任において、自分の主体的判断で、どちらか一方を選択して音声表現す
るようにさせます。
  どちらの音声表現(解釈)ともよく、いずれとも決めかねるという場合
は、実際に音声表現をさせてみましょう。双方の主張者がA君とB君だった
ら、A君とB君にその文章個所を実際に音声表現させてみましょう。
  実際に耳で聞くと、「自分には、A君のよりB君のほうが意味内容の表
現としてよく聞こえる。伝わってくる。自分はB君のほうをとる。」という
児童がいるでしょう。
  「ぼくは、A君の解釈が正しいと思う。だから、A君の読み方に賛成し
ます。A君のを選択します。」という児童もいるでしょう。児童の主体的判
断による主体的選択にまかせ、教師が一方的に決定して押し付けることのな
いようにします。
  もちろん、いずれか一方のみの音声表現(解釈)がよろしい、という結
論になることもあります。この場合は、どちらかが明らかに誤った解釈をし
ている、だれが考えてもその解釈は間違っているという場合ですから、一方
が誤りであることを全員で話し合って、全員で納得し合って、正しい解釈
の、正しい音声表現のほうを選択して音声表現するようにさせます。


           
 その具体例


  その具体例について、西郷竹彦(文芸学者。本稿で話題になっている教
材文「大きなしらかば」の訳者でもある)氏のすぐれた論稿があるので紹介
します。
  「大きなしらかば」(アルチューホワ作、西郷竹彦訳)に、次のような
文章個所があります。

 ┌──────────────────────────────┐
 │  白樺のてっぺんの、いちばんはじめのみどり色の枝にやっとの│
 │ぼりついたとき、アリョーシャはいっそう暑くて、すこし目まい │
 │をするのを感じた。                     │
 │「おーい!」                        │
 │と、アリョーシャは、大きな声でさけびはじめた。       │
 │「おーい!」                        │
 └──────────────────────────────┘

会話文「おーい!」が、二個所出てきます。これについて西郷竹彦氏は、次
のように書いています。
  前述しているように大久保君が「卒業生からの寄稿文1・表現よみを体
験して」の中で書いてくれている「おーい!」を巡っての文章個所について
です。「おーい!」について、西郷竹彦さんは次のように書いています。


ーーーーー引用開始ーーーーーーー

  ついに主人公は大きな白樺のこずえにのぼりつく。「いっそう暑くて、
目まいのするのを感じた。」という表現のなかに、そこに至るまでの主人公
の心身の疲労と、非日常的な高さからくる眩惑と、しかしまた、とにもかく
にも状況を克服した一種の安堵がみてとれる。そのことは、次にくる「おー
い!」という主人公の叫びのなかにも表現されているだろう。
  ところで最初の「おーい!」と、次の「おーい!」という叫びを、どの
ように理解するか、それをわたしは文章の音声化・動作化として、子ども達
に、表現よみさせてみるのも一つの方法であると思う。ある子どもは、「す
こし目まいを感じた。」という表現を高さからくる恐怖と理解し、「おーい
!」という叫びはどちらも、いわば救いを求める声として表現するかもしれ
ない。
  また、ある子どもは、大きな白樺をついに征服したという喜びで、ボ
ロージナにたいする優越感をこめて、胸をはり誇らしげに「おーい!」と表
現よみするだろう。(子ども達のなかには、ボロージナを呼んでいばりたい
のだと理解をするものもある。)
  北海道札幌市の文学教育の会で、ある若い教師に「恐怖からか、歓喜か
らか、そのどちらと理解すべきでしょうか。」と問われた。
  これは、このどちらであると機械的に割り切れないのではあるまいか。
この両者のそれぞれはそれぞれに一面をとらえているにすぎない。人間に心
理というものは、この矛盾する両面が同時に葛藤する形のあることを理解さ
せるほうがリアルであろうと思う。したがって、たとえば、はじめの「おー
い!」は、やや、おびえをふくんだ声色であるが、つぎの「おーい!」はこ
のように大きな声で叫ぶ行為をばねにしながら、おびえをのりこえ征服感、
優越感、あるいは高所から下界を見下ろす快感のようなものへと転化する結
果として、前よりもしっかりした大きな叫び声になるほうが自然であろうと
思う。
  ともかく子ども達が、この二つの「おーい!」の表現よみを正しく的確
にすることができるためには、主人公を軸としたこれまでの形象の相関性を
しっかり読みとることである。主人公の心理の動き、感情の動きは、読者が
主人公と同化することがまず肝要であり、さらには主人公をふくめて、それ
と同化している自分をも客観化することができなければならぬだろう。
       西郷竹彦『文学教育入門』(明治図書、1965)より引用

ーーーーー引用終了ーーーーーーー


  西郷氏は、はじめの「おーい!」は、やや、おびえをふくみ、次の
「おーい!」は、征服感、優越感、あるいは高所から下界を見下ろす快感の
ようなものへと転化する結果として、前よりもしっかりした大きな叫び声に
なるほうが自然だろう、と書いています。学級児童がそのように解釈した
ら、自分の責任において、自信をもって、そのように音声表現させるべきで
しょう。
  恐怖からか、歓喜からか、わたしはこれまで、この作品を3回ほど授業
していますが、わたしが授業した子ども達の反応の結果では、子ども達(四
年生担任が2回、2年生担任が1回)の全児童達が、二つの「おーい!」と
もに歓喜からだという意見だった。わたしが恐怖からの声ではないのか、と
問いかけても、子ども達の反応は全児童達が歓喜からだと頑なに答えるので
あった。
  わたしは「ならば、歓喜で音声表現しましょう。」と指示しました。皆
さんの学級では、どうでしょう。
  二通りの解釈が出て、二通りの違った音声表現が主張されたときは、解
釈が誤りでなく、どちらとも決しかねる場合は、読み手の主体的判断で、ど
ちらかを選択決定して、読み手の責任において、どちらか一方を主体的に選
択して音声表現していくようにさせましょう。


           つぎのページへつづく