暗誦教育史の素描(15)       08・06・22記 

       

  
    
素読による暗誦教育の功罪




  本稿では、「漢籍の素読・暗誦の教育」「明治期における教科書(教材
文)の素読と暗誦の教育」ならびに「教育勅語の素読・暗誦の教育」につい
ての功と罪について書きます。「功と罪」の「功」とはメリットのこと、
「罪」とはデメリットのことと理解して書き進めます。また、平成になって
から素読や暗唱についての教育論議がありましたが、これらについては本稿
が長文になっていますので、他日に別稿で書くことにします。ここでは主と
して明治・大正・昭和初期の素読・暗誦の教育の功罪にしぼって書くことに
します。
   自伝・自叙伝の中には、素読のメリットとデメリットについて自己の
体験を語っている文章個所が幾つか見られます。それらを下記に抜き出して
います。これらの文章には「体験者は語る」という実体験の生々しい「素読
・暗唱についてのメリット、デメリット」の声も語られています。
  かれらの素読体験を読むと、多くが、全員と言ってよいほどに、素読を
受けていた子どもだった頃「素読・暗誦」が好きではなかった、喜んで素読
学習を受けていなかった、嫌いであった、いやでいやで仕方がなかった、苦
痛であった、逃れたかった、という声が語られていることに気づきます。素
読・暗誦が好きだった、という声は殆んど聞こえてきません。
  なお、湯川秀樹さんと谷崎潤一郎さんのご見解については、別稿で詳述
していますので、そちらも合わせてお読みいただければありがたいです。

  はじめに「罪」・「デメリット」から書き始めていくことにします。



   
「漢籍の素読・暗誦」のデメリット


渋沢栄一の自伝から
 
  其の当時は一般に百姓や町人には、学問などは必要がないとせられて
おったにも拘らず、父晩香は、今日の世に立つにはどうしても相当の学問が
なければならぬというので、六歳の頃から父は私に三字経の素読を教えら
れ、大学から中庸を読み、論語まで習ったが、八歳頃から従兄に当たる手計
村の尾高惇忠氏に師事して修学した。維新前の教育は、何れも主として漢籍
によったもので、江戸表などでは初めに蒙求とか文章物を教えたりしたやう
に聞き及ぶが、私の郷里などでは、初めに千字文三字経の如きものを読ま
せ、それが済んだ処で四書五経に移り、文章物は其後になってから漸く教え
たもので、文章軌範とか、唐宋八大文の如きものを読み、歴史物の国史略、
十八史略、又は史記列伝の如きものを此間に学び、文選でも読めるまでにな
れば、それで一通りの教育を受けた事にせられたものである。
   私の師匠である尾高惇忠の句読の方法は他の師匠と多少趣を異にして
居り、初学の中は、一字一句を暗記させるよりは寧ろ沢山の書物を通読させ
て自然と力をつけ、此処は斯ういふ意味、此処は斯ういふ義理であるといふ
風に、自身で考えが生ずるに任せるという遣り方であったから、尾高に師事
してから四、五年の間は、殆んど読むことだけを専門にする有様であった
が、十一、二歳の頃になって朧気ながら其の意味が分かるやうになったの
で、初めて幾らか書物を読む事が面白くなって来た。尤も年少のことである
から堅い書物は能く理解できなかったので、通俗三国志とか、里見八犬伝と
か、俊寛物語といふやうな誰が読んでも面白いやうなものを好んで読んだの
であるが、或る日、師匠に此の事を話して其の意見を聞いて見ると、『読書
に働きをつけるには、読み易いものから入るのが一番よい。どうせ四書五経
のやうな難しいものを読んでも、之れを本当に自分のものとして活用するに
は、相当な年配になって世間の物事を理解する様にならなければ駄目である
から、今の中は面白いと思うものから読むのがよい。唯、漫然と読んだだけ
では何にもならぬから、心をとめて読む様にするがよい。さうすれば知らず
識らずの間に読書力がついて、外史のやうなものも読めるやうになり、十八
史略や、史記や、其他の漢籍も段々面白くなるものだ。』
と教えられたので、之からは殊更好んで稗史軍書のやうなものを読むやうに
なった。其の好きであった証拠には、私が丁度十二歳の正月のこと、年始の
回礼に赴いた際、好きな書物を懐中に忍ばせて家を出て、途中之れを読みな
がら歩いていたが、本の方に気を取られて足元に注意しなかった為め、不覚
千万にも溝の中へ落ちて春着の衣装を台なしにして仕舞ひ、母親のため非常
に叱られた事もあった。    
                  渋沢栄一『渋沢栄一自叙伝』(大空社、19989)より

【荒木のコメント】
  学問とは漢籍の素読をすることだ、という当時の一般的な考え方があっ
たことが分かります。「私の師匠である尾高惇忠の句読の方法は他の師匠と
多少趣を異にして居り」と書いています。漢籍の句読の方法にはいろいろ
あったようで、これについて辻本正史は次のようの書いています。
 「漢籍のテキストは、民間書肆から和訓の点が付されて出版されることが
多かった。たとえば林羅山の道春点、山崎闇斎の嘉点、貝原益軒の貝原点、
後藤芝山の後藤点、佐藤一斉の一斉点など、読み下すための返り点や送りが
なの訓点が、経書に付されて出版されたのである。」  辻本正史・沖山行
司『教育社会学』(山川出版社、2002)より
  渋沢の師匠・尾高惇忠の言葉「どうせ四書五経のやうな難しいものを読
んでも、之れを本当に自分のものとして活用するには、相当な年配になって
世間の物事を理解する様にならなければ駄目であるから、今の中は面白いと
思うものから読むのがよい。唯、漫然と読んだだけでは何にもならぬから、
心をとめて読む様にするがよい。さうすれば知らず識らずの間に読書力がつ
いて、外史のやうなものも読めるやうになり、十八史略や、史記や、其他の
漢籍も段々面白くなるものだ。」というご見解に注目したい。
  相当な年齢になってから、暗唱した中の、ごく僅かの文章部分や語句で
しかないと思われますが、成人になってからふと記憶が想起されて、子供の
ときに習ったあれがこれだと深くストンと納得することがあると語っていま
す。つまり漢籍は即効速戦的な実利実用に役立つという知識ではない、と裏
では語っていることになるでしょう。
  読書入門としての書物は、興味関心のある面白い読み物から読み始めよ
う、という師匠の指導助言は、漢籍教授をしている漢学者から出た正直な言
葉として注目に価します。「意味内容はどうでもよく、声高く、繰り返し読
みあげれば、いつかは役に立つことがある、暗誦するまで漢籍の素読を繰り
返せ」と強要してない漢学者もいたんですね。

  
福澤諭吉の著書から
   学問とは,唯むずかしき字を知り,解し難き古文を読み,和歌を楽
み,詩を作るなど,世上に実のなき文学を云うにあらず。これ等の文学も自
から人の心を悦ばしめ,随分調法なる者なれども,古来世間の儒者,和学者
などの申すよう,さまであがめ貴むべき者にあらず。古来漢学者に世帯持の
上手なる者も少く,和歌をよくして商売に巧者なる町人も稀なり。これがた
め心ある町人百姓は,その子の学問に出精するを見て,やがて身代を持崩す
ならんとて,親心に心配する者あり。無理ならぬことなり。畢竟その学問の
実に遠くして,日用の間に合わぬ証拠なり。されば今斯る実なき学問は先ず
次にし,専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。譬えば,イロハ四十
七文字を習い,手紙の文言,帳合の仕方,算盤の稽古,天秤の取扱等を心
得,尚又進て学ぶべき箇条は甚多し。地理学とは日本国中は勿論,世界万国
の風土道案内なり。究理学とは天地万物の性質を見て,その働を知る学問な
り。歴史とは年代記のくわしき者にて,万国古今の有様を詮索する書物な
り。経済学とは一身一家の世帯より天下の世帯を説きたる者なり。修身学と
は身の行を修め,人に交り,この世を渡るべき天然の道理を述たる者なり。
是等の学問をするに,何れも西洋の飜訳書を取調べ,大抵の事は日本の仮名
にて用を便じ,或は年少にして文才ある者へは横文字をも読ませ,一科一学
も実事を押え,その事に就き,その物に従い,近く物事の道理を求て今日の
用を達すべきなり。右は人間普通の実学にて,人たる者は貴賤上下の区別な
く皆悉くたしなむべき心得なれば,この心得ありて後に士農工商各その分を
尽し銘々の家業を営み,身も独立し,家も独立し,天下国家も独立すべきな
り。            福澤諭吉『学問のすすめ』(講談社,2006)

【荒木のコメント】
  ここで福澤諭吉は、徹底した実利実用主義を主張しています。「古来漢
学者に世帯持の上手なる者も少く,和歌をよくして商売に巧者なる町人も稀
なり。」と書き、「子の学問に出精するを見て,やがて身代を持崩すならん
とて,親心に心配する者あり」とまで書いています。「畢竟その学問の実に
遠くして,日用の間に合わぬ証拠なり」と、漢学者、和学者をたいへんに軽
蔑し嫌悪しています。漢学者、和学者をたいへんに馬鹿にし、見下げ、侮蔑
の言葉を与えています。子どもに与える教育内容は日常生活にすぐに役立つ
知識、技術、技能の教育をすべきだと声を大きくして主張しています。


坪内逍遥の自伝から
 
 父は私を名古屋市山下新道町の柳沢という手習い師匠の下へ入門させる
ため連れて行った。其の束脩が金五十疋だった。まだ其時分には、父の頭
に、丁度小さい赤蜻蛉ほどのチョン髷が乗っかっており、たしか、私は、紫
の紐で髪を茶煎に結んでいたかと思う。が、大小は、正月の年始の外は──
いや、年始にさへも、──もう差さなかったやうに思ふ。これが、ともかく
も正式に師匠を取って、教育を受け始めた時であった。(中略)
   私が受けた漢籍の教育は、十二分の厭気と怯え気とを以て、屠所の
羊の如く見台の前へ引き出され「節タル彼ノ南山、維レ石厳々」だのと審判
官が声で宣告されるのだから、初めから耳ががんがんして、心そこに在らざ
れば見れども記(おぼ)えられず、聴けどもすぐ忘れっちまふ。記えない
と、審判官は手に持っている尺何寸もある竹の字突き棒で、見台の端をぴし
りっ!
 其のたびに小羊の左右の腕は覚えず肩ぐるみぴくっとする。さ!「子曰ク
然ラズシテ罪ヲ天ニ獲レバ祷ル所ナキナリ」さ、もう一度! 何度繰り返し
て読まされたからッて、──とうに問答は済んでいるのらしいけれど──そ
れが何の謂ひだか、到底呑み込めよう筈が無かった。(中略)
   明治初年頃には、教育制度の不備な時代であったから、都会でも寺子
屋組織は弛廃し、さうして新教育制度はまだ成立たないという時代であっ
た。尾張が藩でなくなって、名古屋県が新学令によって、先ず旧藩の明倫堂
といふ皇漢学本位、撃剣本位の中等教育機関を廃して、寺院や旧学館等を仮
に小学校に当てて、新時代の教育に着手したのは、明治四年七月以後のこと
であったからでる。
   それが出来るまでの初等教育機関は、不備を極めた旧寺小屋の残骸の
外にはなかった。さうして私の入門した柳沢といふ寺子屋は、恰も其一標本
とも見られるものであった。先代は大分評判のよかった師匠であったとか
だったが、当主は、其頃三十四五の、背の低い、其割に頭の大きい、けれど
も、顎の方で急に小さく細った顔の、どういふ威厳もない風采の男であっ
た。四インチ強のチョン髷は歴々と目に残っているが、月代は細く刷り上げ
られていたやら、総髪であったやら、おぼえていない。彼は、行燈袴を穿い
て、日がな一日、たかが三四坪の中坪を左手に見た六畳か八畳の一間の床を
後に、本箱を左右に、又後に、机と見台とを前に控えて、引ッ切りなく手本
を書く、其読みを教える、清書を直す、漢学を教える。それが其日課であっ
た。漢学といっても「孝経」に四書、五経の一部、多分「十八史略」「日本
外史」なぞが関の山であったろう。が、後の二つを習っている者を見たこと
が無かった。私は行書や楷書を習うのと四書の復習と五経の素読を目的に入
門したのであった。
       坪内雄蔵『逍遥選集 第十二巻』(第一書房、昭52)より

【荒木のコメント】
  坪内逍遥にとって漢籍の勉強は「私が受けた漢籍の教育は、十二分の厭
気と怯え気とを以て、屠所の羊の如く見台の前へ引き出され「節タル彼ノ南
山、維レ石厳々」だのと審判官が声で宣告されるのだから、初めから耳がが
んがんして、心そこに在らざれば見れども記(おぼ)えられず、聴けどもす
ぐ忘れっちまふ。記えないと、審判官は手に持っている尺何寸もある竹の字
突き棒で、見台の端をぴしりっ!
 其のたびに小羊の左右の腕は覚えず肩ぐるみぴくっとする。さ!「子曰ク
然ラズシテ罪ヲ天ニ獲レバ祷ル所ナキナリ」さ、もう一度! 何度繰り返し
て読まされたからッて、──とうに問答は済んでいるのらしいけれど──そ
れが何の謂ひだか、到底呑み込めよう筈が無かった」と書いています。坪内
逍遥にとって漢籍の勉強は、恐怖そのもので、生理的感情的嫌悪をもよおす
対象でしかなかったようです。


片山潜の自伝から
  <荒木注、片山潜は七歳(元治元年・1864)の頃から村の神官に手習
い、ついで住職、儒者から漢文の素読を学ぶ。以下は彼が十一歳の時に受け
た素読の様子を語っている文章部分である。>
 
  予はやや成長してから曽祖父の昔話の外、本を読むことを教わった。
どんな本であるかというと当時民間に用いられた唯一の教科書は読書習字両
用のものでしかも僅々数種に限られていた。予の読んだ本は『名頭』『国
尽』『庭訓往来』『商売往来』であった。しこうして『名頭』は普通平民の
名前の頭文字を集めたもの、『国尽』は五畿八道の国々を順序を立てて書い
てある。『庭訓往来』および『商売往来』はその名の示す如く家庭に関する
教え、および商売上に必要なる心得を書いたもので、いずれも皆きわめて平
易にしてしかも実際的のものである。
  もとよりこれ等の本を教わった予はただ口続きで素読を暗誦しただけに
て、いかに平易でも子供には字句の意味が分からないからちょっと覚えても
直ぐ忘れてしまった。故になんべんも一つ本を教わったのを覚えている。し
かもその文字は御家流というてよほど略したる草書の写本になっていたから
なお分からなかった。(中略)   
   寺では手習いの外に「孝経」の素読を教わった。子供の時、予は妙な
癖があった。それは本を教えてもらうと、一、二度でチャンと読めるように
覚える。然るに自分の机の上に持ってきて読んでみると、一つもも読めな
い。何がなんであったかみな忘れてしまう。十四、五まではかようなふうで
あったから一年以上も寺にいたけれども、『孝経』が上がらなかった。みな
かく忘れるかというと中々そうでない。人のする話などは一度聞くと、決し
て忘れない。栄助から聞いた話はみな覚えている。ただ素読を習うとちょっ
とも意味がわからぬから、ホンの一瞬間だけ覚えているが、直きに忘れる。
この忘れるという一事が予をして子供の時に学問を嫌がらしめた最大原因で
ある。今でもわからない本を読むとかまたはクダラない演説など聞くとじき
眠くなってしまう。(中略)
  大村先生は津山藩の儒者で箕作などと同じく聖堂出身の漢学者であっ
た。予は大村先生に『中庸』からはじめて四書を教わったが、ただ習っただ
けでちょっとも覚えては居ない。家に帰って復習したことはない。また復習
することが出来なかったのである。素読の外に大村先生は『十八史略』と
『外史』の講義をしていた。我々生徒は皆これを謹聴させられた。さらに読
んだことのないまた読む力もないむつかしい本の講義を、二時間くらいも正
座をして聞くのであるから、足が痛くて困りまた時には居眠りをして老僧に
叱られた。かく毎日教育を受けるというよりも、むしろ苦しめられていたの
である。しかし、昔の教育は大概かような不自然なものが多かった。しかれ
ども、後年に至ってこれらの書物を一人で読む時に、ハハア大村先生のいっ
たのはここだったな!と思うことがあった。大村先生は温厚篤実にして立派
な人品であった。非常に潔癖で、講義をしながらも耳をホセッタリ爪の垢を
灰吹きの中に入れる。そして先生の講義のしぶりはきわめて静粛であって、
その音声は爽快なる美音で一つの音楽を聞くようであった。(中略)
  『大学』だの『論語』の素読を教わって、これを永く覚えていることは
出来ない。すぐに跡形のなく忘れてしまう。……ただ無意味なる素読を機械
的に記憶していることはどうしても出来なかった。……予は子供の時漢学の
ごとき意味の解せない素読はちょっと覚えてもじき忘れたが普通の事柄は容
易く理解もなし、またこれをよく記憶した。人が語る話などは一度聞いたら
決して忘れない。   片山潜『自伝』(日本人の自伝8、平凡社、1981)

【荒木のコメント】
  片山潜氏は、日常会話で話し合ったことは決して忘れないが、ただ口続
きで素読を暗誦しただけにて、いかに平易でも子供には字句の意味が分から
ないからちょっと覚えても直ぐ忘れてしまった。故になんべんも一つ本を教
わったのを覚えている。……これが子供の時に学問を嫌がらしめた最大原因
である」と書いています。「口続きで素読を暗誦する」は「これが子供の時
に学問を嫌がらしめた最大原因である」と書いていることに注目したい。


鳩山春子の自伝から
   私はある日の曝書(むしぼし)に、四書や五経をちらと見まして、こ
んな本を読んでみたいと云う気がきざしたものですから、ちょっとそのよう
なことを母に申しました。祖母だの母だのは兄の教育に非常に工夫を凝らし
て色々と骨折った経験もありましたから、それならばさせてあげましょうと
云うので、近所の漢学の先生に通わせてくれたのです。
   一軒では少しずつほか教えられぬので論語や孟子は別々の所を一日に
三軒も廻って稽古したように覚えています。私は非常に凝り屋でありまし
て、何か一つのことをするとそれに熱中します。それですから一軒の先生に
教わる位では満足できぬからそれからそれへと廻ったような訳でありまし
た。この時分(明治五六年ごろ)には随分書物を教える人が沢山御座いまし
た。それで一方には習字を始め、これも矢張りそれらの人に見て貰うといっ
たわけでありました。
   私は学校入学前に漢学の先生の所へ参りましたので初学の人より勿論
よく出来ました。それで論語や孟子の素読は暗誦するように覚えておりまし
たが詩経や書経はむずかしくて覚えにくいように思いました。(中略)
   武士の家庭では女に遊芸等はさせないのでしたから、音楽のような思
想はちっともなかったのです。都の兄が帰省しますとその時は、色々と詩吟
を教えてくれまして私は男子と同じように高声で詩吟する癖があり、これを
楽しみにしていたもので、姉と一緒によく吟じたのを覚えています。勿論意
味は分からず、唯それなりに唐詩選などを引張り回していたのです。
   私共は、かような有様で唯勉強ばかり分からぬなりに一生懸命にした
のにすぎません。論語、孟子、詩経など未だ乳飲み子に分かる道理はない
じゃありませんか。けれどもこんなものを非常に熱心に読んで、殆んど暗誦
せんばかりによく繰り返したものです。
  母は余り監督がましいことは申しませんでした。唯褒めるだけで、常に
褒めてくれたものですから、朝未だ暗いうちに起床し、朝飯前に漢文の先生
の所に参り、門の開くのを待って居りました。その中に男児の人々が大勢参
ります。女といえば私がたったひとりでありましたが、少しもそんなことは
怪しみません。みな到着順に教えてくださるので、私は第一番に教えて貰い
ました。   鳩山春子「自叙伝」(日本人の自伝、平凡社、1981)より

【荒木のコメント】
  鳩山春子さんは良家の子女で、(鳩山春子さんは信州松本、松本藩士渡
辺幸右衛門、賢子の五女として文久元年・1861年に生まれる)何事にも興味
関心を示した好奇心旺盛なお子様だったようで、やりたいことは何でもやら
せて貰えたようです。鳩山春子さんの文章を読むと、やはり男子とはちょっ
と違う対し方、態度があります。「武士の家庭では女に遊芸等はさせないの
でしたから」と書いてありますが、花嫁修業のお稽古事をあれこれやってい
るような、気らくに楽しんで漢籍の素読や暗誦や詩吟に励んでいた様子がう
かがえます。朝飯前に漢籍の先生に通った(現代でさえ朝飯前に学習塾へ通
うなどはないでしょう)、一軒の漢籍の先生では満足できず、一日の中で
次々と教室(漢学塾)を渡り歩いて勉強したなどは特別な例かもしれません
し、これが当時の普通の通塾の様子だったとは考えられませんが、もしかし
たらこれが普通だったのかもしれません。もう少し調べる必要があります。
  「論語、孟子、詩経など未だ乳飲み子に分かる道理はないじゃありませ
んか。けれどもこんなものを非常に熱心に読んで、殆んど暗誦せんばかりに
よく繰り返したものです。」と書いてあります。漢籍は意味内容はわからな
くてもリズムがあって、舌で転がしてリズムを楽しむにはとても面白く接し
られる文章です。現代の子どもが「じゅげむ、じゅげむ、ごこうのすりき
れ」と、意味は分からずに音声の連なりのリズムと、語呂よい音声の響きを
楽しんで暗誦してしまっているみたいに、ことば遊びとして漢籍の素読・暗
誦を楽しんでいたことが分かります。


●幸田露伴の自伝から●
 
 手習いの傍、徒士町の会田といふ漢学の先生に就いて素読を習ひました。
一番初めは孝経で、それは七歳の年でした。元来其の頃は非常に何かが厳重
で、何でも復習を了らないうちは一寸も遊ばせないといふ家の掟でしたから、
毎日〃〃朝暗いうちに起きて、蝋燭を小さな本箱兼見台といったやうな箱の
上に立てて、大声を揚げて復読をして仕舞ひました。さうすれば先生のとこ
ろから帰って来て後は直ぐ遊ぶことが出来るのですから、家の人達のまだ寝
ているのも何も構うことは無しに、聞こえよがしに復読しました。随分迷惑
でしたさうですが、然し止せといふことも出来ないので、御母様も堪えて黙
って居らしつたさうです。此復読をすることは小学校へ往くやうになってか
らも相変らず八釜敷いふて遣らされました。
  併しそれも唯机に対つて声さへ立てて居ればよいので、毎日のことゆえ、
文句も口癖に覚えて悉皆暗誦して仕舞つて居るものですから、本は初めの方
を二枚か三枚開いたのみで後は少しも眼を書物に注がず、口から出任せに家
の人に聞こえよがしに声高らかに朗々と読んで居るのです。そして誰も見て
居ないと豆鉄砲などを取り出して、ぱちりぱちりと打って遊んで居たことも
ある。さういふところへ誰かが出てくると、さああわてて鉄砲を隠す、本を
繰る、生憎開けたところを読んで居るところと違って居るのが見あらはされ
ると大叱言を頂戴した。
   作家自伝『幸田露伴』(日本図書センター、1999)より引用

【荒木のコメント】
  
幸田露伴は、漢学の先生から素読を習ったのは七歳の年だった、と書い
ています。七歳は、明治七年、1874年のことです。
  幸田露伴は、「文句も口癖に覚えて悉皆暗誦ですから、本は少しも眼を
書物に注がず、口から出任せに家の人に聞こえよがしに声高らかに朗々と読
んで居るのです。」と書いています。意味内容は分からず、ただひたすらに
繰り返し声高らかに、家の人に聞こえるように朗々と読みあげる、親のため
に素読をやっている、喜んで、楽しんで素読をやっているのでないことが文
章から読みとれます。 
  「毎日〃〃朝暗いうちに起きて、蝋燭を小さな本箱兼見台といったやう
な箱の上に立てて、大声を揚げて復読」とは驚きですね。鳩山春子さんの自
伝にもも「朝まだ暗いうちに起床し、朝飯前に、漢文の先生の門が開くのを
待っていた」と書いています。昔の人々の自伝を読むと、けっこう、こうい
う方が多くいたように思われます。通常のありかただっだのかもしれません。


湯川秀樹の自伝から
  一口に四書、五経というが、四書は「大学」から始まる。私が一番初め
に習ったのも「大学」であった。
  「論語」や「孟子」も、もちろん初めのうちであった。が、そのどれも
これも学齢前の子供にとっては、全く手がかりのない岸壁であった。
  まだ見たこともない漢字の群は、一字一字が未知の世界を持っていた。
それが積み重なって一行を作り、その何行かがページを埋めている。すると
その1ページは、少年の私にとっては怖ろしく硬い壁になるのだった。まる
で巨大な岩山であった。
「ひらけ、ごま!」
と、じゅもんを唱えて見ても、全く微動もしない非情な岸壁であった。夜ご
と、三十分か一時間ずつは、必ずこの壁と向いあわなければならなかった。
  祖父は机の向う側から、一尺を越える「字突き」の棒をさし出す。棒の
先が一字一字を追って、
「子、曰く……」
私は祖父の声につれて、音読する。
「シ、ノタマワク……」
素読である。けれども、祖父の手にある字突き棒さえ、時には不思議な恐怖
心を呼び起こすのであった。
  暗やみの中を、手さぐりではいまわっているようなものであった。手に
触れるものは、えたいが知れなかった。緊張がつづけば、疲労が来た。する
と、昼間の疲れが、呼びさまされるのである。
  不意に睡魔におそわれ、不思議な快い状態におちることがある。と、祖
父の字突き棒が本の一か所を鋭くたたいたりしていた。私はあらゆる神経
を、あわててその一点に集中しなければならない。
  辛かった。逃れたくもあった。
  けれども時によると、私の気持ちは目の前の書物をはなれて、自由な飛
翔をはじめることもあった。そんな時、私の声は、機械的に祖父の声を追っ
ているだけだった。(『旅人』(角川文庫)46ぺ)

  暗やみの中を、手さぐりではいまわっているようなものであった。手に
触れるものは、えたいが知れなかった。緊張がつづけば、疲労が来た。する
と、昼間の疲れが、呼びさまされるのである。
  不意に睡魔におそわれ、不思議な快い状態におちることがある。と、祖
父の字突き棒が本の一か所を鋭くたたいたりしていた。私はあらゆる神経
を、あわててその一点に集中しなければならない。
  辛かった。逃れたくもあった。
  けれども時によると、私の気持ちは目の前の書物をはなれて、自由な飛
翔をはじめることもあった。そんな時、私の声は、機械的に祖父の声を追っ
ているだけだった。(『旅人』(角川文庫)47ぺ)

【荒木のコメント】
  漢籍の素読は「少年の私にとっては怖ろしく硬い壁になるのだった。ま
るで巨大な岩山であった」「全く微動もしない非情な岸壁であった」「祖父
の手にある字突き棒さえ、時には不思議な恐怖心を呼び起こすのであった」
「不意に睡魔におそわれ」「辛かった。逃れたくもあった」「私の気持ちは
目の前の書物をはなれて、自由な飛翔をはじめることもあった。そんな時、
私の声は、機械的に祖父の声を追っているだけだった」と書いてあります。
  これ等の文章から、湯川少年がどんなにか辛かった気持ち、どんなにか
逃れたかった気持ち、残酷なほどに痛いほどによく分かります。湯川秀樹さ
んのような大天才がこうですから、まして凡人の大多数は「不意に睡魔にお
そわれ」「辛かった。逃れたくもあった」になること至極当然のもとでしょ
う。


明治初期の素読・暗誦教育への文部省巡視官の批判
(詳細は本HP「明治ひとけた年代、10年代の暗誦教育」を参照のこと。下記
 引用は、そこからです。)

「迂遠ニシテ実用ニ切ナラザル者アリ」としていたように、日常生活にまっ
たく役だたないことばかり覚え込ませている。

漢学を学ぶのは悪いことではないが、「其学ブ所、次第ニ賤民前途生
業ノ目的ト相径庭シ、或遂ニ基本分タル生業を屑トセザル風ヲ長ゼント計リ
難」くなるから宜しくない「次第ニ賤民前途生業ノ目的ト相径庭シ、或遂ニ
基本分タル生業を屑トセザル風ヲ長ゼント計リ難シ」という意見。

「徒ラニ章句ノ諳誦ヲ責メ、生徒ヲシテ無用ノ能力ヲ費サシムル勿レ」とわ
ざわざ指示せねばならなかった。

「専ラ暗記ノミヲ勉メシムレバ、知ラズ知ラズ生徒ノ記憶ヲ偏重ナ
ラシメテ、其理解力ヲ消耗スルニ至ルベキヲ以テラリ」

「諳誦ノ法ハ人ノ性ヲ束縛シテ強テ理会セシムルト云ベシ故ニ諳誦ヲ以テ学
バントスルモノハ其諳誦ノ言語ニ固着スルカ故ニ却テ理会スルニ疎ク遂ニ物
理ヲ推窮熟考スルノ念ヲ失スルニ至ルト其他後世ノ教育家此ノ教授法ヲ不可
トナルモノ亦多シ」

「其書中ノ文章ヲ暗記スルニ止リ、其意義ニ至リテハ措テ問ハザルモノノ如
シ」と、暗誦が事柄の理解に帰着してない点を繰り返し指摘する。

「教員ノ能ク教授ニ勉強スル者ハ頻リニ生徒ニ暗記暗算ヲ教ヘ込ム」と、過
重な暗誦を批判する。

【荒木のコメント】
  要するにまとめると、「漢籍の教える内容は、日常生活に直ぐに役に立
たない事柄である。実利実用に切ならざる遊離した内容である。文章の意味
内容を問うことなく、専ら文章の暗記のみに勉めるだけ、こうした暗誦偏重
は徒に子どもの能力を消耗させるだけだ、子どもの無用の能力を費やすだけ
である。これを年端もいかない小学生に教える・やらせるとは何たること
ぞ」ということになる。



教育勅語の暗記・暗写教育への現場教師らの批判
(詳細は本HP「明治20年代、30年代の暗誦教育」を参照のこと。下記
 引用は、そこからです。)

  明治44年6月から8月にかけて『内外教育評論』誌上で教育勅語の暗
記暗誦が論争された。論争の仕掛け人は同誌主筆の木山熊次郎であった。
木山は
「吾輩が近時頗る寒心に堪えない事は、頻りに教育勅語及戊辰詔書の諳誦暗
写が勧められ、既に発表せられた師範学校や高等女学校の教授要目には、之
を明記せられてある事である。当局者の熱心には感服するが……此の如き
は、真に聖旨を体得せしむる所以でないと思うのである。」
と問題を提起した。

  「十年ぐらい昔から小学校で八釜敷教育勅語を教え暗記さした学校もあ
り、又他方には然らずして、教師が教育勅語の御精神を鼓吹したが、八釜敷
暗記暗誦を強いない学校もある」といった状況があった。

「近頃の如くに教育勅語の暗記暗誦が訓示せられると、一般教育界は、又も
無意味なる暗記暗写をやる事なきや」と暗記暗写一辺倒になるのではないか
との危惧を指摘する。

 『内外教育評論』5−6の論説は「教育勅語及戊辰詔書の取扱法如何」と
テーマを掲げ、在大学院某文学士、文部省視学官の小西重直と小泉又一、
慶応義塾大学教授稲垣末松らの意見を掲載した。暗記暗誦に反対の立場をと
る某文学士は、
「反復練習は教育勅語のありがたみを薄れさせ、ついには何とも感じさせな
くしてしまうとして、「機械的の読み方を生徒に強いて勅語の御精神を吹き
込む」とやり方を批判している。

  小西重直は、「無意味に暗記暗誦しただけでは効果はなく、義理を弁え
たうえでの暗記暗誦でなければならない。」と書く。

 「勅語の御言葉に実際の行為を結びつけるにしても、真に暗記暗誦が出来
て居なければ駄目」だ。

 「暗記暗誦は機械的であって教育的効果が薄弱である。恰も僧侶が経文を
誦するが如く無意味なものである」

 「余り暗記暗誦をせしむることは、至尊に近づき奉るやうで其れが為に却
て尊敬の念を薄くする虞あり」

 「暗記暗誦と云う事は主ではなくして、御精神を銘記し、大御心に答え奉
るのにあるのであるから、暗記暗誦は其の方便として課したのである。然し
ながら唯々御精神を了解したのみで暗記暗誦が出来ないと云う事は宜しくな
い。真に御精神を了解したならば暗記暗誦が出来る筈である……又暗記暗誦
すると云う事に依って、其味が益々深くなり感じも強くなる」

 「御精神を伝える為には勅語に親しませねばならない。敬遠しては駄目で
ある」

 「教育勅語の教授に就いては教育社会では従来色々の苦心をして居るが、
其の苦心をして居る割に効果の伴わないのは、徒に無意味の暗記暗誦をさせ
たり、乃至は余りに分析的に取り扱うやうな方法のみに依ったからであろ
う」

 「暗記暗誦せしめないで、是が実行を期せようとするなどは、恰も種を蒔
かんで実を得るやうと同じである」「教育勅語と戊辰詔書は日本国民の生命
である。して見ればそれ夫れに就て傍ら即ち第二の副業として、読書習字を
やらするも必要な事である」

 「余り無意味な暗記暗写をやらすと、学生生徒は之に慣れて、成程暗記も
すれば暗写もするが、極冷淡に無関係の態度をとりて之をやる様になると思
う」

  小学校1,2年生には勅語の理解ができているはずがなく「小学生には
教育勅語に御示しになって居る諸道徳の観念が未だ無い」

 教育勅語はその主旨を体得すればいいのであって、「何でも彼でも教育勅
語を無理矢理に之を諳誦諳記などなせると、勅語に対する尊厳の念が自然に
起こらぬ」。

 「修身教授の際にでも、生徒が実際に感奮する様な教材を以て、聖旨の示
し給ふ所の道徳的情操を養して置けばよい。……荘厳の式場で今迄多くの学
校でやって居る様に奉読すれば、実は自然に暗記が出来、又常に有難く感ず
るものである。」

  県視学が6年高等生に対して教育勅語の内容を尋ねた際、「田舎の素朴
な純朴なる生徒」は、視学のいかめしい顔つきに「異常の恐怖心」を抱い
ているのに、その人から勅語に関して詰問され追及されて、「全身緊張して
言語も明白なる能はず、大なる圧迫と恐怖とを以って之に対し居」ったとい
う。このような苦しい経験の結果、子ども達が教育勅語にどのような感情を
抱くことになるだろうかと問題を投げかけている。

 毎朝の教育勅語の奉読について
「非常によい様だが私には甚だ以って感心できない」と批判。「毎日奉読す
ると有難味が少なくなる」という批判が一方にある。

  学校側は「毎日奉読さへすれば其趣旨が徹底出来ると思って」小学校1
年生から「奉読」させようとしたが、当の子ども達は教育勅語の読み方も意
味も理解できないでついつい「奉読」中も横を向いてしまう。それに対して
「勅語を奉読しているのに横向いているのは何事だ」と叱責が飛んでくる。
毎朝繰り返すことは教育勅語の「奉読」を形式的にしやすいこと、教育勅語
の意味や読みのわからない低学年生にとって勅語を毎朝「奉読」したり勅語
に頭を下げることは、勅語を「何か知らん有難いもの」として偶像崇拝しか
受け取られなくなり、なぜそれが有難いものか考えなくなってしまう。この
ような偶像崇拝を排すべきだ。

【荒木のコメント】
  要するに一言で言えば「教育勅語を徒に機械的に暗記暗誦を強要する指
導だけでは、教育勅語の主旨・聖旨を体得させて、尊厳の念を持たせること
にはならない。逆効果にしかならない」とまとめられるだろう。



    
「漢籍の素読・暗誦」のメリット


田岡霊雲の自伝から
 
 学校から帰ると、父に『小学』の素読を習うた。飴色の厚い表紙の大
きな本に、重々しい四角な文字が威儀厳然と並んでいるのが、何となく尊い
やうであった。
「小学序、古は」と口移しに教えられるのを、夢中で覚えた。訳も判らず難
しい者とは思ったが、漢籍を習ふといふ虚栄の誇の為に、左程厭だとも思わ
なかった。
小学校へ草子などを入れる文庫と、手習机を持ち込んだ時代であるから、学
問の上に未だ寺子屋時代の風が全くは去らなかった、従って教師の自宅へ
通って、課外に漢籍の稽古をする事が生徒間に競争的に行われた。『国史
略』から『日本外史』『十八史略』といふやうな順序であった。「天地未だ
開けざる時、混沌として鶏子の如し」といふ『国史略』の開巻第一の語を難
しいと思った。 『田岡嶺雲全集・第五巻』(法政大学出版局、1969)より

【荒木のコメント】
 「漢籍を習ふといふ虚栄の誇の為に、左程厭だとも思わなかった」と書い
ています。「虚栄」を国語辞書でひくと「実質を伴わないうわべだけの栄
誉。外見を飾って、自分を実質以上の見せようとすること」とあります。当
時は、学問をするとは漢籍を勉強することであり、漢籍を習うことは、虚栄
心を満足させたのでしょう。また、漢籍を習うことができたのは、ほんの一
部の子どもでしかなかったのでしょう。その見栄を張る慢心から、素読を
「左程厭だとも思わなかった」となったのでしょう。


湯川秀樹の自伝から
  私はこのころの漢籍の素読を、決してむだだとは思っていない。
  戦後の日本には、当用漢字というものが生まれた。子供の頭脳の負担を
軽くするためには、たしかに有効であり、必要でもあろう。漢字をたくさん
おぼえるための労力を他へ向ければ、それだけプラスになるにちがいない。
  しかし私の場合は、意味も分からずにはいっていった漢籍が、大きな収
穫をもたらしている。その後、大人の書物をよみ出す時に、文字に対する抵
抗が全くなかった。漢字に慣れていたからである。慣れるということは怖ろ
しいことだ。ただ、祖父の声につれて復唱するだけで、知らずしらず漢字に
親しみ、その後の読書を容易にしてくれたのは事実である。       
     湯川秀樹『旅人──湯川秀樹自伝』(角川文庫、昭35)49ぺ

【荒木のコメント】
  湯川さんは「子どもの時に漢籍(漢文)に慣れ親しんだために、大人に
なって漢字の多い文章に当たっても抵抗がなかった。その後の読書を容易に
してくれた」と書いています。湯川さんが「大人の書物」と書いている「書
物」とはどんな書物かは分かりませんが、当時から比べると現代の一般的な
書物は漢字の量が減っていることは確かですし、漢語調文体から話し言葉文
体へと変化してきています。「大人になって漢字に抵抗がない」の理由で現
在の小学生に漢籍の素読暗誦を与える理由にはならないでしょう。


谷崎潤一郎の著書から
  古典の文章は大体音調が快く出来ていますから、わけが分からないなが
らも文句が耳に残り、自然とそれが唇に上ってきて、少年が青年になり老年
になるまでの間には、折に触れ機に臨んで繰り返し思い出されますので、そ
のうちには意味が分かってくるようになります。古の諺に「読書百遍、意自
から通ず」というのはここのことであります。
         谷崎潤一郎『文章読本』(中公新書、昭和50)38ぺ

  毎日毎日同じ音色を繰り返し聞くために、音に対する感覚が知らず識ら
ず鋭敏になる。──耳が肥えてくる──のであります。
  かように申しましたならば、文章に対する感覚を研くのには、昔の寺子
屋の教授法が最も適している所以が、お分かりになったでありましょう。講
釈をせずに、繰り返し繰り返し音読せしめる、或いは暗誦せしめるという方
法は、まことに気の長い、のろくさいやり方のようでありますが、実はこれ
が何より有効なのであります。が、そう云っても今日の時勢にそれをそのま
ま実行することは困難でありましょうから、せめて皆さんはその趣意を以っ
て、古来の名文と云われるものを、出来るだけ多く、そうして繰り返し読む
ことです。    谷崎潤一郎『文章読本』(中公新書、昭和50)75ぺ

  多く読むことも必要でありますが、無闇に欲張って乱読をせず、一つの
ものを繰り返し繰り返し、暗誦することが出来るくらいに読む。たまたま意
味の分からない個所があっても、あまりそれにこだわらないで、漠然と分
かった程度にして置いて読む。そうするうちに次第に感覚が研かれて来て、
名文の味わいが会得されるようになり、それと同時に、意味の不明であった
個所も、夜がほのぼのと明けるように釈然として来る。即ち感覚に導かれ
て、文章の奥義に悟入するのであります。(75ぺ)
  しかし、感覚を鋭敏にするのには、他人の作った文章を読む傍ら、時々
自分でも作ってみるに越したことはありません。もっとも、文筆を以って世
に立とうとする者は、是非とも多く読むと共に多く作ることを練習しなけれ
ばなりませんが、私の云うのはそうではなく、鑑賞者の側に立つ人といえど
も、鑑賞眼を一層確かにするためには、やはり自分で実際に作ってみる必要
がある、と申すのであります。
         谷崎潤一郎『文章読本』(中公新書、昭和50)76ぺ

  されば皆さんは、文章を綴る場合に、まずその文句を実際に声を出して
暗誦し、それがすらすらと云えるかどうかを試してみることが必要でありま
して、もしすらすらと云えないようなら、読者の頭に這入りにくい悪文であ
ると極めてしまっても、間違いありません。現に私は青年時代から今日に至
るまで、常にこれを実行しているのでありますが、こう云う点から考えまし
ても、朗読法と云うものは疎かに出来ないのでありまして、もし皆さんに音
読の習慣がありましたら、蕪雑な漢語を無闇に羅列するようなこともなくな
るであろうと信ずるのであります。
         谷崎潤一郎『文章読本』(中公新書、昭和50)38ぺ


【荒木のコメント】
  荒木には、谷崎氏のご主張は素直に納得できます。「今日の時勢にそれ
をそのまま実行することは困難でありましょうから」と書いて、昔の漢籍の
素読そのままを現在の子どもに当てはめようとはしていません。「古来の名
文と云われるものを、出来るだけ多く、繰り返し読むことです」と書いてい
ます。まったく同感です。
  谷崎氏は名文を暗誦するくらいに繰り返し読むと、文章感覚が磨かれ
る、と書いています。そのとおりで、良い文章と悪い文章を区別できるよう
文章感覚が身につきますし、よい文章を舌で転がして繰り返し音読して文章
のリズムや音声の響きを意味内容の深い味わいと共応させて楽しむことがで
きます。それが自分が文章を綴るときにも影響を与え、知らず知らずにそれ
を手本(典則)として使って書いたり話したりするようになり、身体化血肉
化されて役立ってきます。
  自分の書いた文章を自分で推敲するときに音読してみると、音読がすん
なりといかない、つかえる個所は意味内容のつながり具合がうまくいってな
い、まずい、文章記述の個所で、そこは書き直すべき文章個所です。こうし
た発見は、名文を暗誦するほどに繰り返し音読しておくことによって後日に
その効用が無意識に発揮され、いつのまにか応用しているようになります。
また、自分の文章に名文のワン・フレーズを挿入してみたり、名文の文章構
成を変形して利用したりすることもできるようになります。
  名文とは何か。大日本帝国が学校教育で暗記暗誦を強制した教育勅語は
名文か。軍人勅諭は名文か。これには意見が分かれるでしょう。明治憲法は
? 昭和憲法は? これらは時勢の流れによって大きく転変してきました。
昭和憲法は発布当時は日本国民全体が大歓迎しましたが、現在は護憲と改憲
とに国論が大きく二つに分かれています。
  国語教科書から夏目漱石や森鴎外の文章が消えた(少なくなった)、と
社会問題になったことがあります。夏目漱石や森鴎外という作家の文章が名
文で、現在生存し
活躍してる作家たち、児童文学者たちの文章は名文でないのか。現行の国語
教科書の文章は名文と言えないのか。名文とは何か。何をもって名文と言う
のか。これは甚だ厄介な問題です。この問題を正面にすえて問うた識者のご
意見を読んだことがありません。これを問うことなく、みなさん、名文の暗
誦をご主張なさっています。避けて通っているのが現状です。一般常識で名
文と言われているような俗説、ポピュラーな俗説、というようなものはあり
ます。名文の概念規定は、その個人の主観性の強い受けとめ方・使われ方を
しているのが現状でしょう。


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