児童文化についてのエッセイ      08・06・18記




 
日本の子どもの遊びの変遷史素描





☆本稿は、明治時代の素読・暗誦の教育を調べていく中で副産物としてうま
れた文章です。ですから、ほんのひとかけらの日本の子どもの遊びの変遷史
素描です。☆



       
江戸時代の子どもの遊び



石川松太郎ほか著『図説・日本教育の源流』(第一法規出版、1984)の中
に江戸時代の子どもの遊びについて次のように書いてあります。

   子ども達の生活の大部分は遊びが占めていた。手習いに通いはじめる
以前の六歳以下の子どもはもちろんのこと、手習いに通っている子ども、子
守や奉公に出た子どもであっても、遊びは生活の中の大事な部分を占めてい
た。子守する女の子たちは、子守するだけでなく、自分たちもいろいろのこ
とをして遊んだ。天気のよい暖かい日などは、子どもを下ろして道端などに
並べておき、鬼遊びやあやとりなどをした。手習いに行っている子どもの
とっても、手習いの合間の遊ぶ時間があった。寺子屋の学習風景を見ると友
だちとふざけあって取っ組み合ったり、顔の墨を塗りつけてあったり、にら
めっこなどしている子どもの姿を見ることもできる。(中略)
   江戸時代の中期から後期にかけては、平和の持続によって泰平の世と
なる。小商品生産の発展に伴い、版画・錦絵・絵画などとともに、子どもの
遊具や人形も、紙製・竹製・布製のものが盛んに作られ、祭礼や縁日の屋台
などで市販されるようにさえなった。
   たとえば、『吾妻余波』には、男児用の遊戯として三十六種、女児用
として十五種、男女両用として六十種も挙げられている。
男児遊戯
  紙鳶、独楽、竹馬、雪転がし、小山の大将、雪打、輪回し、座り相撲、
根ッ木、沢庵押し、針打、銀杏打、遊泳、押つ競、太鼓、木登り、菖蒲打、
春駒、釜鬼、面打、ちょん隠れ、杉打つけ、頸引、縄とび、お亀女ん女郎
巻、べい独楽、蝉取り、蜻蛉釣り、道中駕籠、かけっこ、魚取り、お馬、蝙
蝠取り、上り下り
女児遊戯
  手鞠、お手玉、羽子、姉様ごっこ、雛遊び、ままごと、竹返し、細螺弾
き、向こうの叔母さん、綾取り、お山のお山のおこんさん、細螺しゃくひ、
一つ縁結び、てんてつとん、つうばなつばな
男女両用遊戯
  骨牌、鳥指し、源氏合わせ、折り羽、十六むさし、目隠し、釣り狐、墨
転がし、道中双六、水車、火回し、回りの回りの小仏、爺さん爺さん毛唐
人、まわりっこ、お茶坊主、子を取ろ子取ろ、福引、かくれんぼ、銭山金
山、鬼ごっこ、どうどう回り、天神様の細道、お尻の用心、竹の子、芥隠
し、芋虫ごろごろ、ちんちんもがもが、目ん目盲目、髪引き、ずいずいずっ
ころばし、しろめっこ、草履近所、お亀のかおつけ、松葉っきり、そうめん
にうめん、兎うさぎ、千手観音、玉や吹き、肩車、どんどん橋、猫や猫や、
塩や紙や、百物語、じゃんけん、上がり目下がり目、手芸、蛍狩り、祖父祖
母の噺、謎賭け
   このほか、双六は、さいころだけで楽しむ賭博と、子供の遊びとに分
かれ、古い形の浄土双六、道中双六、往来双六など、多くの絵双六が作られ
主流を占めた。このかるたや双六の普及の背景は、紙の生産、木版技術の進
歩があったこと、そして世相を主題に新しいものが作られ、子どもの関心を
よんだことがある。
年中行事
   年中行事は、子どもの誕生から年一回成長していくにつれ展開してい
くお宮参りや七五三にように、その成長の過程で忘れえぬ想い出として、一
生に一度経験するものと、一年の流れの中で次々にめぐってくるお正月や、
三月のひな祭り、五月の端午の節句、七月の七夕、九月の重陽の節句などの
ように毎年決まっているものとの二つがある。
   正月は、晴れ着を着て、ご馳走を食べ、お年玉を貰って遊び放題が許
された。男の子の遊びは凧揚げ、紙を張った凧が普及し、武者絵が描かれた
絵凧、「龍、嵐、錦、蘭」など画数の多い文字が書かれた字凧、扇の形をし
た扇凧、あるいは奴凧など、いろいろとあった。女の子は手まり、羽根つ
き、かるたとりで遊ぶものが多かった。
   ひな祭りは、女児の成長と幸福を祝う行事で、ひな壇にきれいな人形
を飾りつけ、白酒・菱餅・あられ・桃の花などを添えて祝った。
   端午の節句や七夕は、ほぼ今日と同じ。七夕では、手習いに通う子ど
もは、五色の短冊や色紙に詩歌を書いて青笹につけ寺子屋に持ち寄った。
   二月の初午祭、年に一・二回の天神講、旧暦十月の亥の日に行われる
祭などは、子ども仲間にとって最大の関心事であり楽しみであった。江戸の
初午祭では、幟を立て、木戸の屋根には武者絵を描いた大行燈をつるし、家
ごとに田楽燈篭をかかげる。稲荷の社前で、その地所の子ども達が太鼓を打
ち鳴らして踊り遊んだという。


渡辺信一郎『江戸の寺子屋と子供たち』(三樹書房、1995)のなかに、江
戸の古川柳からみた江戸時代の子どもたちの遊びについて次のように書いて
あります。
竹馬の遊び】    竹馬で乗り切って行く八里半
「八里半」は焼き芋のことである。番太郎などが町の辻で焼き芋を商ってい
たので、そこまで竹馬に乗って買いに行く状況である。
竹馬の遊び】    竹馬を窓から呼べば輪乗りをし
竹馬に興じている子供に「おお、うまいぞ」などと声を掛けると、本人もそ
の気になって、少し高等な乗り方を披露するのである。
ままごと遊び】   ままごとに迄女房とこましゃくれ
子どもの中でも必ず、おませで、おしゃまな女の子がいるが、こういうタイ
プの子がままごとでも一家の女房を勤める。
ままごと遊び】   まま事の亭主も客もがんぜなし
「頑是なし」は、「幼くてまだ是非・善悪の弁えがない」意味で、ここでは
幼くて可愛らしいぐらいの使い方である。
ままごと遊び】   まま事の店立をするにわか雨
「店立」(たなだて)は、賃貸の契約を破棄して追い出すことである。まま
ごとの最中に雨が降ってきたので、慌ててままごとが中止というわけだ。
かくれんぼ】    溜め息を隅っこへするかくれんぼ
これは隠れた子。あまり大きな息づかいをすると知られるので、殺していた
息をホッと隠れた隅の方へ吐く。子供の真剣な動作の一点景である。
かくれんぼ】    かくれんぼ乳母はひそかに訴人をし
乳母が鬼の味方をして、「あそこに一人、向こうに二人いるよ」とこっそり
と教えること。訴人とは告訴人である。
折鶴】       寝そびれた子ゆへに夜の鶴を折り
寝そびれた子が、夜に起きているので、女親が折鶴を作って慰める状況であ
る。当時は夜は暗くて遊びと言っても何もできないから、静かに折り紙をす
るのである。
あやとり】     ねこまたはどれどれどれと姉が取り
綾取りの「ねこまた」は移し取るのがいちばん難しいので、熟練の姉が呼ば
れる。「どれどれ」と言いながら巧みに処理する。
きしゃごはじき】  振袖を舟にして行く勝ちきしゃご
「きしゃご」は、イシヤラガイという扁平な貝で蝸牛に似ている。美しい模
様がある。硬いので、指先ではじいても耐久性がある。現代の「おはじき」
である。主に女の子の遊びで、畳の上にばらまき、順番を決めてはじいてい
く。当たれば、当たったきしゃごは自分の物になる。この句は、きしゃごは
じきが巧みな娘である。勝ち取ったきしゃごが多いので、掌に入りきらない
ので、振袖を平らに伸ばしその上にきしゃごを乗せていく情景である。
挟み将棋】    おちゃっぴい挟み将棋が達者なり
口の達者な、こましゃくれた娘が「おちゃっぴい」。あちこちに顔を出して
情報を仕入れ、またあちこちに物知り顔で吹聴して歩く。いつのまにやら挟
み将棋に熟達しているのである。
しない打ち】   白い手と真黒な手としなへ打ち
          しなへ打ち上からぴしゃら打って逃げ
平手打ちとも言い、一対一で向かい合い、お互いに手の甲を上にして出して
重ね、間合いを見て、下の子が上にある他の子の手を叩く遊び。敏捷性が必
要である。第二句は反則をして逃げ出したのでしょう。
かざぐるま】   遣ると取る廻るとむしる風車
竹と紙で出来ているので、いっぺんに破壊されてしまう。まったく型なしで
ある。


多田建次『学び舎の誕生』(玉川大学出版部、1992)のなかに、江戸時代
の薩摩藩における郷中の遊びについて次のように書いています。

   武士の子どもの人格形成にあずかったものは、家庭や学校だけでな
い。それぞれの武家社会の青少年組織もあった。薩摩藩の郷中もその代表的
なものである。郷中とは、およそ四ないし五町四方を一単位とする「方限」
(ほうぎり)を地域的基盤とし、その方限内の武士の子弟すべてが参加す
る、集団的心身鍛錬の場である。
   そこにおける稚児の遊びを見てみよう。これも、もちろん重要な日課
の一つであった。どの地域・いつの時代・どの階層の子どもにも共通した、
山遊び・川遊び・魚釣り・走り競べ・相撲・撃剣などに加えて、薩摩藩では
「大将取り」「降参いわせ」「旗取り」など軍事的性格の強い遊戯が、この
んでとりいれられた。これらを卒業した二才(十六歳から二十四、五歳)た
ちは「山野跋渉」「馬追い」、木刀をつくる木を切りに行く「棒切り」な
ど、身体的鍛錬をかねた遊戯をした。各種の「肝試し」も、心身鍛錬の重要
な機会であった。
   郷中相互の喧嘩も同様である。地域を基盤としているだけに、郷中内
部の結束も強まり、仲間が親密になればなるほど、子どもの本能ともいうべ
き闘争心は外部へ向かわざるを得ない。自分の方限内に、他の郷中の稚児が
足をふみいれたというような仔細なことから、彼等は事あるごとに対立し、
小さな合戦を繰り返していた。各郷中が相互に仮想敵国とみなしあい、平生
から緊張状態に身を置きながら、尚武の心構えをやしなっていた。歴代藩主
も、その行き過ぎや弊害をいましめていたが、多くの場合黙認していた。し
かし藩内での激しい対立抗争は、薩摩藩のナショナリズム形成をはばむ恐れ
があるから、幕末期には斉彬らの努力で次第に改められていった。
   


新島襄(天保14年・1843年、生まれ)の自伝を読むと、新島襄が子ど
も時代にどんな遊びを楽しんだか、次のように書いています。

  私は、一般に子供達がそうであるように、はしゃいで遊びまわるのが
好きだった。こま廻し、輪廻し、たこ上げが大好きだった。特に私はたこ上
げが大好きで、たこを上げ行くと、食事の時間に家へ帰るのをよく忘れ、母
を大変に困らせた。そのため父は、これ以上たこを買わない、といいだし
た。そこで私は、父に内緒で、たこを作るために必要なものを手に入れ、自
分でりっぱなたこを一つ作った。それが青い空の中をぐんぐんん上って行く
のを見た時、私の心は何ともいわれない喜びに躍ったものだ。
   私はまた走ったりとびはねたりするのが大好きだった。左のこめかみ
にある傷跡は、ついうっかり足をふみはずした時の名残である。これは私に
とっては、ひじょうな不面目なしるしであり、そのため私はほとんどに二か
月間家に閉じこもらなければならなかった。
  新島襄著「私の若き日々」(日本人の自伝3、平凡社、1981)より


片山潜(安政六年・1859生まれ)のなかに、片山が子ども時代に楽しんだ遊
びの種類が次のように書いています。

  ヨナベのある時分はすでに老人でヨナベなどしない曽祖父より昔話を
聞くことであった。炬燵にあたってしこうして彼が麗な顔に微笑を含んでサ
モ親切な態度で順々に話すありさまは今なお予の記憶に存している。最もよ
く話したものは、「鬼が島の仇討ち」で、次には「大江山酒呑童子の退治」
であった。後者は予の「のぼり」にある金時が出るから特に所望して聞いた
話である。それから「桃太郎」「舌切り雀」「枯れ木に花咲かせ爺」および
「秀郷の百足退治」なども話してもらった。同じ話を幾度繰り返して話して
もらったか分からない。しかし何遍でも聞くのが楽しみであった。冬の寒い
夜などは祖母がお芋をふかしたり、甘酒を沸かしたりまた時には芋粥を煮て
夜食に出した。スルト予は仕事はせぬともこの夜食の御馳走にはよく預かっ
てから寝たことを覚えている。(中略)
   予はやや成長してから曽祖父の昔話の外、本を読むことを教わった。
どんな本であるかというと当時民間に用いられた唯一の教科書は読書習字両
用のものでしかも僅々数種に限られていた。予の読んだ本は『名頭』『国
尽』『庭訓往来』『商売往来』であった。しこうして『名頭』は普通平民の
名前の頭文字を集めたもの、『国尽』は五畿八道の国々を順序を立てて書い
てある。『庭訓往来』および『商売往来』はその名の示す如く家庭に関する
教え、および商売上に必要なる心得を書いたもので、いずれも皆きわめて平
易にしてしかも実際的のものである。もとよりこれ等の本を教わった予はた
だ口続きで素読を暗誦しただけにて、いかに平易でも子供には字句の意味が
分からないからちょっと覚えても直ぐ忘れてしまった。故になんべんも一つ
本を教わったのを覚えている。しかもその文字は御家流というてよほど略し
たる草書の写本になっていたからなお分からなかった。
(片山潜は『自伝』のなかで幼時の遊びについて遊びの内容を自分の幼時生
活の楽しさと結びつけて約12ページにわたって紹介している。本稿では以
下に遊びの名前だけの拾い出して書くことにする。家族との仕事の中での遊
び・楽しみや一人遊びが多い。)
雛人形。木登り。かくれんぼ。芝刈り。田植え。田植え歌。おハギ。田の草
取り。行商人や金比羅参りの話。正月の祝い事。兎追い。ドジョウ堀り。芝
摘み。蕨狩り。氏神様の祭礼。鰻切り。七夕。盆行事。ツルシ柿・串柿。栗
拾い。コボツ(小鳥を捕るワナ)。松茸狩り。ヤナ。
(現在では珍しい遊び、三つだけ、書こう。)
芝刈り】母に連れられて芝刈りに行ったことを記憶している。別にこれと
いうおもしろいことはないが他の子供らも行っているしことに大勢の人々と
いっしょに集まって弁当を食うて彼等が大話する様を見るのがなんとなく愉
快であった。しこうしてまた芝刈りの時には雉や山鳥の巣が見つかって卵を
取るのが楽しみであった。一体芝刈りは忙しい仕事であるが青年男女にとっ
てはこれが一種の慰みで宛然たるお祭り騒ぎである。
兎追い】正月から二月にかけて兎は深山には雪が降って食べる物がないの
で里近くの小山に出てくる。ことに二月ごろになると麦の青い葉を食いに出
る。しこうして気候も段々ホヤホヤ暖かくなり、色々草木は芽吹く。草花は
あちこちにその美を競うて咲く、蕗の頭、土筆などが出始める。野外に遊ぶ
のがいよいよおもしろくなってくる。この時分の一番の楽しみは兎追いであ
る。叔父は非常に猟が好きで予はよく彼といっしょに兎追いに行った。兎は
後足が非常に長く前足がまた非常に短いから下りるには鈍いが上ることは速
い。故に兎は逃げる時はキット上へ上へと走るから、兎網はいつでも山の上
手に掛けておく。網の高さは三尺長さは五十間または百間くらいのものであ
る。この網の張ってある所を目がけて他の方面から追ってくる。スルト兎と
いう奴は至極臆病であるから人の声を聞くとじきに逃げて網にかかって獲れ
る。
トジョウ掘り】冬は釣りはだめであるがトジョウ堀は冬に限る一つのおも
しろい漁りである。予はしばしばこのドジョウ掘りをした。田の岸根にある
溝の泥の中にあるドジョウ先生寒いからモグッてジット寝込んでござる。こ
れを泥といっしょに鍬で掘り上げて取る。ドジョウはちょっとも動かないか
らたやすく取れる。
        片山潜『自伝』(日本人の自伝8、平凡社、1981)より



       
明治時代の子どもの遊び



三宅克己(明治七年生まれ)の自伝の中に、三宅克己が子ども時代にどんな
遊びを楽しんだか、次のように書いています。

   私達一家族はそのお屋敷内(旧藩主の蜂須賀家の本邸)に呼ばれて、
和泉町の親戚の家から移転した。
   夏の夕方になると、無数の蝙蝠が往来を飛び廻り、弟と二人してそれ
を長い竹竿でたたき落として喜んだりした。
   私どもの住まっていた蜂須賀家のお屋敷の境内は邸内が広く、私達は
これを御殿と呼んでいた。お庭には、大きな池と、そのお池には中の島があ
り、なお築山にはたくさんの桜の木などが植えられてあった。そこのお池で
釣りをするのである。よく釣れたものであった。表向きには釣りは出来ない
のだが、日曜日などに、お上の方々が朝からお出掛けでるすのときはお長屋
に住まっていた子ども達は勿論、その親達までが長い釣竿を担ぎ出して、お
庭のお池はちょうどよい釣堀の光景を呈するのであった。
   

平塚らいてふ(明治19年、東京麹町生まれ)の自伝の中に、平塚らいてふ
が子ども時代にどんな遊びを楽しんだか、次のように書いています。

   早生まれの私は、数え年七つで富士見小学校に上りました。その頃、
隣の家の男の子が、よく私の家へ遊びに来ていましたが、どんな乱暴をして
も、母は叱ろうとしません。あるとき、その男の子が、茶の間の窓の鉄棒を
伝って上がっていったのを母が誉めそやしていたのを見て、私は真似をして
鉄棒を上ろうとしたところ、「女の子のすることじゃない」といって、ひど
く叱られました。私はびっくりしてやめましたが、「男の子がしていいこと
を女の子がして、なぜ悪いのだろうか」と、お腹の中で承服しがたいものを
感じていました。
   いったいに私の家では行儀作法がやかましく、お客が見えたとき、私
のお辞儀の仕方がよかったとか悪かったとか、あとで一々批判されました。
ご飯を食べるときも「話をしてはいけない」とか、「足を横に出してはいけ
ない」とか、箸の使い方とかいわゆる食事作法については随分小さい時分か
ら仕込まれたものです。またお金のことなどは一番下品なこととして、口に
出すことは許されず、物の値段を聞くのも禁物でした。
   男の子と女の子の差別について不満だったことは、夏になると近所の
男の子たちは、長いモチ竿をもって招魂社へ蝉とりに出かけるのですが、そ
ういう遊びは許されず、女の子の遊びといえば、まりつき、お手玉、おはじ
き、竹返し、ごみ隠しというような種類のものに限られていました。男の子
と女の子の遊びは、屋内でも戸外でもハッキリと区別されていたのです。
(中略)
   読書意外の娯楽といえば、およそ今の女学生のそれと較べれば何もな
い時代でした。活動写真とよんで幼稚なものが少しはありましたが、女学生
はそんなところには出入りしませんでした。休日には家にいて料理の手伝い
をしたり、お菓子を作ったり、読みたい本を読んだり、好きな友達の家へ、
それも遊ぶだけでなく、一緒に勉強するために行ったり、時折友だち二三人
が誘い合って小石川の植物園か上野公園へ行くぐらいのことで、十分たのし
んでおりました。女学生が友達同士で芝居を見物にいくようなことも今と
違って決してないことでした。
   しかし一方、いわゆる「お稽古事」という学校の勉強以外のものがい
くつかあって、これがなかなか忙しかったものでした。上中流の家庭の娘は
みな趣味として音楽をやらなければならないのがその頃の習慣で、ピアノや
ヴァイオリン、琴や三味線というように、私も小学校入学の時から、母の手
ほどきで琴を習わされ、女学校へ入ってからは姉と一緒に龍岡町の荻岡先生
という盲目の有名な琴の師匠に通いましたが、いつも抜けていく大学の御殿
の池で、目高をすくって遊ぶ方が、私にはずっと面白いのでした。お茶のお
稽古もやはり学校の帰りの道順で、本郷三丁目に近い、勘工場の横丁を曲が
りくねったところに先生の家がありました。
   人前に出ることが極端に嫌いな私が三年頃からテニスをはじめ、相当
に上達して、のちに女子大に入ってからも卒業まで休みなく続けました。お
茶の水時代のテニス友達に、美濃部裁達吉博士の婦人之になられた菊池民さ
んがいました。
 平塚らいてふ『わたくしの歩いた道』(作家の自伝8、日本図書セン
 ター、1994)より引用


  明治27年、三年生(八歳)のとき、わたくしは富士見小学校から、本
郷の誠之小学校へ転校しました。
  ここの学校の子どもたちの間では、肉桂をしゃぶることが、大はやりで
した。子どもたちは、肉桂を「ニッケ」と呼んでいました。ニッケほどでは
ありませんが、薄荷(はっか)もはやって、黄色い紙薄荷や、薄荷水の小瓶
が、肉桂の皮や根の束、ニッケ水という赤い水の入った細いガラス管、ニッ
ケ水のしみこませてある、紙ニッケという赤い小さな和紙といっしょに、文
房具屋の店先に置いてあり、そこに子どもたちが集まっていました。遊び時
間に、子ども同士それをやりとりして、しゃぶります。
  お手玉や手まり、おはじきなどの遊びもさかんでした。これは富士見小
学校でもはやっていましたが、誠之の子どもたちは、人の歩く廊下のどこに
でも、ぺったり坐りこんでやっています。手先が器用なわたくしは、なんで
もできないものはありませんが、お手玉三つを片手で取るのはなかなか難し
く、練習が必要でした。通学の途中も、家に帰ってからも、とうとう食事の
間にも袂からお手玉をひょいと取り出して練習をやりはじめ、母から叱られ
たこともありました。一時は姉もわたくしもお手玉作りに熱中して、家じゅ
うの小切れを集めて、大きいのや小さいの、角型のものや俵形のものを、ふ
だん用、よそゆき用とわけて、変わったものをたくさん作るという懲り方で
した。姉は気短かで大ざっぱな性格ですから、仕事が早いのですが、わたく
しは気のすむまで丹念にやるたちなので、仕事がはかどりません。けれども
出来上がりは、姉よりきれいで、そして丈夫でした。そのころは、小学校の
運動会の女生徒の競技には、お手玉をとりながら走るものもありました。
  まりつきもよくやりましたが、わたくしたちが遊んだまりつきのやり方
は、あまり大きくないゴムまり二個を、片手に持ってつきながら、ほかの片
手をまりの間にくぐらせるやり方でした。足をあげてくぐらせるやり方は、
服装の関係もあったのでしょうか、やったことがありません。もしそんなこ
とをすれば、すぐ「おてんば」といって、母から叱られたことでしょう。
  ゴム風船を買ってきて、自分で大きなまりを作る楽しみは、いまに忘れ
られません。ゴム風船は、五銭から十銭くらいまで、大小色とりどりありま
したが、まりを作るには、五戦くらいのものが頃合いだったと思います。ほ
どよくふくらませた風船を、青梅綿でうっすらと包み、その上から白い木綿
の双子糸で、まんべんなく、綿が隠れるまで巻き、それをまた、紅、緑、
黄、紫などの色糸できれいにかがります。大きなまりが見事に出来上がった
ときの嬉しさは格別で、家中で一番広く、天井も高かった西洋間の真ん中
で、精一杯高くついて、「おひとめぐり」「ふためぐり」などといっては、
まりが落ちてくる間に体を一回転させて、いつまでも飽きずに一人で遊びま
した。
  そのころやはりよくやった竹がえしという遊びは、なかなか細かい技巧
のいる、おもしろい遊びでした。長さ七寸、幅三分ほどの、割り竹を滑らか
に削ったものを十本ばかり、それを最初一束にまとめて右上向きに手につか
み、ぽんとその手を返すと同時に、手の甲で竹べらを全部、落とさないよう
に受けとめます。この手の甲に乗った竹べらを、表なら表ばかり、裏ならば
裏ばかり向くように、手首や指の動きに微妙な工夫を凝らしながら、静かに
畳の上に、一本ずつ滑らせていきます。もし最後の一本が、反対の面をみん
な見せているような場合は、手に甲をぱたんと畳に伏せて、裏を返すという
仕方もありました。
  こうして全部おなじ面を向けて落とせたら、それで一貫貸したことにな
り、失敗するまで、その人は何回でもつづけることが出来るのです。コツさ
えのみこめば案外にやさしく、物事にあまりあせらぬたちのわたくしは、こ
の遊びも得意でした。ただ、ひとより手が小さいのが弱みでした。
  いまひとつ、いかにもそのころの女の子らしい遊びに、ゴミ隠しという
のがあります。わたくしの家の、玄関前と庭との境にある杉皮張りの塀は、
ゴミ隠しに向いていたので、友だちが遊びにくると、これをよくやりまし
た。小楊枝の先ほどの小さなゴミを、杉皮張り塀の隙間や、小さな穴に隠し
て、それをお互いに探しあうのです。肉眼で探すよりもよりも、カンを働か
せて探さないと見付かるものでなく、この遊びの経験は、のちに大人になっ
てから、家のなかで探し物をするときなど、ずいぶん役に立ったように思い
ます。
平塚らいてふ『原始、女性は太陽であった1』(大月国民文庫、1992)よ
り引用


荒畑寒村(明治20年生まれ)の自伝の中に、荒畑寒村が子ども時代にどん
な遊びを楽しんだか、次のように書いています。

   私もだんだん田舎っぺの気おくれがうすらいで都会の子供になじみ、
凧あげ、独楽まわし、根っ木、メンコ、鬼ごっこ、隠れん坊などの遊びに加
わるようになった。ただ初午(はつうま)の日に少年が隊を組んで「稲荷コ
イ」(稲荷講の意か)云々と称する文句を唱えて家々から小銭を貰い歩き、
その金で菓子などを買って食うことは、当時は格別非難もされぬ風習であっ
たが、私は父からあんな乞食みたいなマネはするのじゃないと、厳重に戒め
られていたから仲間に加わったことがない。
   駄菓子屋もまた楽しい思い出である。郭の大門を出たところにあった
駄菓子屋が私達のなじみで、ここの亭主は玩具類を飾った車をひいては方々
の縁日や祭礼をまわり、「親のかたきでも、チョックラチョッと切れるよう
な、正宗の刀でも加藤清正朝鮮征伐、片鎌槍(かたかまやり)でも一銭と八
厘、チョイチョイ買いな」と、歌うような調子をつけて売っていた。そして
その店はその女房が経営していた。(中略)
   春にはよく、近くの野原へ蜂蜜をとりに出かけた。(あと、長いので
荒木が簡単にまとめると、蜜蜂を草履や下駄で叩き落して、蜂の胴と尾との
中ほどをちぎって半透明の蜜を掌にうけてなめる)また、掘割で魚釣りをし
て楽しんだ。
   隔年行われる氏神の本祭りは、私たちの興味と興奮を湧かせる最大の
行事であった。三日間の本祭りには殊に郭の催しが派手と伊達の限りをつく
し、山車、神輿、踊り屋台が初夏の街を練りまわった。子ども達は背には日
枝神社の定紋の巴、腰の周りに菱形の輪つなぎ模様の白く染め抜いた鼠色の
半纏をまとい、イナセな扮装で、神輿をかついだり山車をひいたりした。
   晩秋に入ると、郭内の大鳥神社の境内に酉の市が立つ。熊手や繭玉を
商う露店が軒を連ねて、雑踏は前夜から当日の夜半までつづいた。革羽織を
着た出入りの鳶頭に大熊手をかつがせた男や、葉のついた笹竹につらぬいた
唐の芋、切山椒の包みなどさげた女や、手丸提灯をふりつつ声を嗄らして往
来を制する巡査や、その喧騒と雑踏との間を子ども達はカンテラの油煙にむ
せびながら、ただ浪人にもまれて歩き回るのが面白かった。(中略)
   こわかったのはデイデイ屋と鼠とりの薬売り。前のは雪駄直しなのだ
が、どういう意味か知らぬがデイデイと呼んでいた。大きくなってから見た
おこよ源三郎の芝居で、雪駄直し長五郎の風俗に幼時の記憶を想い起こした
が、深い笠をかぶり豆絞りの手ぬぐいで顔を下半分をつつみ、裾を七三にか
らげて千草だか盲縞だかの股引をはき、真田紐で肩から深い竹かごをつるし
た姿はいかにも陰気で凄みがあって怖かった。
   私は幼時から芝居に親しむ機会が多かった。それも生家の稼業から、
派手なつきあいが多かった。壮士役者の福井茂兵衛や旧派の澤村宗十郎など
は、横浜へかかるときっと挨拶に来ていた。当時、横浜では郭の大門外の千
歳座、羽衣町の羽衣座、伊勢佐木町蔦座、関内の港座などが東京からいわゆ
る千両役者の来演した大劇場なのであった。それだから、芝居ごっこは一
時、私たちのもっとも得意な且もっとも熱心な遊びであった。ある時、私た
ちは石川五右衛門釜ゆでの場を出して、私が倅れ五郎市に扮したことがあ
る。         荒畑寒村『寒村自伝』上巻(岩波文庫、1975)より


菊池寛(明治21年生まれ)の自伝を読むと、菊池寛が子ども時代にどんな
遊びを楽しんだか、次のように書いています。

   私の少年時代の娯楽は、蜻蛉釣りと魚釣りである。蜻蛉釣りはなかな
か得意であった。蜻蛉が遊弋する場所は、大抵きまっているもので、その場
所へ行けば、蜻蛉は楕円形を描いて飛んでいた。それを、最初釣竿で、はた
いて落とす。むろん、首が飛んだり、尾が飛んだりするが、しかしそれで囮
には十分だった。それを三尺位の竿の先に二尺位な糸をつけ、その糸の端に
結わえ付けて、蜻蛉釣りの囮にしたものだ。だが、こうして飛んでいるもの
は、青色の雄ばかりである。茶色の雌はツガイで飛んで行く場合か、夕暮れ
に五、六間の空を虫を食うために、飛ぶだけである。(中略)
   魚釣りの方はたいていハゼであるが、私は秋になると日曜ごとにハゼ
釣りに行った。沢山釣るときもあるが、五、六匹しか釣れない時が多かっ
た。それでも、僕は満足した。魚釣りの楽しみは、そのうちにあると思った
からである。
      菊池寛『半自叙伝』(日本人の自伝15、平凡社、1981)より   


吉川英治(明治25年生まれ)の自伝の中に、吉川英治が子ども時代にどん
な遊びを楽しんだか、次のように書いています。

  童戯の変遷は、社会相のの変遷といってよい。ある時は、一般がまだ気
づかない先に、大人の世相を童戯に教えられたりするばあいも。あるけれど
又、童心の世界には根づよい自然の伝統も流れている。大人の生活とか治乱
には関知せず、独自な別天地を画然と持っていた。それからいえば、童戯不
変と云えなくもない。
  かりにそれを伝統児戯とよぶなら、ぼくらが幼少にやった遊戯の種類は
みなそれの系統であっただろう。メンコ、根っ木、ブランコ、縄跳び、ラム
ネの玉遊び、コマ、凧、石蹴り、石鉄砲、竹馬、金輪廻し、吹き矢、当て
物、隠れんぼ、かるた、十六ムサシ、といったような類である。種目は思い
出せないほど多い。然しすべては、野放しの童心と、子供相手の駄菓子屋や
オモチャ屋との合作によるもので、社会人の文化的考慮などは、影も映して
いなかった。道路はどんな大通りでも舗装はなかったし、電灯はまだ家々の
ものではなかった。馬車道とか海岸通りなどに、青い瓦斯燈の光が見られた
頃にすぎない。
   遊びの中で、最も熱中したのは、メンコ、根っ木、石鉄砲などだっ
た。ぼくらはメンコの絵によって、源義経だの福島中佐などを知り、まだ見
てもない団十郎や菊五郎を知っていた。家に近くに法華寺の清正公様のお堂
があり、そこのお堂の縁をメンコの道場として夢中になった。紙メンコと鉛
メンコとがあったが、紙メンコの裏表に、ロウソクの蝋をこするつけて磨く
と、すばらしい光沢と重厚感が出て来るので、よくお堂の祭壇からロウソク
の燃え残りを持って来ては板の間でこすったりした。
   メンコの遊び相手に、名は忘れたが、近所の医者の子があった。日が
暮れると、このお医者さんは門の外に立って、山伏みたいに大きな法螺貝を
吹き鳴らすのである。此の法螺貝の音を聞くと、ぼくのメンコ相手は、すぐ
顔色を失って飛んで帰って行った。ある時、ぼくが見ていたら赤い紐で法螺
貝を首にかけたそのお医者さんが、舞い戻ってきた息子の襟がみをつかん
で、お尻をぴしゃぴしゃなぐっていた。ぼくは自分が打たれているような罪
悪感に襲われた。
   どこの家庭でも、メンコや根っ木みたいな博打的遊戯は、決していい
とはしていなかった。ぼくなども隠れてやっていたのである。社会そのもの
に児童への指導の関心もなかったので、家庭の責任はその全部であった。自
然、児童に対して、家庭はきびしい所でないわけにはゆかなかった。
   吉川英治「忘れ残りの記」(日本人の自伝15、平凡社、1980)より


湯川秀樹(明治40年生まれ)の自伝の中に、湯川秀樹が子ども時代にどん
な遊びを楽しんだか、次のように書いています。

   兄がよくかぶと虫を採って来てくれた。先がふたまたに分かれた一本
の角を持っているかぶと虫を、私たちは「カブト」と呼んだ。かまのような
二本の角を持つくわがたを「源氏」と呼んだ。何もないのは「坊主」であ
る。兄が捕らえてきた虫を、私は木箱に入れて砂糖水で飼った。時々、箱か
ら出して相撲をとらせたり、紙で作ってきた車をひかせたりした。木箱のふ
たには小さな穴をいくつもあけて、風通しをよくした。夜の間に逃げ出さな
いように、箱の上に石を置いた。(中略)
  出町から今出川の通りにかけて、月に二回、十四日と二十二日に縁日が
出た。露店に燃えるアセチレンのにおいは、今でもあざやかによみがえって
くる。
  家の二すじ南には、荒神様のお社があった。ここの縁日にも露店はたく
さん出た。いや、露店だけではない。のぞきからくりは、不思議に子供の夢
をさそった。料金は二銭だったと思う。口上の文句は忘れたが、小さな窓か
らのぞくと、極彩色の絵が見える。いまで言えば、紙芝居に当たるものであ
ろうが、それよりずっと情趣があったように思えるのは、古い時代のもので
あるからかもしれない。説明者は、坊をたたいて拍子をとりながら、声色を
使う。内容は子供の私にはよく分からず、興味もなかった。しかし、からく
りの持つふんいきには、魅力があった。
   からくりの隣りでは、艶歌師が流行歌をうたっていた。金魚屋も店を
出した。ほうずき、べっこうあめ、うつしえ。夏ならば、とうもろこしを焼
きながら売っている店もあった。露店といえば家庭の日用品や、安呉服など
も売っていたはずだが、目に浮かぶのは、子供の私に魅力のある店屋ばかり
である。べいごまを京都の子供たちはパイと呼んでいた。みかん箱やバケツ
の上に小さなござをくぼませて、そこへ叩きつけるように径二センチぼどの
鉄のこまをまわすのである。こまは時々ふれあったて火花を散らした。一方
はござの外まではねとばされることもある。
   「メンコ」という遊びもあった。丸い厚紙には、たいてい、軍人や役
者の似顔絵がはりつけられていた。地面に置かれた一枚に向かって、一人の
子が自分のメンコを力いっぱいたたきつける。相手のメンコを裏返しにすれ
ば、勝負はつくのである。
   「カナメン」というのもあった。小さな鉛の薄板である。飛行機や、
飛行船などの形をしていた。地面に置かれたカナメンの真上から、静かに自
分の一枚を落とすのである。うまくあたると、置かれていたカナメンはひる
がえって裏を見せる。私は何十枚というカナメンを、重そうに兵児帯の中に
巻き込んである男の子を見て、その子の「自由」がうらやましかった。
湯川秀樹『旅人・湯川秀樹自伝』(角川文庫、昭35)より


大岡昇平(明治42年生まれ)の自伝を読むと、昇平少年がどんな遊びを楽
しんだか、次のように書いています。

   三月の終業式は、またこれらの女生徒の卒業式でもある。われわれは
「蛍の光」を歌い、卒業する者は「仰げば尊し、わが師の恩」を歌う。今は
どうか知らないが、その頃は「いまこそ分かれめ」の「め」をフェルマータ
で歌った。つまり卒業生はここで万感の思いをこめて、声をはり、息の続く
かぎり引き延ばすのである。女生徒の方が声も感情も強いらしく、女声が長
く残った。ソプラノが式場の天井にこだましながら、次第に消えていくのを
聞くと、少なくとも私は恍惚に近い状態に導かれた。すすり泣きがはじまる
こともあり、「いざさらば」と歌い収める。その頃、上級学校へ進む生徒は
多くなかった。女生徒の大部分は、そのまま家にいて、家事を手伝い、弟妹
の世話をするか、もしくは働きに出る。偶然入った食堂に昨日までの上級生
が給仕になっていたり、歯医者へ行くと助手になっていたりした。
   稲荷橋の近所に、二年ぐらい上の、黒っぽい着物を着ているお転婆の
女の子がいた。或る日器械体操を教えてやるといわれ、放課後の校庭へつれ
て行かれた。その子は私にはできない尻上がりをした。すると裾がめくれて
下半身がむき出しになってしまった。(その頃の女の子はパンツをはいてい
なかった。)私はびっくりして逃げ帰った。この子も卒業するとどこかへい
なくなってしまった。
   校庭には人が全然いなかったから、これは夏休みのことだったかもし
れない。休暇中の子供の遊びは、渋谷川に入ってハヤやメダカをしゃくうこ
とであるが、実際はこの頃には魚はあまりいなくなっていた。むしろ学校の
前の河原で、トンボを捕った。細い竹ざおの先の方にモチという粘着性の物
質を薄くまき、頭の上へ飛んでくるトンボを目がけて、素早く突き出して捕
らえるのである。ムギワラ、シオカラなどの尻尾の色によって区別があった
が、トンボの王様はなんといってもギンチョ、キンチョと呼ばれる大きな奴
で、これは高く飛んでいるので、下級生には手に負えない。やがて赤トンボ
が取り切れなくなるほど群れをなして、河原を覆うようになると夏休みもそ
ろそろ終りである。
   セミは主に川端稲荷のイチョウやケヤキの木にいた。これもモチで
獲った。ケヤキの太い根のくぼみに、セミの幼虫やサイカチ、カブト虫を這
わすのは、季節がそれほど進まないころの遊びだったろう。ケヤキやイチョ
ウの根元が子供達の集合所で、頭上にやかましいセミの声を聞き、張り出し
た根にまたがり、幹の太さを手をつないで測り、硬い樹皮の感触を楽しん
だ。(中略)
   川上材木店は川向こうの通りの、少し並木橋寄りで、宮益坂と平行し
て青山七丁目の方へ登る道の曲がり角にある。渋谷川のこっち側の「知命堂
医院」の裏の空き地に材木置場と製材工場を持っていて、川を越して太い針
金を渡し、材木を釣り下げて運んでいた。河原の一部も材木置き場にしてい
て、よく「よいとまけ」工事があった。これは今は全然なくなってしまった
が、主に女の土方によって行われる杭打ちである。丸太を三本組んだ櫓の上
から、鉄のタガを嵌めた大きな木槌を鎖でぶら下げる。ぶら下げた鎖のてっ
ぺんは数本の綱に別れていて、それを櫓の四方に位置した四、五人の女の土
方が持つ。そして櫓の上に登って、槌の落下を調整する男の土方の音頭に
従って、一斉に綱を引いて、槌を持ち上げ、急に綱を放すことによって、槌
を落下させ、杭を打ち込むのである。綱を引く時に、声を合わせて「よい
と、まーけ、よーいとまけ」というので、この名で呼ばれた。綱を放す時は
「よんやこら」という。一種の節回しがあり、はやしの合間に、櫓に登った
若い衆が高い声で別の歌を歌う。なんか下がかったことをいっているのは、
女達の笑い声でわかった。工事は、家の新築のあるところで行われ、子供に
とって、この上なく面白いい観物であった。「よいとまけ」が始まったとい
う報知が路地の中にひろがると、みな駆け出して見に行った。(中略) 
   金王八幡の例祭は、川端稲荷とは段違いの賑やかさで、われわれが待
ちこがれていた日であった。鳥居から本殿前まで、ぎっしり屋台が出て、し
んこ細工、ほおずき、飴、かるめら焼、綿菓子などを売っていた。特別に
貰った五銭か十銭の小遣いをどう使おうかと苦心する日である。神楽堂で演
じられる神楽は、スサノオの大蛇退治を完全な物語として演じ、オカメ、
ヒョットコの道化がつく。衣装も役者も川端稲荷より格が違う感じで、われ
われは年に一度の演劇を見る機会を十分に楽しんだ。
   石段の降り口のところに、紙芝居が出ていた。(中略)鳴り物はじゃ
んじゃんいう陰気な鐘で、セリフをいう小父さんは渋谷あたりでは見かけな
いしまった顔付きをしていた。黒っぽい着物を着て脚絆を穿いていた。演じ
物は「西遊記」だけなのだが、ここで金角大王が火を吹き、猪八戒がべろを
出すとわかっていながら、そのじゃーんという不吉な音を聞き、絵姿が不意
の変わる(串をひねって裏返るのだろう)時の、ぞっとするような感覚を味
わうために、毎年二銭払い続けたのだった。この変な紙芝居のほか、猿回し
が神殿の前に出て、お軽道行の真似をすることもあった。  
       大岡昇平『幼年』(埼玉福祉会、大活字本、1994)より



       
大正時代の子どもの遊び


金田一春彦(大正2年、東京本郷に生まれる)の自伝を読むと、春彦少年が
楽しんだ遊びの種類が次のように書いています。

   本郷にいた頃は、外で遊ぶ場合は「人取り」と「馬とび」が一番盛ん
な遊びだったが、今とちがって虫を捕る遊びが本郷でも出来たことを書いて
おきたい。真砂小学校のあった真砂町の一面には、右京山という名の、赤土
の小山があって、カゼクサやチカラシバなどの禾本草の原になっていて、子
どもたちのいい遊び場だった。ここへ来れば、大きな殿様バッタがはねてい
て、私たちは「オートゲーロ」と叫びながら、つかまえて遊んだ。オートと
は、そのバッタの東京方言で、緑色の部分があって大きいのがりっぱだっ
た。土色で少し小型のもいた。トンボがたくさんいるところで、一番大きな
のがオニヤンマ、それにつぐのがギンヤンマ、あと、ちょっと小型なのに、
ムギワラトンボ・シオカラトンボや、秋になると、アカトンボが出る、黒色
のオハグロトンボや、小型のトウスミトンボなどもいた。これらは網で、ま
たは、竿で追い回してつかまえた。
   右京山以上に虫捕りにいいところはすぐ近くの東大の構内だった。た
だし、ここは自由に入れるわけではない。もち竿でもかついで入ろうとする
と門衛がコラコラととめて入らせない。そこで大学病院へ見舞いに来たよう
な大人連れが入る、それの連れのようにして入りこむのであった。塀を越え
て入ることもできたが、越えるところを見つかったら、それこそ叱られて、
つまみ出される。
  とにかく入れれば、この中は右京山以上に収穫があり、木立があるので
蝉をとることもできた。バッタの種類で、大型緑色の三角バッタもいて、こ
れはキチキチと鳴く。これをつかまえると翌る日学校へ行って、みんなに見
せびらかしたものだ。
   それが杉並に移ってみると(荒木注・大正13年に杉並に引っ越し
た)、子ども達の最も主な遊び場は、善福寺川だった。ここの岸で糸を垂れ
れば、フナやタナゴが釣れた。餌はミミズをちぎったのが一番よかった。二
月ごろならば、タナゴはご飯粒でも釣れた。しかしフナの方が糸を引く力が
あり、釣りあげると金色に光るので、こっちのほうが値打ちがあった。
   もっとも、フナやタナゴは田圃の間の小さな溝にもいた。ここはラン
ニングシャツとパンツだけになって裸足で入り、ザルで掬い上げてとるの
で、私のようなセッカチな子どもには、この方が楽しかった。このようにす
るとドジョウも捕れた。
   溝には、またいろいろな動物がいて、掬い上げられた。蛙、イモリ、
タニシ……それから、名はおとなになってから知ったが、タガメとかミズカ
マキリとかいう昆虫もいた。子どもたちはみなカッパと総称していた。いか
つい格好をしていたが、手でつかまえても抵抗しなかった。先日新聞を読ん
でいたら、いまの子どもたちは虫を相手に遊ぶことをしないという記事が
あったが、日本に住んでいて、勿体ないことことだと思う。コップの中に入
れると、水の底から紙切れなどを水面に運んでくる虫もたくさんいて、感激
した。本郷ではフウセンムシと言って、夜店で売っていた虫である。
 金田一春彦『わが青春の記』(東京新聞出版局。1994)より


小倉朗(大正11年、東京京橋に生まれる)の自伝を読むと、朗少年が子ど
も時代にたのしんだ遊びの種類が次のように書いています。

   「せーちゃん」や「いきちゃん」たちと一緒に遊ぶようになるのだ
が、さそわれていった一高のグランドのバッタ捕りも、不忍池のトンボ捕り
も、「せーちゃん」たちの鮮やかさに対して僕はいつも駄目。駄目といえ
ば、「べーごま」も「めんこ」も手を触れたことがなく、「けん玉」がは
やったときも、その器用な芸当を呆れかえって見ていただけで、やって見よ
うという気持ちは一向に起こらなかったし、鞠を投げるとみんなが笑った。
「変な恰好」というのだが、何故変なのかちっともわからず、「変じゃない
格好」を教わっても、やっぱり「変な恰好」でしか投げられなかった。その
うち、飛んできた硬球があたって倒れたりしたからだろう、鞠には生涯抜き
がたい嫌悪感を持つようになった。
   そんな次第で遊び時間には仲間外れになった。ただ好きだったのは自
転車。これだけはみんなと一緒に走ったり、一人でガス燈がつく頃まで上野
公園を走りまわった。 小倉朗『自伝・北風と太陽』(新潮社、1916)より



        
昭和初期の子供の遊び



  池波正太郎(作家)は、作家自伝『池波正太郎』(日本図書センター、
1998)の中で、自分が小学生だった時の遊びと現在の子供の遊びを比較
しながら、次のように書いています。池波正太郎さんの小学校入学は昭和4
年、卒業は昭和昭和10年です。

  上の学校へ行けぬ者は、働きに出る。私は株式仲買店へ行ったが、その
他にも、さまざまな職種があった。たとえば、私が子供の頃の同じ町内には、
下駄屋があり、炭屋があり、油屋があり、経師屋があり、三味線、洋服、弓
矢、仏具、看板、寿司、洋食、鰻、菓子、精肉、魚など、数え切れぬ小さな
店がたちならび、町内から一歩も出ずに、すべてが間にあったのである。
  私が小学生のころ、たとえば担任の若い先生が、日曜日になると、自分
の下宿へ教え子を交代で招び、牛肉の細切れのすき焼きを食べさせてくれた
り、小説が好きな生徒について来てくれて、古本屋で本を値切ってくれたり
した、そんなことが、いまもあるのだろうか……。
  母から貰った小遣いをためこみ、大好きな映画を見た後、デパートの食
堂へ一人で入ってビフテキを注文し、ウェイトレスから「こんなことを子供
のくせにしてはいけないのよ。今度だけよ。」などと、やさしく言われたり
することがあるのだろうか。……。
  下町の、ひろびろとした空地の闇の中で、木刀を振り回したり、ベイゴ
マをまわしたり、材木置場を猿のごとく駆けまわったりすることがあるだろ
うか……。
  夏の縁日で蛍を買って来て、青い蚊帳の中へ放ち、点滅する蛍の光をう
っとりとながめながら眠りにひきまれてていくやうなことが……いや、これ
はない。ないにきまっている。
   作家自伝『池波正太郎』(日本図書センター、1998)より引用


  木山捷平(作家)の作品に『うけとり』という短編小説があります。そ
れの冒頭部分に次のような文章個所があります

  貧しい百姓の子供たちは、学校がひけて家へ帰っても、町の子供や月給
取りの子供のように勝手気儘に遊ぶことはできなかった。彼等はどこの家で
も「うけとり」(ある仕事の量を決めてそれを引き受けさせること)を命じ
られ強要された。仕事の性質と量とは、季節と年齢によって相違があった。
子守り、草刈り、縄綯い、牛飼い、桑摘み、紙袋はり、等等。ただ同じなの
は、学校がひけて日が暮れるまで働いて、やっと仕上がるだけの時間を必要
とするということであった。
  山峡の村に秋が来ていた。楢(なら)や櫟(くぬぎ)がところどころに
紅葉を飾って、山の谷間に朝の陽が明るくかがやいていた。
「今日も昨日とおんなじじゃ。大籠に山盛りに一杯。」
  岩助は学校へ行きがけに、こう母親から怒鳴られた。
「どんぐりの葉なんぞまざらんとこをじゃぞ」
  後ろから父親の声が追っかけるように襲いかかった。
  去年の秋までは中籠に一杯でよかったのに、今年になってから彼のうけ
とりの量は急激に殖えていた。彼は内心それが不平であった。それでいつか
夕暮れの台所の土間で、母親と二人きりになった時、その減額をたのんでみ
た。
「生意気なことを言いなさんな。飯だけ仰山くらうようになりやがって。そ
んなこたあ、その大けな体によう相談してから言いんされ。」
  母親に言われるまでもなく、岩助は今年の春頃から秋にかけて、背丈が
スカンポのように伸びていた。が、
「じゃけど、年は去年より一つ大きうなっただけじゃて。」
  と、抗議を試みた。
「うるせえ。それくれえなうけとりができんなら、学校をさがって朝から野
良へ出んされ。」
  岩助は返事に困って黙っていた。すると母親はややしんみりと続けた。
「それくれえなうけとりぐれえ、何でもなえじゃないか。わしらお父つぁん
と山岡先生の小作を汗水たらして一町もしとる。じゃけど、なんぼ先生に頼
んでも年貢は一升も一合もまけてもらえんのじゃど。……松葉を大籠に一杯
撫でるぐれえ何じゃ……。」
  母親はそう言って、黙ったまま煤けた竈(かまど)をのぞきこんで火を
吹いた。松葉がぱっと燃えついて、母親の顔が明るく映え出された。
  彼は破れた。が、もともと請願など役に立とうはずはなかった。彼らの
生活にとって、そんなものを受け入れる余裕は微塵もなかった。切羽つまっ
た日常生活の不満は、いつも怒鳴り合いといがみ合いとで満たされた。
ーー馬鹿野郎
ーーこの餓鬼め。くたばりやがれ
  こんな言葉が日夜家の中を飛散した。そうした」環境の中に育った岩助
は、少々の荒々しさに驚きはしなかった。が、近頃どうかすると父親が、ま
た時には母親が怒鳴りに使う新しい言葉が一つ増えていた。
ーーこの穀潰しめ。学校なんぞさがってしまえ
  これには岩助も辟易した。何と言っても家で仕事を強いられるより、学
校へ行って算術を習ったり、読本を読んだり、鉄棒にぶら下がったりするほ
うが楽だった。それに今年岩助は、尋常科卒業を三四カ月先にひかえていた。
まさかそれまでにはどんなことがあっても、退学させられるようなことはあ
るまい。しかしその後で高等科へ上げてもらえるかいなかが今は問題だった。

荒木の注記  短編小説『うけとり』は昭和8年に『初恋』の標題で発表
された彼の処女作です。小説は本質的に虚構があることは承知していますが、
この短編小説には発表当時の社会的状況が背景として色濃く反映して描写さ
れていることは否定できないとわたしは考えました。小作人の子どもたちは遊
びなどできず、「うけとり」という重労働をして家計を助けなければならな
かったことが描写されています。昭和8年発表ですので、当時の子どもの遊
びの一面を捉えていると思い、ここに参考資料として掲載したしだいです。≫



      
昭和10年代の子どもの遊び



七原恵史・林吉宏・新崎武彦共著『ぼくら国民学校一年生』の中に、国
民学校当時の子供達の遊びの種類が次のように書かれてあります。

  昭和16年から敗戦の昭和20年までの小学校は「国民学校」と呼ばれ
ました。「国民学校」では、第二次大戦に向けての戦意高揚一辺倒のための
教育が行われていました。戦争協力・国威発揚のための国民総がかりの教育
が行われていました。
  七原恵史・林吉宏・新崎武彦共著『ぼくら国民学校一年生』(ケイ・ア
イ・メデア発行、2001)という本には、その当時国民学校で学んだ子ども
達が小学生だった頃の生活を思い出して、当時の小学校生活の様子・生活を
思い出して書いています。
  以下は、この本から当時の遊び部分を抜粋引用しています。「国民学
校」は昭和16年から20年までです。国民総動員して戦争体制に突入し、
広島、長崎の原爆によって終了するわけで、その間の戦意高揚一辺倒の学校
教育においては子供の遊びも、戦争ごっこ・ダイニッポン、コレヒドールな
ど、また戦争用語を用いた遊びが増えていることが分かります。

たんぽぽ】 たんぽぽの綿毛を口で吹いて飛ばしたりした。飛ばす時「落
下傘部隊だ!」と叫んだりした。
イナゴ捕り】 前日にイナゴを捕って、それを持って学校に行った。前日
に捕って一夜過ごさせないと糞があると言われた。学校では炊事室で全校分
蒸して筵で乾燥させた。都会の子供達に食料として送った。
のらくろ上等兵】 あの頃のマンガは「のらくろ」と「冒険ダン吉」であ
る。のらくろの顔がスットボケていて面白かった。
ハチタロウ】 毎日新聞社から「小国民新聞」が発行されていた。この新
聞のマンガに「ハチタロウ」が連載されていた。「のらくろ」とはまた違っ
た面白さがあって楽しみであった。
パカンとカチン玉】 厚めの、丸い紙に、飛行機、戦車、東郷元帥、乃木
大将などが印刷されたものをパカンとかケンパと呼んだ。それを地面に何枚
か置き、自分が手にしているパカンを投げつけて、相手のパカンをひっくり
返すか、相手のパカンの下をくぐらせるかすると自分のものになる。直径一
センチくらいのガラス玉はカチン玉と呼ばれた。地面にある相手のカチン玉
に、自分のを狙いをつけて投げつける。当たればカチンと音がする。相手の
カチン玉に当たれば貰える。ポケットにカチン玉をいっぱいにして歩く、そ
れが財産だった。
ダイニッポン】 二人で向かい合ってしゃがみ、まず「大日本」と書ける
三ますを地面に書き、ジャンケンをして勝った方が「大」の一画を書く。次
に勝てば二画めを書き、ジャンケンで勝った方が次々に一画ずつ書き入れて
いく。全部、早く書ければ勝ちとなる。
コレヒドール】 昭和十七年一月には日本軍はマニラを占領し、五月には
コレヒドール島を占領した。この日、朝礼で校長先生は、今やマッカーサー
が率いるアメリカ軍はほうほうの体で逃げた。アメリカ軍はコレヒドールか
ら「コレヒドイ、コレヒドイ」と言って逃げた。マッカーサーは「マッケー
サー、マッケーサー」と言って逃げたと話された。このギャグを大喜びで聞
いた。後にはアメリカのルーズベルト大統領やイギリスのチャーチル首相を
もじって「ルーズベルトのベルトが切れて、チャーチル散る散る、花が散
る、花が散る」などと歌って遊んだ。
影踏み】 学校の帰り道でよく影踏みをしたものだ。
【チャイム】 時刻にあわせて週番が「太鼓」を打った。時計は職員室に
あったが、普通教室にはなかった。週番は腹時計で授業中でも職員室へ時計
を見に行けた。数分ならばそこで待っていて太鼓を打った。かなり時間があ
るとまた教室へ戻ってきた。苦手な科目は「時計を見に行きます」といって
うまく逃れられた。
【かさころがし】 雨あがりの学校からの帰り道、傘を開いて横向きして車
輪に見立ててゴロゴロと転がした。傘の痛みが早くなると母に叱られた。
蝉捕り】 木に停まってる蝉を手で捕まえた。
【杉玉鉄砲】 紙鉄砲はよく作った。新聞紙やマンリョウの青い実を玉にし
た。杉の実が収まるくらいの細い竹を筒に切って、杉の実をつめ、押し出す
と先の杉玉が飛び出す。その頃、花粉症などはなかった。
釘刺し】地面にクギを投げつけてつきさす。刺さった所と起点とを線で結
ぶ。相手を封じ込めた方が勝ちとなる。
馬とび】 「乗り馬」と「蹴り馬」とがあった。遊びの詳細は本書を。
お祭り】 いろいろな店屋が並んだ。買ったおもちゃで印象に残っている
ものは、日光写真、ニッキ、はり絵、飛行機などがある。詳細は本書を。
校門】 運動場には防空壕がつくられた。食糧増産から畑にもなった。運
動場にカボチャ、サツマイモがつくられた。痩せている土地のため、毎日登
校する時に馬糞なら一個、牛糞なら二個持っていかなくてはいけなかった。
当時、道には牛や馬の糞が落ちていた。持ってきたかどうか、校門で週番に
チェックされた。校門を入るとすぐ側に、ルーズベルト、チャーチル、蒋介
石の似顔絵が板に書かれて杭に取りつけられ、杭に藁が巻いてあった。牛糞
や馬糞を置くと、その藁に三回ずつ突いてから教室に入った。冬はストーブ
もなく寒い教室だった。
すりばち】 運動場が畑になったので、それに代わる遊び場ができた。校
庭の東側にするばち状の穴が直径20メートル、深さ3メートルはあったろ
か。すりばちの斜面を走って廻るのである。斜面だからゆっくりしていられ
ない。ここでおっかけっこをして遊んだ。
コマ回し】 鋳物のコマを廻すことも流行した。
水泳・ヒツダ】 夏休みのある日、みなで泳いでいる時、伊藤君が田圃か
ら川に突き出している土管に腹を当て、ちょろちょろ流れてくる水を「あ
あ、ぬくといな」といって楽しんでいた。30分ぐらい経った頃、かれが
「わあっ」と言って叫んだ。彼の腹に「ヒル・蛭」がいっぱい食いついてい
るではないか。
バッジ】 帽子のあご紐の前後か後にバッジをつけることが流行した。ネ
ジで留めるものであった。錨、軍旗、ドクロなどのバッジが人気だった。


鈴木源輔『戦時国民教育の実践』(帝教書房、1943)を読むと、国民
学校当時の子ども達がどんな遊びが推奨され、どんな遊びが好ましくない、禁
止されていたか、が書かれています。
  この本の著者は、千葉県山武郡東金国民学校の校長です。当時、小学校
は戦意高揚一辺倒の軍国主義教育を行うために「国民学校」とよばれてい
た。鈴木源輔氏は、当時の日本では有名な「国民学校」の校長です。東金国
民学校は、当時<日本一の皇国民練成校>と称賛されていました。
  東金国民学校は独特の練成方式で<愛国訓練>とか<総動員体操>と
いったものを創案実践したり、<戦陣訓学習>や各教室に神棚を祀ってある
国民学校としても知られていました。国民学校となる以前から一日平均10
名もの参観者があったという学校です。
  校長・鈴木源輔『戦時国民教育の実践』の著書の中にこんな文章があり
ます。「子供の遊びの生活を皇国道に結びつけることが涵養である。子供の
遊びが皇国道に合致するならば、遊び以外の学校生活は、すでに皇国の道に
合致しているのであるから、子供の遊びの大部分が皇国道に合致することに
なる」と書いています。そして、こういう遊びは皇国の道に合致しており、
こういう方面に役立つから大いに遊ばせるべきだ。こういう遊びは皇国の道
に合致してないから除去すべきだ、遊びを止めさせるべきだ、と書いていま
す。(以下は、山中恒『撃チテシ止マム ボクラ少国民第三部』(辺境社、
1977)を参照して引用しています。)
☆皇国的と称する遊び
  神楽遊び、神輿遊び、お祭り遊び、国引き、鬼退治、桃太郎遊び、陣取
  り、軍艦遊び、国取り、騎馬戦、相撲、柔道、剣道、柔剣道、薙刀、模
  型飛行機大会、模型戦車競争
☆個人主義的自由主義的傾向が強いから、遊びの中にこれが入っては何
 にもならない遊び

  ガラス玉の取り合い遊び、面子とり遊び、賞品を目的とした個人競争、
  鬼ふやし遊び(鬼が人をつかまえて鬼にするのは、悪が善をつかまえて
  悪にするので非人道的である)、盗人ごっこ
中には時局的な遊びが学童に悪影響を及ぼすことがなきにしもあらず
 だから、遊びを善導して時局をより深く認識させることを考えなけれ
 ばならない遊び

  軍艦遊び、戦車競争、陣地占領競争、軍隊生活遊び、慰問ごっこ、担架
  競争、包帯巻競争、貯金遊び、大東亜戦占領双六、銃後奉仕遊び
☆学童を生産方面に向けて遊びの中に取り入れる遊び
  草刈競争、農作物品評会、一坪農業、俵作り競争、草履作り競争、籠作
  り競争
☆創造的な発見を養成する奨励すべき遊び  
  固形飛行機製作競争、発明展覧会、廃品利用展覧会、創作展覧会、知恵
  輪遊び、組立て遊び、算術遊び、理科遊び



      
昭和30年代の子どもの遊び 



田中哲男『昭和30年代の風景 東京慕情』(東京新聞出版局、2008)
読むと、昭和三十年代の子供の遊びがどんなであったか、当時子どもだった
人々があそんだ遊びの種類を次のように書いています。
  この本は 昭和30年代の東京地域の人々の生活風景を聞き取り調査で
まとめた本です。当時の写真もたっぷり掲載されており、わたしのような年
代の人には、思い出すこと多くあり、懐かしく読める本です。以下は、この
本の中から遊び部分だけを抜粋引用しています。

  昭和三十年代は、多くの家が借家か狭い平屋暮らしであった。戦後まも
なくのベビーブームで、原っぱや路地裏にはいつも遊ぶ子供の姿があり、食
事時ともなると、ちゃぶ台を囲んで目刺しや大根煮などを入り乱れて食べて
いた。
  菊池さんの家は会社の四軒社宅の一軒で、三部屋の和室があり、両親と
妹と四人で住んでいた。庭には砂場もあって、結構広かったという。家は高
台にあり、大通りまで砂利の坂道広場が下っていた。そこは母親達の井戸端
会議の場であり、子供達の遊び場でもあった。
  「ここで缶蹴りや、ダルマさんがころんだ、をよくやりました。坂の真
ん中に缶を置いて力いっぱい蹴ると坂道なので下の大通りまで転がって大変
でした。フラフープが、一時、ものすごく流行した時も、みんな坂道で夢中
になって遊びました。うちも母と妹と三人で朝早く伊勢丹に買いに行った覚
えがある。もう閉店前に行列ができていた」ただ輪っかを廻すだけの遊びだ
けなのに、なぜ日本中があんなに熱中したのだろうか。しかしフラフープは
腸がねじれるとか内臓に悪いとか風評が飛んで、ブームはあっという間に下
火になった。」
  菊池さんはそのころ、結構なお転婆で面倒見のいい子だったという。当
時は栄養失調のせいか”ハナたれ小僧”が多く、服の袖でふくので、いつも
テラテラ光っていた。
  家は掘りごたつの茶の間が団欒の間だった。父は新聞を読み、母は縫い
物をする。子供の洋服は母の手作りが多かった。ラジオから流れてくる歌は
「向こう三軒両隣」「金の鳴る丘」など。
  テレビを買ったのは昭和三十四年四月、皇太子(現天皇陛下)と正田美
智子さんの御成婚の時だった。この時に急激に普及して品薄になり、祝賀の
日に間に合うかどうか一家でハラハラした。見る位置も厳格に決まってお
り、正面に父と母、脇に妹と菊池さんが座った。「私と妹はいつも斜めから
夢中で見ていたので、いつの間にか左右の視力が違うガチャメになってし
まった。それでもせっせと見続けましたよ。」

  親に「子供は風の子だ。外で遊べ」と家からよく追い出されたものだ。
家にこもるのは、風邪で発熱した時や宿題を仕方なくやる時ぐらいだった。
いたずら坊主が風邪でシュンとしていると、いつもは口うるさい親がリンゴ
を食べさせてくれた。当時のリンゴは今と違って結構な贅沢品。それがやた
らおいしいのを覚えている。
  その頃は、まだ継ぎ当ての服もあり、時に袖はハナをふくので光ってい
る子もいた。丸刈りかぼっちゃん刈りで、なぜか顔が汚れていたが豊かな表
情があった。「塾通い」などもなく、たいがいの家は「少々頭が悪くても元
気ならいい」という時代だった。だからストレスも少なかっただろう。
  漫画家の北見けんじさんは「私の子供の頃はみんな外の広場や道端で遊
んでいた。なぜか野良犬が多かったなあ。遊びは多彩で、取るか取られるか
結構真剣勝負も多かった。だから他人の痛みや悔しさもわかった」と振り返
る。少年時代は、板橋の母の実家の小さな家から始まった。「当時は子供が
たくさんいて広場があれば誰かが野球をしていた。バットやグラブを持つの
は裕福な子で、たいがいは母親に縫ってもらった手作りの布グラブやボール
を使った。布が粗末だからすぐに破れ、ボールはシンがずれたりした」そん
な野球少年の中には勉強は苦手だが、すごいピッチャーなんかがいたもの
だ。
  遊びといえば、ベイゴマやメンコは今でも売られているが、二十年代や
三十年代初めはゲームではなく、真剣勝負だった。負ければ相手に取られて
しまう。だから誰もが必死で腕を磨いた。ベイゴマは、タライにござを敷い
た”床”から相手をはじき出す戦い。勝つために角を鋭角に削ったりした。
北見さんもよく改造した。「父が職人だったので金ヤスリがあって、それで
削ったり、溝にクレヨンを溶かし込んだりしたもんです。ブッツケという技
があって、相手のベイゴマに上から叩きつけてはじき出す。火花がパット
散って。もちろん自分のは中で廻っていて」
  各人は分捕り品のベイゴマをたくさん持ち、専用の小箱やブリキ缶を自
慢げに持ち歩いたりした。メンコの戦いも同じである。ひっくり返されない
ように裏にロウをたらし込み、角を微妙に折り曲げたりした。「弱い子はい
つも負けてべそをかいていた。親が怒って出てきたこともあった。うちは貧
乏だったのでメンコを買うお金がない。だから負けられない。勝負の時は大
きめの服を着て、袖の風を利用したりした。練習で勉強時間がなかった。」
  当時は遊びにも季節があって、冬は馬跳び(馬乗り)がはやった。ジャ
ンケンで負けた子が壁に立ち、その股に頭を突っ込み、次の子も同じ形で馬
を作る。勝ち組がそれに飛び乗る過激な遊びだ。「最初の子はできるだけ奥
へ跳び乗る。その後にみんなが次々跳び乗って、弱い子は重みに耐えきれず
に、つぶれてしまう。先生は、危ないからと禁止したけど、寒い冬はみんな
押しくら饅頭みたいにやりましたね。」

  女の子の遊び。「女の子も活発で馬跳びなんかもやったわ。弱そうな子
の上に集中して跳び乗ったりして。ゴム跳びにドッジボール、大縄跳び、近
くには竹やぶや林があって”秘密基地”なんかも作って。いつも体を使って
暗くなるまでワイワイ遊んだわね」
  おやつは竹皮にみそや梅干を包んだのを吸ったりした。夏は自転車のア
イスキャンデー売りも来た。チリンと鐘を鳴らして。

  その頃の砂町は、まだ田舎風景が広がり、幾つもの金魚池や溜池が残っ
ていた。子供たちはいつも群れて日暮れまで魚釣りをしたり、白墨でアス
ファルトに絵を描いて遊んだ。げた履きで、鼻水をたらし、洋服を泥だらけ
にして、その横を時おり棒ハンドルのオート三輪がバタバタと駆け抜けて
行った。

  田んぼが始ま季節がくると堀や用水をみんなでさらった。シジミやド
ジョウ、ナマズもいっぱいいた。近くの多摩川は子どもの遊び場で、メダカ
やタナゴを追いかけ、夏の夜はホタルが乱舞した。すべて消え去った懐かし
い風景である。

  戦争で中断した修学旅行が全国的に復活したのは昭和二十二年からであ
る。当時は食糧もろくにない時代。車両もお粗末で旅は混乱の連続だった。
昭和二十九年、中学生で京都に旅した日本旅行協会理事長の河上一雄さんは
回顧する。「ろくな座席もなく、客車の通路にござを敷いて、身を寄せ合っ
て行ったのを覚えています。食糧難でしたから、自分の食べるお米を手ぬぐ
いの袋に詰めて宿へ持っていったんですよ。初めて親元を離れて長旅に出る
というので隣近所から餞別をもらって、帰りに山ほどのお土産を買い込んだ
子もいました。名物の八つ橋とか」
  昭和三十年代に入ると修学旅行は隆盛期を迎え、初の専用列車「ひので
号」(関東)、「きぼう号」(関西)が登場する。三十年代、地方から東京
へ修学旅行に来る生徒の宿泊所は大半が文京区本郷の旅館だった。全盛期は
五、六十軒あって、一万人が泊まったという。その頃の定番は皇居前に国
会、東京タワー、羽田空港に上野動物園など。移動ははとバスだった。ガイ
ドさんがやたら美しく見え、憧れの手紙を送った方もいよう。

  そのころの月島は、町全体が遊び場だった。道端で隠れん坊やゴム跳び
に明け暮れ、そろばん塾の帰りにはもんじゃやコロッケを買い食いするのが
楽しみだった。町には紙芝居にシンコ細工、キセルを掃除するラジオ屋まで
やってきてその職人の手さばきに見とれたという。
  三丁目交番前に月島演舞場という小屋があって、旅回り一座がよく芝居
をしていた。沢潟さんは母に、連れられ、座布団を持っては見物に出かけ
た。「おしっこのにおいがする小屋だったけど、役者がきれいで、みんな夢
中になって見ていた。そのうち、芝居の花形役者にほれこんだある母親が家
を捨てて駆け落ちしたという噂が町に流れた。

  当時、紙芝居は全盛期、職のない人が日銭を求めて紙芝居屋を始めた。
東京では実に四千人にも上り、四つ角や寺の境内は、時には三人が「黄金
バット」を競演し、周りを子供たちが幾重にも囲んだという。「路地から路
地へ一日八ヶ所も回った。一ヶ所五十人くらい集まって五十銭のイモアメや
コンブなどが飛ぶように売れた。次の角から「おじさん、早く」と迎えが来
たりして、町には子供があふれ、いつもにぎやかで、瞳が輝き、貧しくても
人情味があった。だが、紙芝居はテレビが普及し、進学競争で塾通いが激化
し、町から消えていく。



昔の子どもの遊びの本としては、次のような書物が参考になる。
    山本駿次郎『明治のこども遊び』(国書刊行会、1990)
    清水・那須田編『すこし昔のこどもの遊び107選』
                 (ひくまの出版、1980)
     

           トップページへ戻る