音読授業を創る そのA面とB面と       2011・4・01記



   
「浸り読み」で言語感覚を育てる(1)



  本稿では、言語感覚を育てながら、文章表現のよさをたっぷりと漂い浸
りつつ音声表現し、繰り返して味わったり、暗誦したりする指導方法につい
て書きます。

          
★★言語感覚とは★★

  言語感覚とは何でしょうか。言語感覚には広義、狭義の両様で使われてい
るようです。新学習指導要領では「言語感覚」はどう使われているでしょう
か。
  平成22年度から実施される小学校学習指導要領には、国語科の目標に
「国語を適切に表現し正確に理解する能力を育成し、伝え合う力を高めると
ともに、思考力や想像力及び言語感覚を養い、国語に対する関心を深め、国
語を尊重する態度を育てる。」と書かれています。「言語感覚を養い」とい
う文言が含まれています。「言語感覚」という用語は、中学校国語科の目標
にも、高校国語科の目標にも書かれています。小学校には「言語感覚を養
い」、中学校には「言語感覚を豊かにし」、高校には「言語感覚を磨き」と
あり、学習指導要領の特徴的な記述である段階的階梯があることを示してい
ます。
  これら学習指導要領でいう「言語感覚」とはどんな内容をさしているの
でしょうか。小学校国語科目標でいえば、「言語感覚を養い」の文言は、前
段の「国語を適切に表現し」「正確に理解し」の二つを受けて書かれており、
これら「表現」と「理解」の二つの「能力を養い」、さらに「表現」と「理
解」による二つの相互伝達による「伝え合う力を高める」能力を育成すると
という文章連関になっています。これら「表現」と「理解」と「伝え合い」
の三つを通して「言語感覚を養う」という論理的連関の文章構造だと読みと
れます。
  言うまでもなく「表現」には「書く、話す」があり、「理解」には「読
む、聞く」があります。「伝え合う」には「聞く、話す」の話しコトバによ
る「伝え合い」と、「書く、読む」の文字コトバによる「伝え合い」とがあ
ります。今回の「伝え合う力を高める」は、PISA調査結果やグローバル化社
会における日本人のコメント力の弱さなどの指摘で新学習要領で強調されて
いると考えられます。
  新学習指導要領の国語科目標をこうした意味内容だとする私の解釈が正
しければ、新学習指導要領では「言語感覚」を広義な意味で使っていると言
えましょう。つまり「言語感覚」は「理解」と「表現」と「伝え合い」の指
導を通して「養う」ということになります。「理解」の指導を通して、「表
現」の指導を通して、「伝え合い」の指導を通して、「言語感覚を養う」と
いうことになります。つまり言語感覚とは総合的なコトバ表現(正誤、適否
、ニュアンスの違い、美醜)への鋭敏な感受性だと言えましょう。
  「表現の指導、理解の指導、伝え合いの指導」を通して総合的に「言語
感覚を養う」というとき、それぞれの指導内容にはどんなものがあるのでし
ょうか。それぞれには多くの個別の指導内容があります。下記に思いつくま
ま、ランダムに、少しばかりを列挙してみます。「言語感覚」を広義に
とれば下記のような言語能力はすべてが「言語感覚」に含まれると言えしょ
う。
書く
・出来事の順序をたどって書く。
・「…たり、…たり、…て、…て」のだらだら文で書かない。
・書く材料を集め、分かりやすく書く。
・事柄だけでなく会話文、情景描写文を入れて書く。
・段落を考え、段落と段落の続き方に気をつけて書く。
・表現意図にそった段落構成で簡潔に書く。
・伝えたいことの主題を鮮明にして書く。
読む
・場面、情景をありありとイメージしながら読む。
・人物に同化したり異化したりしつつ読む。
・事件や出来事に自分の考えを言う。感想意見を言う。
・要点を速く正しく読みとる。
・段落相互の関係を構造図に書き表す。
・目的をもった調べ読み、探し読みができる。
・事実資料と意見を読み分け、論運びがどうであるかを考えつつ読む。
話す
・順序を考えながら分かりやすく話す。
・文末まではっきりと話す。
・前置きことばを言ってから話す。
・要点を落とさないで話す。
・箇条書きで整理して話す。
・速さ、声量に気をつけて話す。
・相手の立場、気持ちを考えながら話す。
聞く
・途中で飽きないで終わりまでしっかり聞く。
・相手の話しの中心点、要点をつかみながら聞く。
・分からないことは相手に確かめる、質問をする。
・自分の考えをもち、評価的に積極的に聞きとる。
・メモをとったり、図解で整理したりしながら聞く。
・主張点のポイント、理由と根拠の関係を聞き分けつつ聞く。
・先入観や偏見をもたず、まず相手の話し内容を正確に聞きとる。
話し合う
・話の仲間に入り、自分の考えを話せる。
・自分ばかり話さず、相手の話しをよく聞く。
・親しみやすく、品位のある言葉で話し合う。
・協力的、生産的な態度で話し合う。
・資料、図表を提出しながら分かりやすくみんなに説明する。
・司会の仕方がわかる、話し合いがスムーズに進むように時々経過を要約し
 たり板書したりしながら話し合いを進める。

 これらのほか、主述のねじれ文で話さない、書かない。脈絡のないだらだ
ら文を話さない、書かない。短文で分かりやすく書いたり話したりする。接
続助詞を乱用してだらだら書き、話しをしない。修飾語を使って細部を鮮明
に言表して書いたり話したりする。指示語や接続語を適切に使って書いたり
話したりする。などの「言語事項」を適切に使う能力も「言語感覚」に含ま
れるでしょう。

        
★★「浸り読み」とは★★


  さて、わたしが本稿「ひたり読みで言語感覚を育てる」で主張したい言
語感覚は、これまで述べてきた広義の言語感覚ではなく(と書くと誤解が生
じるのだが、広義の言語感覚をも含めて、これらは下層に沈殿しており、時
には前景化もするのだが)、ここでは狭義の言語感覚のことを意味していま
す。つまり、文・文章への審美眼という言語感覚のことです。美醜感覚によ
ってコトバへの感受性や鋭敏性を育てる指導のことです。
  ある文章個所を読んで、「この文章部分はいいなあ、すばらしい表現だ
なあ、好きだなあ、ほれぼれする素敵な文章表現になっているなあ」と感じ
とる、こうした言語感覚のことです。固有な独特な美的印象を与える文章表
現に気づく能力・使おうとする能力、そういう言語感覚の養成のことです。
自分が素敵だと思った文章個所、好きだと思った文章個所、興味を持った文
章個所、おもしろいと思った文章個所を摘出する言語感覚を育てる指導のこ
とです。
  適切な言葉の選択、その組み合わせと配列の美しさ、言葉の言い回しの
素晴らしさに感動を抱けば、ひとりでに声に出して音声表現したくなるのは
当然でしょう。自分で選択した文章個所の素晴らしさを声で鮮明に浮かび上
がらせ、文章のかもしだすリズムの心地よさに浸り漂いながら情感たっぷり
に味わい楽しんで読む、そうした浸り読みをしたくなるのは当然でしょう。
  情調だけが浮かび漂い流れるごとくに気分よく表現よみする、これは一
回だけの音読で済むものではないでしょう。二回、三回、四回……と同一文
章個所を繰り返して声に出して味わい楽しみたくなるのは当然でしょう。自
分で声に出して耳に美しく響かせ、文章の素晴らしさをいい気分で読み味わ
い楽しむように学校教育でも指導していきたいものです。あるいは黙読しな
がら文字の流れを追ってアタマの中で音声を浮かべてイメージと情感を読み
味わい楽しむ指導もあってよいでしょう。
  こうして音声表現を繰り返しているうちに、いつのまにか暗誦してしま
うことにもなります。自分の好きな文章個所をいい気分で漂い読みしつつ、
「いつのまにか、ひとりでに」暗誦してしまっている、血肉化してしまって
いる、結果として暗誦してしまっている、こうした暗誦指導でありたいと思
います。昔の素読という読み方教育、つまり意味も分からずただ繰り返して
暗誦することだけを目的に音読させる指導はよくありません。暗誦を強要し、
苦痛を強いるだけの読み方教育は賛成できません。暗誦のための暗誦指導、
暗誦を強要させるだけの指導には賛成できません。
  わたしが本稿で提唱している「ひたり読みで言語感覚を育てる」は、暗
誦ができてもできなくてもよいのです。できたほうがよりいいが、できなく
てもいっこうにかまわないのです。暗誦が最終目的ではありません。「いい
文章だなあ、すてきな文章だなあ、優れた文章表現だなあ」と感じ入りつつ、
気分よく漂い浸る音声表現を繰り返して味わうことが大切なのです。そうし
てるうちに、子ども達はけっこう暗誦してしまっている児童が多くいるのも
現実です。教科書文は短いですし、子どもは声に出しての繰り返し読みを好
みますから、いつのまにか暗誦になってしまっています。
  いいなあ、好きだなあという文章個所に出会うと、だれしも声に出して心
ゆくばかりに読んでみたくなるものです。身体に響かせて浸り漂いつつ、い
い気分で場面と融け合い、語り手と一体化した境地になって声に出して読み
たくなるものです。読んでいる自分と、その読み声を聞いている自分と、主
客一如の鑑賞境地で,いい気分で読み浸りたくなるものです。全文章でなく、
自分で気にいった幾個所かの文章個所を見出す能力、こうして美的情操の言
語感覚を育て、文章内容を声に出して楽しむ能力を育てたいものです。
  こうした「浸り読み」の指導がこれまであまり主張されてこなかったよ
うに思います。音読指導にこんな方法も一つあってよいのではないかと思い、
ここに提唱しています。

       
★★小説の文章分析と浸り読み★★

 次に具体的な文章で考えてみましょう。
 とりあげる文章は、瀬戸内晴美『妻と女の間』(講談社、1974)の一部
分です。瀬戸内晴美とは、出家する前の瀬戸内寂聴の旧名です。この小説は
わたしが三十年ほど前に読んでいて、下記に引用した文章個所は「いいなあ、
素敵な文章表現だなあ」と感じ入って、その文章個所だけをコピーして、時
間を見つけては繰り返し浸り読みで表現よみを繰り返していた文章です。
  ここでお断りしておかなければなりません。名文とは何か。名文の客観
的な基準などありません。誰でもが一人残らず「これは名文だ」と絶賛する
文章などはありません。各人の主観的判断による価値づけでしかありません。
読み手の人生体験、性格、教養、思想、生育地の文化的背景、国柄、個人的
な趣味嗜好などによってみな違ってきます。個人的ずれは当然にあるのです。
同じ読み手でも年齢によっても違ってくることもあります。違ってきて当然
なのです。と言っても、かなりの共通性や普遍性も当然にあることも否定で
きません。
  この小説は前述したようにわたしが三十年ほど前に「いいなあ、素敵な
文章表現だなあ)と思ってコピーして浸り読みをしていた文章です。現在の
わたしの選択基準もほとんど変わっていません。

 ここでとりあげる文章個所を下記に引用します。

 湯船につかると、誰もいないと思った湯船のすみから、
「ああ、ああ」
と、ため息ともあくびともつかない声がもれた。湯気の中に、真っ白な髪の
老婆の顔がすけて見えた。下宿の角の質屋の向かいの煙草屋の老婆だった。
切手や、ちり紙や、洗剤などの日用品も並べてある店なので、よく顔をあわ
せる老婆だ。いつでも眠っているように背を丸め、店番をしている。
 老婆は入歯をがくがくいわせて大あくびの口をとじると、また、さも気持
よさそうに、
「ああ、ああ」
と、声をあげた。あたしが入っているのも気づかぬらしく、口の中で、
「やれ、よいしゅ」
と、つぶやくと、のろのろと湯の中に腰をあげ、盲が手さぐりで歩くように
両手を前に泳がせて、ゆっくり湯の中を進み、また、よいしょとかけ声をし
て、足掛け台によじ上り、湯からあがった。湯船をまたぐ時、あたしの目の
前で老婆の全身があらわになった。骨の上にだぶだぶの皮袋をかぶせたよう
な躯。黄ばんだ皮膚には褐色のしみが点々とちらばり、皺だらけの乳房がべ
ったりと垂れ下がり、下腹部は、わざわざ襞をよせたように畳みこんだ皺が
幾重にもかさなっている。まばらに、いっそない方がましなくらい不潔な感
じでしがみついている恥毛、むき出された女のいのち。まるで臓物の一部が
はみだしたようなきたならしさ。あたしは、吐き気のつきあげそうな嫌悪感
でその老婆の醜い裸を見つめた。
 これも、昔は女だった躯だろうか。おお、嫌だ。こんなになるまで生きて
なんかいたくない。こんな躯にも昔は肉がもりあがり、皮膚は湯をはじくほ
ど脂でそめり、男の手に撫でられたり、打たれたりしたものだろうか。あと、
何年たてば、あたしがああなるのか。老婆が出ていったあとで、あたしは浴
槽の外に出た。音を立てて湯から上がると、桜色に染まったあたしの全身か
らはみるみる湯がはじき散っていく。乳房だけはうす青いほど白く、脂肪が
みなぎり、そこだけは染め残されているのが、湯気にかすんでうるんだ灯を
あつめ、重い珠のように光っている。
 カランの並んだタイルの壁には、いっぱいに横長の鏡がはめこまれている。
あの老婆の裸を見た目には、そこに映るあたしの裸が、同じ人間の、同じ女
の肉体とは信じられないほど美しい。しみひとつないあたしの皮膚。ああ、
穢さないでよかった。あたしはしみじみ安堵して、あたしの躯を目で愛撫し
つづける。あんな男の、あんなみすぼらしい性器にふれさせないでよかった。
なぜああも危ない場所に自分を投げだす気になっていたのか。あたしはまた、
冷たい水をなみなみと手桶に受け、水ごりするように何杯もかぶった。躯が
しびれるほど、何杯も何杯もかぶりつづけた。
      瀬戸内晴美『妻と女の間』(講談社、1974)より引用

  では、わたし(荒木)なりの言語感覚による文章分析と「浸り読み」に
ついて書いていきます。

とりあげる文章個所1
 
湯船につかると、誰もいないと思った湯船のすみから、
「ああ、ああ」
と、ため息ともあくびともつかない声がもれた。湯気の中に、真っ白な髪の
老婆の顔がすけて見えた。下宿の角の質屋の向かいの煙草屋の老婆だった。
切手や、ちり紙や、洗剤などの日用品も並べてある店なので、よく顔をあわ
せる老婆だ。いつでも眠っているように背を丸め、店番をしている。

  「ため息ともあくびともつかない声」という表現、こまやかでいいです
ね。その声が「聞こえた」でもなく、「耳に入ってきた」でもなく、簡潔に
「もれた」という表現もいいですね。
  「湯気の中に」「すけて見え」という表現、的確な描写でいいですね。
  「いつでも眠っているように背を丸め」ている「老婆」、年老いた老婆
がちょこんと座って店番をしている、座している姿勢の特徴を的確に捉え簡
潔に表現している描写文、これまた素晴らしいですね。
  「切手や、ちり紙や、洗剤などの日用品も並べてある店なので、よく
顔をあわせる老婆だ」は、読点が三つありますが、これらで間をあけないで、
「切手」から「老婆だ」まで一気にひとまとめに余り強調せずに軽く読み進
めるとよいでしょう。「切手や、ちり紙や、洗剤などの」は「日用品」にひ
とまとめに係る連体修飾部です。「切手や、ちり紙や、洗剤などの日用品」
とひとつながりにして読みます。
  冒頭「湯船につかると、誰もいないと思った。湯船のすみから」と区切
って読んではいけないですね。「誰もいないと思った」は「湯船」に係る連
体修飾部です。「誰もいないと思った湯船」です。「思った」は連体形です。
終止形ではありません。連体形を終止形にして音声表現してはいけません。
  「いつでも」は、「いつでも背を丸め」「いつでも店番をしている」の
ように二つに係ります。(いつでも)(眠っているように背を丸め、)(店
番をしている)のように区切って読むとよいでしょう。

とりあげる文章個所2
 老婆は入歯をがくがくいわせて大あくびの口をとじると、また、さも気持
よさそうに、
「ああ、ああ」
と、声をあげた。あたしが入っているのも気づかぬらしく、口の中で、
「やれ、よいしゅ」
と、つぶやくと、のろのろと湯の中に腰をあげ、盲が手さぐりで歩くように
両手を前に泳がせて、ゆっくり湯の中を進み、また、よいしょとかけ声をし
て、足掛け台によじ上り、湯からあがった。

  会話文「ああ、ああ」が二個あります。前者は「ため息ともあくびとも
つかない声」です。後者は「さも気持よさそうに声をあげた」です。二つと
も、これら注記が要求してるように音声表現するとなると、とってもむずか
しいですね。音声表現力の差が出る会話文です。  
  老婆が「ゆっくり湯の中を進む様子」を「のろのろと湯の中に腰をあげ、
盲が手さぐりで歩くように両手を前に泳がせて」という表現、こまやかな観
察による簡明にして要領を得た描写文、これもいいですね。身障者への差別
用語「盲、めくら」が使われていますが、この小説は1974年発行で、当時は
差別用語という考えは日本社会には全くありませんでした。
  老婆の行動の順序が分かりやすく音声表現するには次のように区切ると
よいでしょう。
(老婆は入歯をがくがくいわせて大あくびの口をとじると、)(また、さも
気持よさそうに、「ああ、ああ」と、声をあげた。)(あたしが入っている
のも気づかぬらしく、)(口の中で、「やれ、よいしゅ」と、つぶやく
と、)(のろのろと湯の中に腰をあげ、)(盲が手さぐりで歩くように両手
を前に泳がせて、ゆっくり湯の中を進み、)(また、よいしょとかけ声をし
て、足掛け台によじ上り、)(湯からあがった。)

とりあげる文章個所3
 
 湯船をまたぐ時、あたしの目の前で老婆の全身があらわになった。骨の
上にだぶだぶの皮袋をかぶせたような躯。黄ばんだ皮膚には褐色のしみが
点々とちらばり、皺だらけの乳房がべったりと垂れ下がり、下腹部は、わざ
わざ襞をよせたように畳みこんだ皺が幾重にもかさなっている。まばらに、
いっそない方がましなくらい不潔な感じでしがみついている恥毛、むき出さ
れた女のいのち。まるで臓物の一部がはみだしたようなきたならしさ。あた
しは、吐き気のつきあげそうな嫌悪感でその老婆の醜い裸を見つめた。

  老婆と同浴している「あたし」が、老婆の躯をなめるように観察し克明
に描写している文章個所が続いています。わたし(荒木)は男ですから老躯
の女体を見る機会は全くなく、わたしは好奇心で大いに心を動かしてこれら
文章個所を読み進めることになります。が、期待は無残に裏切られ、残酷な
「吐き気のつきあげそうな嫌悪感、その老婆の醜い裸」に出会います。同時
に「「吐き気のつきあげそうな嫌悪感、その老婆の醜い裸」のすばらしい老
躯の文章描写文の一つ一つに出会い、鋭い観察力と的確な簡明な描写のしか
た、それらに感動させられてしまいます。
◎骨の上にだぶだぶの皮袋をかぶせたような躯。
◎黄ばんだ皮膚には褐色のしみが点々とちらばり、
◎皺だらけの乳房がべったりと垂れ下がり、
◎下腹部は、わざわざ襞をよせたように畳みこんだ皺が幾重にもかさなって
 いる。
◎まばらに、いっそない方がましなくらい不潔な感じでしがみついている恥
 毛、
◎むき出された女のいのち。まるで臓物の一部がはみだしたようなきたなら
 しさ。
  老女が老醜女へ、げろの吐きそうな鬼気せまる老醜女へと仕立て上げら
れていく粘液質の観察力の鋭い描写文のすばらしさに感動させられます。
「いいなあ、すばらしい表現力だなあ」と感動しつつここを読み進めていく
ことになります。
 ここの文章個所の音声表現で注意すべき部分は、「まばらに」は「しがみ
ついている恥毛」まで係る勢いを消さないで読み進めるようにします。「い
っそ」は「ない方がましなくらい」に係るように読みます。(まばらに)
(いっそない方がましなくらい)(不潔な感じでしがみついている恥毛)の
ように区切って読むとよいでしょう。(まばらに、いっそない方が)(まし
なくらい)(不潔な感じでしがみついている恥毛)ではありません。

とりあげる文章個所4
 これも、昔は女だった躯だろうか。おお、嫌だ。こんなになるまで生きて
なんかいたくない。こんな躯にも昔は肉がもりあがり、皮膚は湯をはじくほ
ど脂でそめり、男の手に撫でられたり、打たれたりしたものだろうか。あと、
何年たてば、あたしがああなるのか。老婆が出ていったあとで、あたしは浴
槽の外に出た。音を立てて湯から上がると、桜色に染まったあたしの全身か
らはみるみる湯がはじき散っていく。乳房だけはうす青いほど白く、脂肪が
みなぎり、そこだけは染め残されているのが、湯気にかすんでうるんだ灯を
あつめ、重い珠のように光っている。

  語り手はこの段落の冒頭で「これも、昔は女だった躯だろうか。おお、
嫌だ」と書いて、読者を一人称の視点人物「あたし」の目と気持ちの中へ強
引に引きずり込んでしまいます。「これも、昔は」から「あと、何年たてば、
あたしがああなるのか」まで、読み手は「あたし」の気持ちにぴったりと入
り込ませられて一人語り(ひとり言)として音声表現していくことになりま
す。アタマの中だけの心内語としての声にして音声表現していくとよいでし
ょう。
  つづく文章には、「あたし」が自分のあふれんばかりの艶麗な色香と容
姿の女体にうっとりと酔いしれてひとり楽しみ自己満足している描写表現が
つづきます。この文章個所には、色と音と光彩を表す語句があり、この三つ
が表現効果を高めています。色では「桜色に染まった」「うす青いほど白
く」があります。音と光彩では「音を立てて」「はじき散っていく」「脂肪
がみなぎり」「湯気でかすんだ灯をあつめ、重い珠のように光っている」が
あります。これら色と音と光彩が織りなすコントラストの描写がいっそう自
尊心に満ち、自信過剰になっている「あたし」の体躯の美しさを、老婆のそ
れと対比的に美麗に浮かび上がらせています。音声表現する時、これら色・
音・光彩を表す語句個所は明るく晴れやかな声立てでやや強調して音声化す
るとよいでしょう。

とりあげる文章個所5
 
カランの並んだタイルの壁には、いっぱいに横長の鏡がはめこまれている。
あの老婆の裸を見た目には、そこに映るあたしの裸が、同じ人間の、同じ女
の肉体とは信じられないほど美しい。しみひとつないあたしの皮膚。ああ、
穢さないでよかった。あたしはしみじみ安堵して、あたしの躯を目で愛撫し
つづける。あんな男の、あんなみすぼらしい性器にふれさせないでよかった。
なぜああも危ない場所に自分を投げだす気になっていたのか。あたしはまた、
冷たい水をなみなみと手桶に受け、水ごりするように何杯もかぶった。躯が
しびれるほど、何杯も何杯もかぶりつづけた。
      瀬戸内晴美『妻と女の間』(講談社、1974)より引用

 「カラン」とは「蛇口」のことです。ここの段落個所は、わたし(荒木)
には「浸り読み」をしたくない文章場面です。「浸り読み」するに気がすす
まない文章個所です。その理由を書きましょう。

  同じ小説『妻と女の間』の他の個所にも、これと同様な文章場面があり
ます。

 下宿へ帰りつくなり、銭湯へ行った。もうしまい湯で、番台は眠そうな、
いやな顔をしたが、あたしはかまわず、さっさと服をぬいでしまった。
 湯気のこもったひろい洗い場は、もう四、五人の人影しかなかった。
 冷水をたてつづけに四、五杯、手桶でかぶると、ようやく、ほっとした。
次に水に打たれて全身が燃えるように熱くなった。
 そのあと躯じゅうにしゃぼんの泡をわきたたせて、隈なく洗った。二回洗
った。男の臭いや、男の髪や、指や、掌の感触が、それですっかり洗い流さ
れたような気分になった。
        瀬戸内晴美『妻と女の間』(講談社、1974)より引用

  わたしは、この小説『妻と女の間』を読む以前に、丹羽文雄『命なりけ
り』を読んでいました。この小説にも同様な文章場面がありました。

 鳥居は、まもなくいびきをかきはじめた。鈴鹿は、床を出た。風呂場には
いった。女中が、すでに湯船の湯を落としていた。上がり湯の栓をひねると、
湯が出た。
 石鹸をつけて、肌をこすった。あとが赤くなるほど、つよくこすった。二
の腕に、あざが出来ていた。しらべると、あざはほかにもあった。胸のあざ
を消そうと、マッサージをしながら、鈴鹿はぽろぽろと泣いた。いきなり涙
が出た。胸をしめつけられるように悲しくなったから涙が出たのではなかっ
た。腕のあざと、涙がうまく結びつかなかったが、涙のあとから、胸がしめ
つけられるように悲しくなった。雁亭の庭先の抱擁は、あとかたもなかった。
それが残るわけにはいかないほど、鈴鹿の肉体は荒らされた。そして、鳥居
に嗤われた。自分自身も、おのれの肉体を嗤ってやりたいのだった。二度と、
こんな思いはしたくなかった。
       丹羽文雄『命なりけり』(河出書房、1967)より引用


  わたしは、丹羽文雄『命なりけり』を読んだ直後に、偶然にも瀬戸内晴
美『妻と女の間』を読んだのでした。丹羽文雄『命なりけり』のこの文章場
面が、わたしにはかなり印象に残っており、瀬戸内晴美『妻と女の間』を読
み進めていて同様な文章場面が二回も出現し、おやまたか、おやまたか、と
思ったしだいです。
  親密に交際していた、いま別れたばかり(別れようとしている)男性
(でなく男ですか)との関係を断ち切り、過去一切を捨て去り、男性(でな
く男ですか)との関係を空無とするために、女性(でなく女ですか)がする
お決まりの行動、冷たい水で水ごりするように何杯もかぶったり、しゃぼん
の泡をわきたたせて隈なく躯を洗ったり、胸のあざを消そうと石鹸で洗いな
がらぽろぽろと涙を流したり。またか、またか、と思ったしだいです。
  わたしはこうした文章場面がほかの作家たちの小説にもあるのかどうか
知りません。こうした場面がほかにもあって繰り返されているなら、こうし
た文章表現は、どこにでもある常套場面の常套描写となってしまうでしょう。
ありふれた、陳腐な、月並みな表現となってしまうと考えたのでした。これ
では優れた文章表現とは言えなくなってしまいます。


              次へつづく